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ヒップホップと在日と沖縄ー上を向いて歩く川崎

川崎・池上というところ
 鶴見から浜川崎駅に向かった。浜川崎駅から海側に向けての工場地帯も、在日コリアンの集住地区である。「鋼管通り」という通りがあることから推測できるが、ここは旧日本鋼管(現JFEスチール)の企業城下町であった。そこの労働者として連れてこられた人の中には朝鮮人も少なくなかった。海側に池上町という地区があるが、ここは帰国しそびれた在日コリアンたちがそのまま住み着いた土地で、形式上は不法占拠となる。
 少なくとも戦前は、建前では朝鮮人も「内地人」も「天皇陛下の赤子」であったはずだ。しかし通常時ですらもちろんのことだが、池上町の廃墟かと見まごうばかりのバラック群をみていると、あきらかに明確な線引きがなされていたように思える。アンダーソン曰く、
 「ほとんどのすべての場合において、皇帝ナショナリズムは、国民と王国の矛盾を隠蔽した。こうして、世界的規模で矛盾が起こった。スロヴァキア人はマジャール化され、インド人はイギリス化され、朝鮮人は日本化されることになった。しかし、彼らには、マジャール人、英国人、日本人を統治する地位に就くような巡礼に参加することは許されなかった。」
 厳密にいえば戦前は在日朝鮮人にも「内地」にいる限りは参政権が与えられていた。
1930年代には朴春琴という朝鮮人の衆議院議員もいたほどだ。ただ「日本人を統治する地位に就く」立場にいたとはいえ、それも日本側に協力するという前提が確固としてあった。

池上から羽ばたいたヒップホップのスター
 事実上のスラム街、池上町から2010年代後半に巣立ったスターといえば、ヒップホップ・クルーのBAD HOPだろう。メンバーの多くが経済的にも家庭にも教育にも恵まれぬ環境に生まれ育ったが、自分たちの足元を見つめてこころに浮かんだものを歌詞にして叫ぶと、それがラップになり、ヒップホップダンスとなって日本中に広がった。
 この「朝鮮人部落」で90年代半ばに生まれ育った八人の中に、南北を問わず「コリアン」が一人もいないのには意外だった。彼らは日本社会から見放された「朝鮮人部落」にすむ「日本人」なのだ。とはいえメンバーたちは朝鮮人の家でご飯を食べさせてもらったりもしていると証言している。アウトサイダーにされた者同士のぬくもりがそこにあったのか、彼らはビッグになっても「ふるさと池上」を忘れず、池上の思い出をもとに「KAWASAKI DRIFT」を作詞・作曲し、踊って大ヒットに導いた。
 アンダーソンは、朝鮮人には日本人を統治する地位に就くことはできなかったというが、同時に「日本人」だったヒップホップダンサーたちにもその道は閉ざされている。60年代にはエレキを否定する大人たちに対して寺内タケシのように立ち上がり、民族の「ルーツ・ミュージック」としての民謡をエレキでかきならす大人もいたが、2010年代にはそんな熱い大人はいなくなり、代わりに若者が自らの力で自分たち個人の「根っことしての音楽」を赤裸々にシャウトするようになった。
 寺内のエレキ民謡には失われた「こころの歌」を共有しようとするナショナリズムを感じるが、BAD HOPのヒップホップには民族単位、国家単位ではなくどこの社会にもある階層の存在を突きつけてくるだけに、よりグローバルな存在といえるのかもしれない。

ヘイトスピーチにも負けず…
 池上町から空気が悪く殺風景な灰色の町を歩くと、焼肉屋がずらりと並ぶ通りに出た。大正時代にこの先にできた浅野セメントに通勤する労働者が帰りがけによった飲み屋街であるから「セメント通り」と呼ぶそうだ。労働者にホルモン焼きや焼肉などの在日コリアン料理を提供する大衆的な店が並ぶのがこの通りなら、その北側の桜本町にはその材料を仕入れる肉屋等が並ぶ。要するに本牧がフェンスの向こうのアメリカ、山下町が牌楼の向こうの中国ならば、池上からセメント通り、そして桜本までは、フェンスも牌楼もないコリアといえるだろう。
 桜本には青丘社という在日コリアン系社会福祉法人が運営するふれあい館・桜本こども文化センターがあり、ハングル入門教室や朝鮮の民族音楽、民族衣装、料理等を通して地域の隣人との相互理解・相互交流を続けてきた。ヘイトスピーチが吹きすさぶ中、直接の脅迫を受けてもひるまずに続けてきた態度には頭が下がる。
 ちなみに本格的な継承言語としての朝鮮語を身に着けるのは同じ町内にある川崎朝鮮初級学校や、横浜駅近くの沢渡にある神奈川朝鮮中高級学校がその役割を果たしている。

