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「やらなければいけない」がない教室

とある高校でのお話

普通の社会人

校門をくぐり、学校に入ると、すれ違う生徒たちが挨拶をする

「こんにちは!」「こんにちは!」

そんな僕は社会人

どこにでもいそうな普通の社会人

ちょっと業種は変わっているけれど

学校に呼ばれる人は凄い人というイメージがあるかもしれないけど

この高校には僕のような普通の社会人が授業に参加している

どこかの芸能人や、どこかの実業家や、どこかの社長ではない

生徒たちは先生でもなく、凄い人でもない普通の社会人と関りを持つ

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先生がいない授業

そんな学校での1授業が始まった

その教室のスピーカーはもちろん社会人

学校の先生ではない(常にではない)

そしてゲストの社会人も生徒に何かを教えに来たわけではない

社会人は、自分達の生い立ちや仕事のこと、各々の価値観を語る

生徒たちはそれを聞いてその価値観に触れ、自ら考えてワークを行う

誰も何も教えていない、先生がいない授業

「やらなければいけない」がない教室

でも生徒たちは、自分の中にある意思を探し、言葉にし、行動する

正解もなければ、失敗もない

生徒同士の意見がまたいろいろな想いを巡らせて感情に色どりを添える

自分と向き合い、他人の声に気づきを得る

常にスキルが求めれ、自分と向き合う時間すらろくに取れていない大人

失敗に対する苦手意識が育った僕ら社会人には気づきの多い空間だ

一人の人間

僕が入った教室には、学力が危機的な生徒が少し多いようだったが

生徒一人一人は、自分の想いと向き合い

なぜそう思ったのかを表現することに一生懸命に取り組んでいた

わからないことは自分でスマホなりを使って調べて

教科書には載っていない新しい世界を覗いている

放課後、そんな生徒の一人が、自分で調べたものを僕に語ってくれた

その生徒に教えてもらった知識は忘れることがないと思うほど記憶に残った

そんな生徒たちを見て、話をして、

学力のようにスキルや経験値で人を推し量ることなく

一人の人間として、人と接することの大切さを改めて感じた

どうしたいかという意思

他の教室の授業では、少し難しい機器を扱ったようだが

生徒たちは説明書も読まず「えいッ!」と平気でボタンを押すようだ

僕は社会人になってからというもの

「失敗しないように」「どうするべきか」ということを考えてしまう

しかし生徒たちは「どうしたいか」をよく考えていた

「使い方がわからな~い」と言いつつ、理解したら黙々と作業に入る

やる前から正解を探しに行っていないのだ

良いものにするためとか、間違えないためとかに囚われて

出だしから足が止まったりしていなかった

彼らはゆっくりでもしっかり歩いている

歩き出した先に、どうしたいかが見えてきた雰囲気を感じた

いかに「失敗への不安」「正解探し」が初動を鈍らせているか気づかされた

生徒に対し「どう接するべきか」を考えていたこともあった

でも「どう接したいかでしょ?楽しもうよ」とういうこと

それが一番の学び

どうしたいかという自分の意思を持つことは大事なんだ

お互いが学び合える学校

学校で先生が生徒に教えられることには限界がある

決められた教科書、並べられた進路、みんな同じ制服

目に見える順位、見えない社会と大人、生まれ育った環境

他にも様々な要素が、若い可能性を閉じさせてしまっていると感じる

子どもは多様な大人と触れ、社会にもっと色々な可能性を感じてほしい

大人は子供に触れ、忘れている何かを取り戻してほしいと思う

大人も子供も、お互いが学び合える学校があったら素敵じゃないですか?

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「週1note」という、週に1回noteを更新する企画に参加しています。

以下より、参加メンバーのnoteが見れます('ω')ノ


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