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B型コミュ障じいさんの繰り言(?)「方丈記」の京都-


鴨長明を「こじらせる」私と現代日本
 「行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとゞまりたるためしなし。世の中にある人とすみかと、またかくの如し。(川辺に座って流れていく水面を見ていて思った。目の前の水はさっきは上流にあったはずだ。またよどんでいる水面に、あちらにプクッ、こちらにプクッと泡が浮かんでは消えるが、ずっと水面に安定して浮かんでいるというわけではない。世の中の人間も家も、みな同じことで、長く続くものなんてない。)」
 高校生の古典の時間に覚えさせられた方も少なくないだろうこの「方丈記」だが、いざ自分が文章を書くようになって気づいたのは、まずはその写実能力の高さである。まるで自分が少し急な流れの川岸に腰かけて水面の動きを見ているかのような気にさせられるではないか。八百年前の鎌倉初期、京都は日野の山中で隠遁生活を送りながらこの「方丈記」を著した鴨長明。彼の存在は私にとって大きかった、というほど影響を受けたわけではないが、その後の人生の折々でふと思い出し、しんみりした気分にさせてくれる存在だ。なにかうまくいかない時、世の中が嫌になった時に鴨長明を「こじらせる」ときがある。

2010年代の日本の混乱
 特に2010年代は、個人的に日本人男性の平均寿命、80年の折り返し地点を過ぎたが、それまでの人生において起こりえなかったことがたて続けに起こった。2011年の東日本大震災および津波、そして原発事故が同時に起きたときは、我が人生最大の天災・人災と思っていたが、それも前奏曲に過ぎず、16年には熊本地震、18年には西日本豪雨など、天変地異が続いた。
 また、13年には「復興五輪」と銘打って2020年の東京五輪開催が決まったが、それも懸案事項の福島に関しては “Let me assure you, the situation is under control.”と、総理大臣自ら誰もが嘘と分かる大見得をきったことに端を発し、20年のコロナによる開催延期まで、ろくなことが起こらなかった。
 安倍政権下では15年には「平和安全法制」の制定、16年にはアメリカの圧力でTPPに加盟したと思ったらトランプ政権は加盟しなかったため「はしごを外された」形となったことなど、同盟国アメリカに振り回されつづける。さらに17年からの「モリ・カケ」公文書改ざん問題とそれに伴う官僚の自殺、18年にはIR法案が可決、19年には政府による「桜を見る会」の参加者名簿等の証拠隠蔽、20年には公職選挙法違反による河井法相の逮捕など、政府中枢及びその周辺の「拝金主義」化に国民が失望した。

2010年代の日本の凋落
 2010年代の10年間を通して、気づくと世界も日本も二分化されていた。海外を見渡すと10年に日本はGDP世界第二位の座を中国に明け渡したと思ったら、2020年にはさらに水をあけられ、わずか10年で日本のGDPは中国の三分の一ほどになっていた。潤沢な経済力を背景に中国がその存在感を高めてきたとはいえ、それが政治、軍事分野に限れば、日本も中国を「非民主的な独裁国家」として嘲笑できたかもしれない。しかしITや人工知能、ロボット技術など各技術面で、そして論文数でも世界一となったこの超大国を横目に、そのおこぼれにあずかることのない日本の庶民の一部は「反中嫌韓」書を読んで溜飲を下げるぐらいしかできなくなったのがこの10年なのだ。
 そんな「失われた10年代」の総決算が、20年にその中国・武漢から始まった新型コロナウイルスだった。そして良くも悪くも共産党の専制支配により厳格なロックダウンを施した結果、「統計上」はコロナ患者を一時的に皆無にさせた中国に対し、日本は一年以上経っても新規感染者数が高止まりとなっている。
 それまで一世紀半にわたって日本の国家モデルであった欧米諸国の多くでは、その理念となってきた「自由と民主主義」が裏目に出たのか、政府によるマスク着用義務や人の移動の管理に反発する大衆も少なくない。その因果関係は証明されていないとはいえ、国家が厳しい罰則規定を設ける日本以外の東アジアの低い感染率を見ると、強権政治と民主政治の間でおろおろした日本の姿が浮き彫りにされるようだ。

2010年代によく似た長明の時代
 このような十年を振り返りつつ、改めて「方丈記」を読むと、鴨長明の生きていた平安末期から鎌倉初期も、それに負けず劣らず天変地異と目まぐるしい政変に人々が振り回された時代だったことがよくわかる。
 無常観ただよう例の冒頭の文があまりにも有名な割には、その後はほぼ知られていない。ただ、その無常観の根拠となるのは、彼の生涯を通して頻繁に起きた天変地異と民を顧みない為政者の圧政だった。そのような意味で、これは天災人災の記録を刻銘に描いた「災害文学」ともいえる。
 2010年代に「方丈記」がひそかなブームを巻き起こしたというが、それはなにも12年が「方丈記」執筆八百年を迎えたからだけではない。東日本大震災という「未曽有」の出来事が起きたことと、災害が頻発したことの記録がリアルに描写されている「方丈記」が重なり合ったからだろう。そんなことを考えつつ、彼の生きてきた京都を主に歩いていこうと思う。

