2018082521世紀の貨幣論

歴史と向き合う

歴史を「再編集」する。
すなわち、現実を見据え、歴史学ぶために歴史学ぶ。

『21世紀の貨幣論』の読書は、誠実な知的刺激に満ちたものでした。著者のフェリックス・マーティンは、すこぶる誠実な未来主義者(≒資本主義者)だという印象を強く持ちます。


本書における「再編集」のメインターゲットはジョン・ロックです。世界史を「お勉強」した者であるなら、誰もが知っているはずのジョン・ロック。ほとんどが名前しか知らないジョン・ロック。スカッとカッコがいい響きのおかげでよく憶えているジョン・ロック。

ぼくも、その「ほとんど」の中のひとり。
でも、そんなことに関係なく、本書は楽しく読むことができます。


著者の主張はこうです。

ジョン・ロックはイギリス名誉革命に理論的正統性を与え、民主主義を基礎づくりに大いに貢献をした。が、そのジョン・ロックも大きな誤りをひとつ犯していた。

すなわちその貨幣観。

ジョン・ロックの誤解の影響は大きく後々にまで響いて不適切な貨幣政策(金融政策・財政政策)の震源となり、現代にまで及んでいる。金融モラルハザードの震源はジョン・ロックの誤りにある。

金融モラルハザードとは、リーマンショックのときに露わになったアレです。金融セクターが大失敗を犯したのにもかかわらず、世界秩序を守るために加害者を救済して被害者により大きなシワ寄せを寄せるしかなかったという、アレです。


モラルハザードに対して批判に終始せず、その震源を突き止めようとする誠実な知的態度は、敬服に値すると思います。その姿勢は「歴史に向き合う」姿勢だと思います。


▼ 人間は向き合いたいものと向き合う

本書の最終16章は、「マネーと正面から向き合う」とタイトルされています。

この章は友人との対話という体裁で、それまでの理論展開のまとめがなされている。この対話に、ぼくはちょっと引っかかりを覚えました。

友人は著者に対して、ジョン・ロックは「殺人」を犯したのではないかと疑問を呈します。

「それはわかる。しかしだな、だとしたら、なぜロックの貨幣観が定着したんだ? さっきも言ったが、ロックの貨幣観が明らかにまちがっているのなら、なぜだれも、『ロックが言っていることは正しくない。マネーは銀じゃない。譲渡できる信用だ!』って声を上げなかったんだ? というより、むしろ、なぜだれもラウンズのことを信じなかったんだ?」

集団妄想による誤認

「いい質問だ。答えの一つは、もちろん、ロックの威信だ。ほとんどの人にとって、ロックはものすごい権威だった。金融の専門家がロックは金融の権威じゃないと思っていたとしてもだ。
(中略)
だから、正しい貨幣観が隅に追いやられたとしても、それは殺人ではないし、ジョン・ロックは殺人犯ではないと思うんだよ、ムッシュー・ポアロ。これは事故死と判断すべきじゃないか。標準的な貨幣観が取って代わった顛末もそうだ。おまえの言うとおり、殺人があったのなら、完全犯罪になっていたんだろう。しかし、本当は事実誤認なんじゃないか。集団妄想による誤認。」

すこぶる面白い問答です。でも、ここで終わる。「集団妄想による誤認」がファイナルアンサーになっています。討論はこれでおわりではないのだけれど、話の筋はズレていく。


その「ズレ」は、「マネーと向き合う」という意味においては決してズレではないでしょう。現代の現実の問題へと話はシフトしていくわけだから、むしろ「マネーと正面から向き合う」ことになっていきます。

でも、ぼくはこの姿勢には引っかかりを覚えないではいられない。「集団妄想による誤認」が事故だというのなら、「愛国無罪」だって事故だということになるのではないか。


★ 「歴史と向き合う」ことは「人間と向き合う」こと

「愛国無罪」という言葉には、日本人の身を強張らせるものがあります。ぼく自身にはさほど「愛国」の意識はなく、それどころかアナーキストを自認しているくらいではあるけれど、それでも「愛国無罪」という言葉には身構えるものを覚えざるをえず、日本(という風土)への帰属意識があることを自覚することになります。

「愛国無罪」は、どう考えても「集団妄想による誤認」です。けれど、「愛国無罪」を事故だと思う者はいないでしょう。それは明確に「とある人間(の集団)」に向けられたものだから。明らかに故意だから。

故意であるはずのものに事故を装うことは、不誠実な態度だと言わざるを得ません。「集団妄想による誤認」であったとしても、そこには何らかの原因があったはず。そしてそれは、人間の歴史である限りにおいては、「人間に向けられたもの」であるはずなのです。

「愛国無罪」はこのことをよく知らしめてくれる。「知らしめてくれるもの」だと受け止めることが「歴史と向き合う」ということです。フェリックス・マーティンもそのように受け止めたのだと『21世紀の貨幣論』を読んで思います。彼の場合は金融モラルハザードを。

ただ、「人間に向けられたもの」であることは見落としていると思う。ジョン・ロックの見落としを集団妄想による事故だとして終わらせてしまう態度は、この見落としの為せる技だと考えます。


☆ 資本主義の源流

では、ジョン・ロックをして見落とせしめたもの、当時の西洋文明人たちを集団妄想へと導いた原因を、「人間に向けられたもの」として見るならば、「愛国無罪」と同様に「人間が人間に向けたもの」としてみれば、何が見えてくるのか。

資本主義というものの「源流域」が見えてくるのだと思います。資本主義という特異でかつ強力な思想潮流が、なぜヨーロッパに、なぜこの時期に生まれたのかが見えてくる(と考えます)。

そして興味深いことに、ここの部分は『21世紀の貨幣論』では触れられていない部分でもある。


『21世紀の貨幣論』における「再編集」のターゲットは、人物でいうならばジョン・ロックです。制度の面でいうならばイングランド銀行の設立。

「ジョン・ローの失敗」も重要なターゲットですが、こちらはむしろ「再編集」後の見え方の違いを明瞭にし、かつ、金融制度の新たなイノベーションの糧という捉え方をされています。

イングランド銀行は歴史に初めて登場した中央銀行ですが、『21世紀の貨幣論』では、このイベントに「マネーの大和解」というタイトルを付けています。

この「和解」がどういったものなのか。「人間と向き合う」という視点で見たとき、大切なことを書き漏らしているようにぼくには思えます。


次回に続きます。

感じるままに。