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葉隠

”武士道と云ふは死ぬ事と見つけたり”
めちゃくちゃ有名な「葉隠」の一節
葉隠は1716年頃の江戸中期に肥前国佐賀鍋島藩士の山本常朝が
武士としての心得を口述して士田代陣基が筆録したもの

目的のためには死を厭わないとすることを
武士道精神と誤解されることが多い
しかし,後に続く文がありその現代語訳はこう

どちらにしようかという場面では、早く死ぬ方を選ぶしかない
何も考えず、腹を据えて進み出るのだ。
そのような場で、図に当たるように行動することは難しいことだ。
私も含めて人間は、生きる方が好きだ。
おそらく好きな方に理由がつくだろう。
図にはずれて生き延びたら腰抜けである。
この境界が危ないのだ。
図にはずれて死んでもそれは気違だというだけで恥にはならない。
これが武道の根幹である。
毎朝毎夕いつも死ぬつもりで行動しいつも死身になっていれば
武道に自由を得
一生落度なく家職をまっとうすることができるのである

Wikipedia

葉隠は武士達に死を要求しているのではなくて
武士として恥をかかずに生きて抜くために
死ぬ覚悟が不可欠
と主張しているのであって
あくまでも武士の教訓を説いたものになる

当時の江戸中期の状況から戦国時代のような修羅ではなく
平和な日々が続いていたので武士は小役人のような仕事をしていた
本来は戦うことを主としていただけに,次第に
怠惰になったり堕落したりする者が増えていった
そういった気が抜けたサラリーマン武士の為の
読めばめっちゃやる気が出るビジネス書だった

今で言えば”流行りの自己啓発本”みたいやつだね

まぁでも
書いてあることは壮大な死生観であったり
江戸幕府太鼓判の儒教的な内容であったので
戦場での生き死にの経験をくぐり抜けた実践的な話ではなく
理念化された武士道の内容で
リアル武士の戦い方入門って感じでもないから面白い

かの三島由紀夫も「葉隠入門」という本を書いていて
本人も葉隠をずっと傍に置いていたという

「葉隠」の言つてゐる死は、何も特別なものではない。毎日死を心に当てることは、毎日生を心に当てることと、いはば同じだといふことを「葉隠」は主張してゐる。われわれはけふ死ぬと思つって仕事をするときに、その仕事が急にいきいきとした光を放ち出すのを認めざるをえない。

葉隠入門―武士道は生きてゐる/三島由紀夫

三島は死に対して戦争などの殺し合いの「死」とは全くの逆の
生活からかけ離れてしまった「死」を葉隠から説いている
日本人はかつては日常生活と表裏一体のものとして「死」を意識してきた
それは流れる自然と捉えていて日本人の芸術の源泉でもあった
今や「死」は特別なもの,非日常的なものとして捉えられてしまっている
失われた死の概念
古代ローマのメメント・モリに通づるものがある

図に当らぬは犬死などといふ事は、上方風の打ち上りなる武士道なるべし。二つ二つの場にて、図に当ることのわかることは、及ばざることなり。

葉隠/山本常朝

人は自分で「死」を選びとれるとして「正しい目的のための死」があると
思い込んでいるけれども
変化をしてゆく歴史において「正しさ」も時の流れで逆転しうるもの
葉隠はそのような煩瑣な判断からの「死」の選択や正否に
言及しているのではなくて
葉隠の「死」は人が死に直面する時の
”人間の精神の最高の緊張の姿”として描き出している

われわれは、一つの思想や理論のために死ねるといふ錯覚に、
いつも陥りたがる。
しかし「葉隠」が示してゐるのは、もつと容赦ない死であり、
花も実もないむだな犬死さへも、
人間の死としての尊厳を持つてゐるといふことを主張してゐるのである。
もし、われわれが生の尊厳をそれほど重んじるならば、
どうして死の尊厳をも重んじないわけにいくだらうか。
いかなる死も、それを犬死と呼ぶことはできないのである。

葉隠入門―武士道は生きてゐる/三島由紀夫

死ぬ気でやろうぜ
この言葉なんだとおもう

メメント・モリから一節
Carpe Diem!

(今を楽しめ!食べ、飲め、そして陽気になろう。我々は明日死ぬから)


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