ふるさとは下鴨神社
 僧侶が権力者となっていた平城京を嫌い、長岡京、そして平安京に遷都した桓武天皇。彼が鬼門にあたる北東の守護神として定めたのが上賀茂・下鴨両神社である。皇室と平安京を守る高い格式とを誇るこの神社は、皇室との関係が特に深い。これらの神社で思い出すのが、世界遺産「古都京都の文化財」としても登録されたことと、京都三大祭りの一つであり、平安時代から今に続く5月15日の葵祭である。御所から下鴨神社、そして鴨川沿いを上って上賀茂神社まで、平安時代の装いの市民たちが練り歩く「動く歴史絵巻」として知られており、平安時代に単に「祭り」といえばこの葵祭をさしていた。
 春雨の冷たいコロナ渦の三月末、下鴨神社を訪れた。正しくは「賀茂御祖(かものみおや)神社」というこの神社へは、京阪電車の出町柳駅から西に進み、すぐ北に進む参道を通っていく。しばらくすると「糺(ただす)の森」とよばれるうっそうとした森が現れる。鳥居をくぐると神域であるためか、またやみそうにもない雨のためか、外界とは隔絶された雨音だけの静寂の世界だ。このような環境で鴨長明は生まれ、育ち、学んだのだ。
 天霧に煙る濃緑色の木々が生い茂る糺の森を過ぎると、朱塗りの立派な楼門が現れた。さらに中門をくぐると東西に本殿がある。西本殿前の摂社が目を引く。「出雲井於(いづもいのへ)神社」とある。どうやらこの一帯は古代出雲族の縄張りだったらしく、下鴨神社の西の鴨川にかかる橋は、その名も「出雲路橋」であり、その右岸の地区名も「出雲路」である。
 大規模な神社の摂社では「先住民」の神々を祭ることが多いが、ここも出雲の神、スサノオが祭られている。社内の解説によると、鴨氏と山城国北部の出雲族と思われる人々は同族という。そういえば「古事記」によるとスサノオがヤマタノオロチ退治をしたのは、現島根県雲南市だが、そこにも「加茂町」という地域があり、国内最多の39個の銅鐸を出土した加茂岩倉遺跡でも知られているように、出雲の「カモ」氏がなんらかの理由で京都盆地北東部にやってきて、勢力を保ったのかもしれない。
 かつて栄えた出雲族の末裔が、権力闘争に敗れた後はその出自を明らかにされないまま「分かる人だけに分かる」かのようにまつられている。まさに無常である。そして時代は下っても権力闘争に敗れ、隠遁の道を選んだ人物こそ、長明だった。

河合神社の方丈
 そんなことを考えながら、糺の森に戻り、森の入口の河合神社にお参りする。ここが長明のルーツであることは、彼の父親がここの禰宜(ねぎ)、つまり宮司の補佐をしていたことからもわかる。そして神社にはわずか6畳ほどの小さな資料館の他、彼が後に「方丈記」を執筆した山中の庵が復元されている。
 「方丈」とは、約四畳半ほどの部屋の意味だが、推定復元されたこの境内の庵も「四畳半の和風ログハウス」といった感じだ。切妻屋根の平入りで、窓は蔀戸(しとみど)。簡単な竹垣で周りを囲われている。部屋の中央には90㎝四方ほどの囲炉裏があり、壁には仏画がある。高校時代から気になってきた伝説の隠者の住処(すみか)が、具体的に立体化されるのは、想像通りのところとそうでないのものもあり、興味深い。
 それにしても雨にもかかわらず若い女性客が多い。「河合」=かわいい、ということで、ここでは手鏡の形をした絵馬(?)に自らの理想の「かわいい顔」を描くという、「女子目線」で女性客を集めている神社だと知ったのはその時だった。雨水の滴るなか、伝説の隠者の庵を見ながら感慨にふけるおっさんは私一人だった。
 この神社で1153年に禰宜の子として生まれた彼は、まさに貴族的な上流階級に属していた。一方でこの糺の森の外の世界は決して安穏としたものではなかった。彼が4歳の頃にあたる1156年、保元の乱が起こり、後白河天皇は兄の崇徳上皇を京都から讃岐に追放したあたりから、貴族中心の時代から武士の時代に移り始め、政変が京都の町を襲いはじめた。