「民族言語」の限界
 ところで民族のアイコンとしての言語や民族衣装、舞踊などについてアンダーソンはこう述べている。
「ときにナショナリスト・イデオローグがやるように、言語を、国民というもの(ネーションネス)の表象として、旗、衣装、民族舞踊その他と同じように扱うというのは、常に間違いである。言語において、そんなことよりずっと重要なことは、それが想像の共同体を生み出し、かくして特定の連帯を構築するというその能力にある。」
 在日コリアンのリーダーたちは、確かに朝鮮語・韓国語を異郷に生まれ育った子孫たちの民族意識のシンボルとして使っている。そして国旗はもちろんのこと、衣装や民族舞踊なども朝鮮学校では重要視されている。そして朝鮮語を学ぶことで連帯を構築できるというのも正しい。
 しかし日本の朝鮮学校で学んだ朝鮮語を韓国、または北朝鮮でそのまま使おうとすると、「本国」の人々に違和感を与え、「祖国」すなわち想像の共同体内の人々との間に溝が生まれることを彼はわかっていない。ある意味在日コリアンは日朝ちゃんぽんの「在日弁」ともいうべきクレオールを話している。連帯感が生まれるのは第一に「在日弁」スピーカーなのだ。

言語に限りなし、人生には限りあり
 ちなみに言語習得についてアンダーソンは興味深いことを言っている。
我々はいかなる言語でも習得することができる。しかし、言語の習得には人生のかなりの部分を必要とする。(中略)人が他者の言語に入っていくことを制限するのは、他者の言語に入っていけないからではなく、人生には限りがあるからである。こうして、すべての言語は一定のプライバシーをもつことになる。
 私も英語や中国語、韓国語などを学んできたが、いずれもある程度いくと停滞することをよくわかっている。それはまさに「限りある人生」で語学のみに費やすことの意義がわからなくなるからなのかもしれない。在日コリアンの言語が「在日弁」止まりになる事が多いのも、ナショナリズムよりも大切なことがあるからであり、例えば英語ができたほうが将来的に「日本人の上に立つ」機会がありそうであること、あるいは語学ではなく数学ができたほうが医大を目指せるなど、実利的な理由からであろう。
 もちろん趣味として語学をやる分はその限りではないが、趣味で韓国語・朝鮮語に取り組む人は、在日コリアンが民族的アイデンティティを守るための継承言語として学ぶよりも、軽い気でやってみる「日本人」が圧倒的多数だ。おかげでというべきか、本国のコリアンにとっては「日本人」に「言語的奥の院」に踏み込まれることもまずない。逆に在日コリアンにとってはその「言語的奥の院」に到達してこそ「本物の韓国人・朝鮮人」となるだろうが、やはり優先順位のトップに言語を置く人は少ない。 
 ちなみに桜本のふれあい館の活動は民族言語、民族舞踊、民族料理等を民族を問わずシェアしようとしている。それは新大久保でみられるような若者中心のおしゃれな韓流とは違う。人間が人間として生きていくうえで大切なことを、民族を問わず分かち合う心。それは朝鮮語を、朝鮮舞踊を、朝鮮料理を分かち合うことで、偏狭なナショナリズムを乗り越えようとしていることは言うまでもない。

「上を向いて歩こう」に励まされるのはナショナリズムか
 帰りに川崎駅に向かった。駅前に「石敢當」と彫られた石碑を見た。これは沖縄や鹿児島のT字路でよく見る魔除けであるが、1950年代から60年代にかけて米軍施政下の沖縄を何度も台風が襲ったとき、川崎にいた沖縄県出身の労働者たちが中心となって義援金を贈った。そのお礼として沖縄から送られたものの一つだという。
 ホームで電車を待っていると、どこからか発車メロディが流れてきた。「上を向いて歩こう」である。1963年にアメリカのビルボード史上初めて一位を獲得したアジアの曲は、この町の電気屋の息子、坂本九が歌ったものだった。この記録は2021年にBTSが“BUTTER”でトップになるまで半世紀以上破られることはなかった。
 思わず口ずさんでしまうこの歌だが、そういえば東日本大震災の後に日本各地のミュージシャンたちがこの歌のワンフレーズごとを歌ってつなげていたのを思い出した。この歌は戦後から平成にかけて生きてきた人々をつなげる何かがあったのだ。国民を、民族をつなぐ「歌」について、アンダーソンはこう述べている。
 「ただ言語だけがーとりわけ詩歌の形式においてー示しうる特殊な同時存在的な共同性がある。(中略)たとえいかにその歌詞が陳腐で曲が凡庸であろうとも、この歌唱には同時性の経験がこめられている。正確にまったく同じ時に、おたがいまったく知らない人々が、同じメロディーに合わせて同じ歌詞を発する。この斉唱のイメージ。(中略)我々は、我々が歌っているちょうどその同じときに、ほかの人々もまたこれらの歌を歌っているということを知っている。しかし、かれらが誰なのか、(中略)我々にはまるでわからない。我々すべてを結び付けているのは、想像の音だけなのだ。」
 あの震災で東北の「同胞」たちがたくさん亡くなった。今も苦労している。無力感の中で「国民」をつなぐかに思えた歌が「上を向いて歩こう」だったのだろう。複数ある動画は、みなパートごとに歌い、時にそれを斉唱する。歌の向こうに「同胞」を感じるのも、それがみなで斉唱できる歌だからだろう。偏狭なナショナリズムには抵抗のある私だが、「上を向いて歩こう」を聞くと胸にこみあげるものが、涙なのかナショナリズムなのかわからなくなったことを告白せねばなるまい。(続)


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