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試して、考えて、やめたらいい

 私はお茶が好きだ。
 でも誰かに「お茶が好き」と言うのは勇気がいる。
 電子レンジで水をティーパックごと温めて、そのあと牛乳を注いでミルクティーを作っていると友人に話したことがある。それを聞いたお茶好きの友人の声が半音下がっていて、私はお茶好きと名乗ってはいけないのだと感じた。

 気分がいい日は小鍋でとっておきの茶葉を煮るし、丁寧に淹れたミルクティーの美味しさだって知っている。
 だけど、毎日は無理。基本はお湯を沸かすのも億劫なズボラ人間なのだ。

 小説の執筆だってそうだ。
「作品と向き合うために孤独な夜を知るべきだ」と聞いた。プロの作家は何時間もひとりで言葉を紡ぎ続けていると知った。
 でも私はひとりが苦手だ。執筆しようとパソコンに向かっても人の気配が恋しくて集中できず、通話アプリ内でオンライン状態のアイコンを探してしまう。

 調子が悪いときは1日100文字も書けない。コンテスト応募に向けて設定した締め切りがジリジリと迫ってくる。日に日に書くのが辛くなって、それでも書かねばと筆を握りしめて、結局折れてしまった。

 書けない自分を認めたくなかった。書けないと認めてしまったら、もう「小説を書くことが好き」と言ってはいけないと思った。
 落ち込んでいたところ、尊敬するクリエイターの方と話をする機会に恵まれた。その方はとても楽しそうに創作活動をされていて、何かヒントを得られるのではないかと思い、悩みを打ち明けた。
 私の話をすべて聞き終わったあと、彼女はとても不思議そうな声で言った。

「カフェでも、図書館でも、公園でも、1人の部屋でも、作業が進むならどこでもいいんじゃないですか? ひとりでいることにこだわる必要はないと思いますよ」

 視界が広がるのを感じた。それからは肩の力がすーっと抜けて、キーボードを叩いている内に1000文字を超えていた。

 私はひとりが苦手だ。でも執筆前に少しだけ人と会話をすると、あとは集中モードのスイッチが入るらしい。ときどき人の気配を感じるためにコーヒーチェーン店で執筆をする日もあったけれど、その選択は本当にどうしようもないときの切り札にしていた。
「ひとりでなければならない」という固定概念にとらわれず、自分に合わないと認めて、さっさと別の方法を探すべきだった。有名な作家と同じでなければ「小説を書くことが好き」と言ってはならないと勝手に決めつけていた。そんなことまったくないのに。昔から人の言葉に引っ張られすぎる気がある。
 例え誰かが私のやり方を否定したって、これが今の私に丁度いいのだから仕方がないとようやく思えるようになった。

 その日の夜、今の私が心躍ることについてを考えてみた。
 私はコンテストに応募してプロを目指すよりも、たった1人でもいいから私の書いた物語を読んでくれることを想像した方がワクワクする。
 書いた小説をネットで公開して、いつか印刷所にお願いして本にしてみたい。それができたら即売会にも参加してみたい。
 これが今の私の新たな目標であり、胸が高鳴る道だ。

 苦しんだ期間を無駄だと思わない。
 できない自分を認める、そしてできることに目を向ける大切さを学んだ。
 無理だと感じたときは立ち止まって自分を見つめ直すことを学んだ。

 この先、辛くなって執筆をやめてしまう可能性はある。
 色々試して、たくさん考えた結果なら、できない自分を認めて書くのをやめたらいい。
 小説を書くことが好きじゃない自分に寂しさを覚えてもいいけれど、責めたりせず、別の道で胸が高鳴りを信じて歩けばいい。

 この記事を書きながら電子レンジで温めたミルクティーを飲んでいる。
 私はお茶が好きだ。
 自分の「好き」に背伸びする必要なんてどこにもない。

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