讃岐・坂出の崇徳上皇
 秋口にサンライズ瀬戸で香川県に向かった。岡山駅で停車中に、滅多に買わない駅弁を買った。「桃太郎の祭り寿司」である。特に私はこの瀬戸内海でとれるママカリの酢漬けが癖になるほど好きだ。そして瀬戸大橋を渡り、水墨画のように朦朧とした霧の瀬戸内海を楽しみながら祭り寿司を食すうちに、瀬戸大橋の四国側の出入口である坂出に着いた。
 この町には島流しにあった崇徳上皇の足跡があちこちに残っている。彼が滞在し、保元・平治の乱の戦没者供養と自省の念を込めて「五部大乗経」を書き写し続けたとされる雲井御所跡に行ってみた。そのころには霧も晴れ、晴れ渡った空のもと、綾川の周辺に広がる田園をレンタカーでまわると、堤防沿いに公園があり、立派な石碑があった。そこが雲井御所跡だった。ここで書いたその写本を、京都のしかるべき寺院に奉納してもらうべく皇室に送ったところ、呪いの経文とみなされて送り返された。
 のちに四国八十八カ所霊場の札所、天皇寺に住まいを移るが、絶望による発狂のためか、「日本国の大魔王」として皇室をつぶさんことを叫び、舌を噛み切って出てきた血で本物の呪いの経文を書きつけたという。京都に帰れぬまま崩御した後、亡骸(なきがら)が腐敗しないように冷水に浸した「八十場(やそば)の冷水」が残る天皇寺の雰囲気は、背筋がぞっとするほどの怨念が今なお感じられる。菅原道真、平将門とならんで、俗に「日本三大怨霊」とされるだけある。
 天皇寺の裏手の白峯山に葬られた彼の霊を弔うべく、後に鴨長明の敬慕する西行法師がこの地を訪れたが、廃帝の怨念は強まる一方で、和らぐことはなかった。彼の歩いた道は「西行法師の道」として整備され、西行の歌碑を見ながら神社までの参道を歩けるが、その数なんと800段。金刀比羅宮に匹敵するほどの段数なので、その覚悟なしにいった私にはかなりきつかった。

長明の青春時代
 讃岐に流された上皇のことなど、長明は知る由もない。それもそのはず、彼はまだ子供だったからだ。保元の乱の時には後白河天皇のもとで,ともに崇徳上皇を倒した平清盛と源義朝だったが、二人も三年後には対立し、平治の乱を引き起こして源氏は敗北した。その時長明少年は若干七歳。「去る者は日々に疎し」というが、崇徳上皇のことはやがて忘れられ、京都の人々が再び彼を思い出すのは、その死後さらにしばらくたってからだった。
 権力を握った後白河上皇とその後継者、高倉天皇は、長明が十代後半のころに相次いで下鴨神社に参拝に詣でた。しかしその後、彼が成人する前に父が亡くなると、河合神社の禰宜の座も長明やその兄が継ぐのではなく、親戚筋の者が継ぐこととなった。すると父親を一人の人間としてではなく、社会的立場の高い人物としての父親を取り巻いていた人々は、潮が引くように去っていった。
 そのころから長明の屈折した人生が本格的に始まる。十代にして妻子があったが、父亡き後は祖母と妻に家の実権を握られ、やる気のないまま下級神社に出仕するだけの日々、外では世俗的な出世も見込めず、家に居場所もない彼を支えたのは、自分の偽らざるこころを三十一(みそひと)文字に託す和歌だった。その方面における天分があっただけではなく、のめりこんだら一心に研鑽を惜しまない彼は、徐々にその世界で頭角を現した。

京都を恐怖のどん底に落とした崇徳上皇
 そうした中、彼の二十代後半は、市中から御所まで焼き尽くした大火、中心部を根こそぎ破壊した竜巻、鴨川を無数の餓死者で埋め尽くした大飢饉などが相次いで起こった。さらに三十代になても平安京を破壊つくした大震災など、天変地異が相次いだ。人々はこれらを崇徳上皇の、はたまた平清盛の祟りによるものと噂した。まさに地獄絵さながらの時代を彼は過ごしていたのだ。ただ、この時の彼は閉じこもるのではなくルポライターばりに取材に歩き、「方丈記」の中でもその恐ろしさが直接読者の心に響くように和語を多用して描写している。
 天変地異だけならまだ救いようがあったかもしれない。追い打ちをかけるかのように政治の混乱が同時進行していた。京都が竜巻に襲われた1180年、後白河上皇をすでに幽閉するほど実権を握っていた平清盛は、自らのホームグラウンドである瀬戸内海に面した福原京(現神戸市)に遷都した。大勢の公卿たちも京都盆地から瀬戸内海にできつつあった新しい都に引っ越したと思えば、半年後には再び京都に都を戻した。ここまでの場当たり的な政治も珍しい。
 と思えばその数か月後に清盛は高熱で亡くなった。清盛の死の二年後には、源氏に押された平氏は都落ちし、翌1185年壇ノ浦で平氏が滅亡し、源頼朝が鎌倉に幕府を開いた。平安最末期の十年間は、このように絶え間ない天災人災により、長明ならずとも無常観にさいなまれたであろうことは想像に難くない。ちなみに長明のプライベート面でいえば、祖母の家を出て鴨川のほとりの、それまでの住居と比べると十分の一ほどのこぢんまりした住居に引っ越し、数名の従者とともに暮らしていた。
 そんな中でも彼は、幽玄のあり方を重んずる俊恵法師に師事して研鑽した和歌三昧に加えて、琵琶の稽古にも本格的に取り組んでいった。プロ・ミュージシャンを目指すわけでもないのに、やはり「凝り性」とでもいうべきかもしれない。出世や家族には恵まれずとも、後の本格的な隠遁の第一段階を、アーティストとして充実した日々を送っていたのか、あるいは「リア充」になれない現実をアーティストとして活動することでかき消そうとしていたのかわからないが、そうこうするうちに時代は平安時代から鎌倉時代に移っていった。

