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自分を掘り下げても繋がらないと意味がない

このマガジン「単なる楽しみ“歌系”から自分観察」を思いついた動機のひとつに、歌のご指導をいただく中で、「それって、歌の話だけではなくて、人生論じゃない」と思うことが数多くあったことがあります。そのままだと、くどくなるかな、と思って、備忘録目的の私の記事ではありますが、やや日記とか回想録的にしています。でも、これはストレートに綴っておいた方がいいな、と思ったので、そんなことをちょっと言及して。

人との繋がり

いろいろな意味で、いろいろな場面で、特に最近、人との繋がりというのを意識しています。
21世紀に入ってから、“1年を象徴する言葉”などに「絆」が選出されたりしています。ビジネスという無味乾燥な世界でも、ネットワークの重要性が評価されていたり。だから、私だけではない、生き方のテーマの重要なポイントになっているとも思います。

発表会前のとおし練習

その意義

先日も記事にしましたが(こちら)、現在ご指導いただいている教室の、年に1度の発表会が、あと1週間となりました。

10月1日は、その「とおし練習」でした。これは、この教室では恒例行事で、生徒同士がお互いの発表を聴く。それは当日もできるわけですが、本番前の練習の過程でこの機会があると、発表側は身内とはいえ聴衆がいる場面での練習になります。もちろん、身内だから、それなりに本音の意見交換もできます。そして、聴く側としても、ご指導の先生の言葉の意味の確認など、同じ指導を受けている他の人の表現をみると気づくことができる場面もあります。
そんなわけで、私には、本番よりも実は楽しみなイベントです。

自分が切ないだけでは発表ではない

さて、私自身、今回はイタリア歌曲1曲アリア1曲、そして、今回は教室の発表会10回記念ということで、カルメンダイジェストを演りますが、そこでは、著名な5重唱の一人として参加します。
(ちなみに、それぞれにリンクをはっていますが、模範演奏というか、私が参考にしたそれぞれの Youtube 動画のリンクです。)

とおし練習ですから、本番の順番で(3部構成なので、1部ごとですが)実施された10月1日の練習。

1部がひととおり終わったところで、講評(ダメ出しともいう)がありました。発声の準備が不十分だったことは、自分自身でも感じていましたが、これは、「全員が」という講評でした。その他、ちょっとあそこが…みたいな自己反省はあったのですが、講評ではそれは指摘されず(諦められた?)。

個別には、1曲目は「自分の世界で歌っている」という評価をいただきました。この批評は、ちょっとしんどいなー、というものでした。

と、いうのも、上記の参考音源を聞いていただければわかるように、切なく、絶望の渕にいる中の心情を歌った歌、です。だから、練習初期段階から「もうイタリアの演歌だから」と、さすがにコブシは使わないまでも、ほとんど演歌を歌うような気持ちで、実際に歌ってみました(と、いっても、私は演歌は苦手、と、いうよりほとんどしらないので、そんな雰囲気、というだけですが)。普段、カラオケなどではちょっと仕込むこともある表現上のテクニックも使ってみたり(はじめてだな…発表会で歌う歌曲でこれをやるのは。実は、これは今回、ちょっとした心境の変化があって、「やってみよう」と思ったことなのですが、別の機会にひとつの記事にしてもいいかも)。だいたい、歌での表現は「やりすぎたら言うから、やり過ぎだと本人は思うくらい大げさにやってみること」と、何度も、どの先生からも言われます。だから、やりすぎならば、1日に指摘されるだろう、くらいに思ってやっていました。

だから、微妙な音程とかリズムの課題はあるかもしれないけれど(だから、そこを指摘されることは覚悟していたのに)、表現については、やるだけのことはやった。そう思っていた訳です。それなのに「自分の世界で歌っている」という講評のひと言。まだ足りないか…。

でも、聴いてくれていた同門の仲間からの意見などを聞いて、その意味がなんとなく見えてきました。悲しい、切ない、苦しい。その気持ちは、表現していることはわかったようです。だけど、それが自分が苦しい、悲しい、切ない、というだけで、聴き手にメッセージとして伝わってこない。いわば、“私は不幸な人なの”、と、自分で自分の殻に閉じこもっているような状態だった、といえるのではないかと思います。
ここは発信をしないと。聴衆にメッセージを伝えないと。自分が悲しい、切ない、苦しいというものを「見て感じとって」という姿勢ではNGなわけです。

さて、ダメ出を受けて、再度部分的に歌ってみることになりました。

客席の具体的一人に語りかけてみて、とか、発声も少し前に押し出してしまっていないか(しばしば余計な力がはいってバランスがくずれると前に押しすぎと言われ間)と思うくらいに積極的に。とにかく、伝えるということをもっともっと意識してやってみました。
そのときに感じたのは、聴衆の表情が違うこと。投げかけないと、返事はない。見てくれるのを期待して、返事をまっているのではダメなんだ!!
そして、門下の中でもあがってしまう私なのですが、このときは、あがりは少なくなっていました(だから、あがっているとできない p の繊細な表現などは、イメージとおりできてしまったり)。なぜ少なくなったのかといえば、聴衆の表情が違う(聴衆からの投げかけを感じる)から、その変化にこちらが乗せられて、集中できることが大きかったのではないかと思います。そして、終わったあと、聴いていろいろコメントしてくださった仲間から、(これはもう感覚的にわかるとしかいいようがないのですが)屈託も忖度もない言葉で「よかったよ」とひと言いただけたことはなによりも大きなできごとでした。

生き方、生活の仕方を振り返る

1日のとおし練習では、たくさん生き方、生活との接点を感じることがありました。たくさんありましたが、1つに絞って。それが、タイトルにした繋がること、繋がり方のこと。です。

自分自身をどんなに深めて、掘り下げて、理解しても、人との繋がりがないと、なんの意味があるのだろうか、いや、ない。それが、私が「自分の世界」と評されたところ、その状態です。
ただ、掘り下げるだけでなく、きちんとそれを表現すれば=自分を深めて掘り下げて理解した状態ならば、人はそれに気づいて声をかけてくれることをまっていました。でも、それはなにもしていないのと同じだな、ということを強く感じました。自分から発信しないと。
永遠のテーマでできないかもしれない。でも、それを望むことはできる、ということも、私はよく口にするのですが、望む力が弱すぎたかな、と思いました。

と、いうように、趣味を通して、趣味の向上に関することは、生活すること、生き方、死に方にそのまま直結することを体験する場面であることが多いのです。


冒頭の写真は、みんなのフォトギャラリーで「つながる」で検索してきた中からお気にいりを使いました。提供に感謝いたします。

発表会PR?

ちなみに、著名なゲストも出演されるので、今回は発表会といえども有料です。多少、チケットは残っているようなので、もし、聴いてみるか、という物好きな方がいらっしゃいましたら、コメントやメッセージをください。

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