戦国武将に学ぶ!No.34~本多正信②~
”軍師” こと、株式会社GUNSHIコーポレーションの社本です。
このnoteでは経営者の軍師としての目線で、
これからの時代を生き抜く戦略を発信しています。
私は日ごろより周りの方々から
”軍師” というニックネームで、
お呼びいただいています!(笑)
社名であることもその理由ですが、
私は自他共に認める歴史好き!
とくに戦国時代が好きです。
今回は、私が好きで見習っている、
学んでいる武将や軍師を紹介するシリーズ。
ぜひ最後まで楽しんでいただけたら幸いです。
■有能な行政官
今回ピックアップするのは、本多正信!!
以前の記事にも書いていますが、
本多正信は徳川家康の軍師でした。
一度は家康の元を離れましたが、
のちに家康の元に戻りました。
出戻りであることで周りから
疎まれていたところはありますが、
最後の最後まで家康を支えた
忠誠心の高い人物です。
出戻ったときに与えられた石高は
わずか40石だったのですが、
その後約10年で1万石を超え、
最終的に2万2000石を与えられました。
それほどに行政官として有能だった証拠です。
しかし正信は、
これ以上自分の石高が上がれば
戦地で活躍する武将たちからの
反感を買うと思い、
「(自分の分はいいから)
戦地で活躍する武将たちの
石高を上げてやってほしい」
と自ら石高の取得を辞退していたと
されています。
家康が天下を取る少し前、
小田原征伐に勝利した豊臣秀吉は、
家康に江戸へ行くように命じました。
三河や浜松などの東海圏で活躍していた
家康は、初めての江戸という土地で
国づくりを任せられたのです。
この流れは、その後の来たるべき
江戸幕府の礎になったことは
言うまでもありませんが、
そのバックヤードで活躍し
共に江戸幕府をつくったのが
正信でした。
周囲の嫉妬を受け石高を辞退するほど
有能な正信と家康は、
いわゆる「水魚の交わり」だった
と言われているほど、
お互いになくてはならない
師弟関係を築いていたとされています。
■末永く続く平和のために
とはいえ、家康と正信の意見が
合わないときも当然ありました。
そんなとき正信は、
家康に反対意見をストレートに
告げていた…わけではなく、
聞こえないふりをしたといいます(笑)。
そうやって議論には応じず、
家康が考えを改めるような瞬間を狙って、
すかさず「それは良いですね!」と、
正しい判断ができるよう盛り上げたと
いわれています。
また、問題に直面したときの最適解を
正信は知っていたとしても、
絶対にそれを自らは言わず、
家康を上手く導くことで
家康の口から家臣たちに伝えさせ、
家康をたてていたのです。
家康の転がし方が上手いというか(笑)、
そんなところが本当に勉強になる武将ですが、
家康ばかりに心を向けていたわけではなく、
敗者への配慮を絶対に忘れなかったところがまた、
正信の素晴らしいところだと思います。
関ケ原の戦いで家康に敗北した西軍、
石田三成の嫡男、重家を赦し
助命しました。
同じく西軍だった直江兼続の娘には、
自分の次男を娘婿として送り、
それを理由に経済的支援をしていたと
されています。
なぜこんなことをしたのでしょうか?
それは徳川家が末永く繁栄するためであり、
後に起こる可能性のある争いごとを
できるだけなくしていくことで
叶えようとしたからではないでしょうか。
末永く平和が続くイメージを
家康とともに描き、
周りに疎まれながらも行政官として
陰ながら立派に支えた正信…
正信のような軍師になりたい!!(笑)
以前に書いた本多正信の記事もぜひ!
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