2020年11月 「私の親友」。

画像1 私には 1人、親友と呼べる昔からの友人がいます。私、人前では 彼に 決して親友という言葉を使いませんが、彼は いつも私のことを 親友と言って紹介してくれます。
画像2 中学生だった頃 彼の家に遊びに行った時には 良く ビートルズのレコードを聴いていました。「レット・イット・ビー」、「アビイ・ロード」といったLPレコードの曲を 2人で 何となく適当に歌うのが楽しかった。それは当時 ベースを演奏していた 彼のお兄さんが持っていたレコードでした。 その親友のお兄さんに 30年ぶりくらいに会いました。途中から 当時は彼女だった お兄さんの奥さんも加わって昔話で盛り上がる。
画像3 ビートルズの他に ピーター・フランプトンのライブ・アルバムなどを良く聴いていた と お兄さんに言うと… 「あれっ、僕も一緒に聴いてました?」 と不思議そうです。「いえいえ、聴いていたのは いつも私たち 2人だけでしたよ。」当時、レコードは針で再生していたので 過剰に使用するとレコード盤に傷がついたり 音飛びが発生したため お兄さんが家にいない時は 弟にステレオを使わせてなかったという話でした。
画像4 どうやら お兄さんが大切にしていたレコードを 弟が留守の時を狙って 勝手に聴いていたみたい。 「ま、まずかったですか…💦」。「いやいや、聴いてもらって大丈夫だったから…」。今となっては 懐かしい話で大爆笑です。短い時間でしたが 昔話に花が咲きました。
画像5 そうしているうちに セレモニーの定刻になったので 私達は 自分たちの座席に戻りました。すぐに セレモニーが開始されました。そして、予定通りに終了。もう どうにも涙が止まらない素敵なセレモニーでした。その後、私は会場の外へ出て 車を見送りました。
画像6 車のクラクションが 大音量で長い時間、鳴り響く。私の大好きな親友を乗せた 黒い霊柩車と お兄さんたち遺族を乗せた送迎車は 葬儀場から火葬場へ向かって走って行きました。2018年11月に行われた セレモニー ~ それは 私の大切な親友の告別式でした。
画像7 2016年11月、サッカー J1昇格プレーオフ準決勝 キンチョウスタジアムで行われたセレッソ大阪と京都サンガの試合に出かけようとした時、親友の奥さんから 連絡がありました。「 うちの主人が どうしても ぐるぐるさんに会いたいと言ってます。 」話を聞けば 前日まで病院の集中治療室に入って生死の境を さまよっていたのですが、この日 やっと一 般病室へ移ることが出来たとのことでした。
画像8 彼が闘っている病名と これまでの手術内容を聞いてインターネットで調べました。それは 再発性が高く ムチャクチャに厳しい病気でした。10時間近い大手術の末、生命だけは助かったそうです。そんなこと全然 知らなかった…。私はセレッソ大阪のピンク色のユニフォームを置いて すぐに彼が入院している和歌山にある病院に行きました。
画像9 個室のドアをノックすると「 はい、どうぞ。 」 と彼の声が聞こえました。私が部屋に入ると 親友はベッドにいて 「 お前が来てくれと思ったから つらい手術を頑張ったんやぞ! 」と叫ぶ。「 あぁ、すぐに会いに来て良かった。 」それから何時間も、これまでの闘病生活のことや 昔の話をしました。(この写真は その時に一緒に撮った写真。その後、病室や自宅に ずっと飾ってくれていました。)
画像10 2017年、ゴールデンウィークに東京ドームで行われた 元・ビートルズの ポール・マッカートニー「 ワン・オン・ワンツアー 」。
画像11 このコンサートの先行抽選発売で アリーナ席のチケットを 2枚ゲットできました。
画像12 「 一緒に行こう! 」 と声を掛けると「 ぜひ、行きたい。」との返事。途中で病気が悪化した時のことを考えて、彼の奥さんにも同行してもらいました。移動は飛行機ではなくて 途中下車が可能な新幹線を利用。宿泊するホテルも 出来るだけ病院が近いところを探して予約しました。
画像13 彼と 2人で念願だった ポール・マッカートニーのライブコンサートを楽しんで満足感いっぱいでした。
画像14 コンサート会場で買った ポールの来日記念Tシャツです。私、これを着て コンサートに臨みます。
画像15 でも… 彼が 前もってビートルズの Tシャツを買って持って来てくれていたので こちらを着てコンサートを観ました。
画像16 それから 東京スカイツリー、東京ソラマチに行きました。
画像17 浅草寺、雷門、仲見世通り~ 浅草にも 行きました。
画像18 帰りの新幹線は 彼のリクエストで ウナギ弁当。これは 美味しかった~🍱 私たちには とっても価値のある 東京旅行になりました。
画像19 私が通っていた大阪のイタリアンレストランに行きたいと彼は言っていました。(昔は 彼もこの街に住んでいましたから…)人気のある店で いつも満員になる 小さなレストラン。開店時間以外の予約は受け付けないシステムの店なのですが 何度も頼み込みました。ダメと言われたから 詳しい事情を説明した手紙を書いて お願いして やっと 和歌山から来る彼が 行くことができる時間に予約を入れてもらえました。(絶対に 他言しないという お店との約束でした…)
画像20 また、2人が昔 住んでいた 懐かしい地元の中華料理店や定食屋さんへ 彼の息子さんにも同行してもらって 一緒に行きました。「もう一度だけ 食べに行きたい。」という 彼のリクエストでした。
画像21 2018年6月のある日、何度 連絡しても返信がなかった親友から LINEが来た。それは このような内容でした。「実は 今年の 2月に病気が再発して、通院で治療中です。(中略)必ず復活する と強気で頑張ります。そっと見守って頂ければありがたいです。」あぁ、とうとう 病気が再発しました… (この写真は 彼が送って来てくれた「和歌山 あら川の桃」。 )
画像22 結局、これが 彼からの最後の連絡になりました。お別れのセレモニーの時、彼の奥さんも お兄さんも言っていた。「もっと してあげられる事が いっぱいあったように思う…」。でも 皆、一生懸命に 彼を応援していた。もちろん、私も… <この写真は ニューヨーク セントラルパーク ~「イマジンの碑」(ジョン・レノンの碑)>
画像23 最後のお別れセレモニーの時。 彼の お棺の中に ニューヨークの ダコタ ハウス近くで買った ジョン・レノンのプレート(2つ購入して ひとつずつ持っていました。)と ビートルズ「アビイ・ロード」のレコード盤を入れさせてもらいました。(レコード盤は 火葬場の規定で許可されないので 出棺時は取り出しましたが、ずっと祭壇の横に飾ってもらっていました。)お兄さんの弔辞も 娘さんの弔辞も 愛情にあふれていて涙がでました。そして お別れの時。
画像24 私が 一番大好きだった大切な親友、今まで ありがとう。そして… 「さようなら。」
画像25 あの彼のセレモニーから ちょうど 2年が経ちましたが 今でもこの 2人の写真は 私の部屋にずっと飾っています。(申し訳ありませんが この記事は「コメントなし」でお願いします。)

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