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ふたつの宇宙空間をみている

 ピピロッティ・リスト展、わたしはもう行くのをあきらめていたんです。ところが昨日の二限終わり、ふとTwitterを開くとこんなつぶやきがありました。

 これを見てわたしは猛烈な行きたいという気持ちに襲われました。平日の昼間から京都に遠出なんて、不安症で電車が苦手なわたしではありえないことです。それでも、行こうと思ったのです。

 案の定わたしは地下鉄に乗るのに苦労します。閉鎖空間として地下鉄は最高の空間ではないでしょうか。トンネルに閉じ込められ、さらに電車にも閉じ込められる、窓の外は底のない暗闇、轟々とした音が不安をさらにあおります。わたしは何度も息がつまり、逃げたくなるからだの感覚を必死に抑えました。

 そして着いたのです。

作品との距離感について

 わたしは、作品を観たときにその作品の世界の中にとりこまれる感覚をよく味わっています。以下の記事でもその感覚について言及していると思います。

 没入感というのでしょうか。展示物がつくり出す空間の中に自分もいて、世界が自分と作品だけになるような感覚です。

 これは「よくある」感覚なのです。だからこそ、ピピロッティのたくさんの映像作品にその感覚を感じなかったのが、とても不思議でした。

 「映像をみている」という感覚でした。わたしは今、映像作品を見ている。映像の中で展開される感情は、映像のままわたしの目をすりぬけて脳へ流れていく。わたしは作品との間に少し距離を感じたのです。展示物がつくり出す空間とは別の空間にわたしが存在しているということです。

なぜこんな感覚になったのだろう

作品+他人+自分

 作品と距離を感じる理由は、作品が、作品とわたし以外に他の鑑賞者の存在を想定しているからなのではないかと感じました。展示は、鑑賞者が作品を鑑賞する方法も提示されていて、クッションがいくつもおかれてあったり、ベッドに寝そべって鑑賞する作品もありました。ちなみにこの展覧会ははじめから靴を脱いで鑑賞することになっていました。美術館の中をくつしたで歩いてまわって、家の中を歩き回るようなふうに日常空間に作品が存在していました。ただそこには日常空間と違って他人も存在していました。
作品ははじめから、他者と自分と作品自体とで構成されているのです。

 だから、わたしが作品側の世界に行くことはありませんでした。他人の存在をずっと感じているから、自分以外の鑑賞者と同じ現実世界にとどまってしまうのです。
 これによって、作品の空間と"わたしたち"の空間二つが存在することが明らかとなりました、それはつまりわたしは他者と同じ地を踏みしめ、同じものを眺め、同じ音を飲み込んでいて、わたしと他者との違いはなくなる、わたしと他者は溶け合ってひとつに融合しているのではないか?

 そこにあるのは一つの脳、なのでしょうか🧠

例外

 ただひとつ、例外もありました。ちょうど入って一番初めにある作品「眠れる花粉(Sleeping Pollen)」。以下作品の解説文から引用。

天井からさまざまな高さに吊られた鏡面状の球体が壁面に植物を映し出す。投影されるみずみずしい枝葉や花、光の粒のイメージは固定された位置にとどまらず、ほかの球体やその間に踏み込んだ鑑賞者の身体を媒介として空間のなかを漂う。リストはこの銀色の球体を「冬の間、植物が暗闇のなかで安心して眠るための電動ベッド」と喩え、「植物の見る夢が空中をゆっくりと回転している」のだと語る。
作中に映し出される植物は、生命科学の研究機関であるチューリヒ応用科学大学付属植物園で撮影されたもので、そこで起こることはまさに魔法だとリストは語る。植物の密かな生の傍らで技術の発展と生命現象が探求されるこの創作の舞台は、「冷たいテクノロジーに血を通わせ、機械と有機的なものを分け隔てなく扱うことを目指す」という彼女の表現に通底した意志とも共鳴し、豊かな着想源となっている。

 「眠れる花粉」は展示空間全体が暗闇でした。上にあるように、天井から目の玉のような球がいくつもぶらさがっていて、そこから植物の見る夢が壁にゆらゆらと映し出される。足を踏み入れた途端に、この作品の枠がわたしの世界の枠を構築しました。わたしは作品の中の世界にいたのです。現実を忘れてしまって、足の先から脳の髄まで生きているという実感が、ぐわっと染みわたりました。わたしは周りを気にせずにわらっていたのです。

 わたしも植物たちと共に夢にいたような気分でした。わたしも植物たちもくるくると踊って。透きとおった音が耳の奥にまで流れてくる。とても大好きな空間でした。

距離感がとてもおもしろい?

 序盤で「没入感がない」というようなことをわたしは書いていましたが、それは決して悪いことだと言っているのではありません。そもそも、ピピロッティは距離感を意図的に設定しているのかなと感じます。そのことを強く思ったのが箱庭の作品です(作品名分からないです……)。

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 この作品は大きな箱の中を見下ろすように鑑賞します。箱の中にはミニチュアの空間が形成されていて、その小さな空間を大きなわたしが俯瞰するのです。その鑑賞の仕方がとてもおもしろいと思いました。見ていると奇妙な感覚になるのです。

 このミニチュアは誰かの"部屋"なのですが、その部屋に隕石のような惑星が落ちて部屋を侵食してしまって、部屋の壊れた部分からは宇宙空間が広がっています。
 絶対にもう生活できない空間なのに、この部屋は息づいています。誰かがそこに「いた」あるいは、今も「いる」痕跡のような、その人のパーソナルスペースが築かれていて、覗いていることが悪いことをしてるんじゃないか、というような感覚に陥ります。罪悪感。人の家を覗いているのです。

 この部屋には間違いなく、「名前をもった」人がいたのです。部屋は星と宇宙に侵食されて、もう人は住めなくなってしまった。それでもこの空間にいつか人がいたことは確かで、空間には記憶が刻まれているのです。部屋の中をぐるぐる回るように、映像が投影されるのですが、それは空間が持っている記憶なんじゃないかとわたしは思いました。人が住めなくなっても、空間はまだ生きているということです。

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 この作品とわたしの間には間違いなく距離があります。間違いなく別の世界なのです。それどころか、別の宇宙ですらある。部屋の中の宇宙と、わたしが属している宇宙はまったくの別物で、それでもこの作品を鑑賞するとき、そこには宇宙空間が二つ存在しているのです。
 それはとても奇妙な感覚です。

 わたしはこの作品、以前見たとある作品と似ていると感じました。それは、2020年六甲ミーツアートで見た上坂直さんの『六甲景鏡』です。

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 もちろんミニチュアであるという共通点もあるのですが、この不思議な風の匂い、人の痕跡が入りまじった匂いがあることだとか、わたしのいる空間とこの異空間とが同時に存在している違和感などが似ていると感じました。

 空間は、生きているのですね。

まとめて

 ピピロッティ・リスト展、とてもおもしろく興味深かったです。上ではとくに作品との距離感を取り上げていましたが、ピピロッティの音楽もとてもすてきでした。CDを買うか悩んだほどです(結局買っていない)。

 ピピロッティは彫刻作品や、質量を持った物体に映像を投映する試みを行っていて、解説では確か「映像に質感をあたえる」と言っていたような気がしますが、平面じゃないものに映像を映すことはわたしもやってみたいと思いました。映像をつくるとき、質感は映像内で与えがちですが、投映するものに質感があればその質感が映像に加わるというのは、今まで考えたことがありませんでした。和紙でつくった折り紙に投映するとどういうふうになるんだろう、と思います。