人生最後のチャンス、「新古今和歌集」の撰者に
 1192年といえば一昔前は「いい国つくろう鎌倉幕府」、つまり源頼朝が征夷大将軍になった年として知られるが、実はその直前に長年にわたり院政を敷いてきた後白河上皇が崩御した年でもあり、その直後には後の三代将軍実朝が誕生した年でもある。一方、不惑の年を迎えた長明だが、すでに下鴨神社とも縁遠くなっていた。おそらくほぼ出社しなかったのだろう。
 そのようなさえない日々に転機が訪れたのは四十代後半となった1201年だった。当代随一の和歌好きな後鳥羽上皇の名により、勅撰和歌集「新古今和歌集」の編纂が命ぜられたのである。撰者のリーダー格は上皇が師事していた藤原定家であったが、上皇に和歌の実力を認められた長明も「和歌所寄人(わかどころよりうど)」、すなわち撰者の末席にすわることとなった。人生五十年だった当時のこと、このままなすべきこともなく終わるのかと思っていただろう四十代後半にして訪れた檜舞台を、最後のチャンスと思っても不思議はない。
 上皇に認められたという承認欲求が満たされただけでなく、なによりも自分の拠り所でありつづけた和歌の力が認められ、それを選定するという重役を務めることがよほどうれしかったのだろう。それまでの鬱屈としながら思うままに歌を詠み、琵琶をかき鳴らす暮らしとは打って変わって、朝から晩まで選歌に没頭した。マイペースがハイペースになったのだ。

B型人間(?)の長明
 唐突だが私は血液型性格占いというものは話半分で聞くに限ると思っている。人の性格を四種類に分類するなど、科学的とはいえず、本気にはしていない。しかしあえて言うならこの長明は「B型あるある」の典型ではなかろうか。巷でまことしやかに言われる「B型人間」を三点にまとめると、
・スイッチが入ったら徹底的にこだわり、没頭するが、それ以外は無関心。
・自由奔放で人目をおそれない。
・才能、技能に長けている。
となろう。つまり「マイペースにしてハイペースの天才型」である。世間的には京都一の神社の禰宜の座に就くべく生まれ育ったが、権力の座には就けず、家族からも見放された。しかし歌と琵琶という芸道に才能を発揮し、それらにのめりこんだら上皇に認められると、リーダーの藤原定家さえ体調を崩すほどの選歌の仕事にさらにのめりこんだ。
 私もある意味典型的なB型人間だが、もしかしたら血液型性格占いを最もバカにするのもB型の特徴かもしれない。「B型はこうだ」と(特に日本における多数派のA型から)言われると、つい反論したくなるが、才能の有無は別として「B型は気分屋だ」と言われると、思い当たる節も少なくない。

「B型人間」のこだわり(?)で投げ出した国家事業
 しかし「推定B型人間」の長明の世間的な幸せは三年しか続かなかった。発端はふるさと河合神社の禰宜の座が空いたので、目をかけてくれた後鳥羽上皇がその座に長明を推挙したことだ。長明からすると、本音のところでは「棚からぼたもち」でも落ちてこないかと思っていたのかもしれないが、世俗的な立身出世をあきらめ、和歌や琵琶といった芸道の世界で生きようと決めていたが、「新古今和歌集」の編纂が終わると仕事や社会的立場はどうなるのか未定だったところに、古巣の禰宜になれるならまさに「渡りに船」であったろう。
 しかし河合神社側はこれに猛反対した。そもそも長い間出社もせずに和歌と琵琶に興じてきた長明に、禰宜としての実務が務まるわけはない。さらに人の上に立つには、天才肌ではあっても空気を読まないマイペースな「B型人間」では、社内をまとめられないと思われたのだろう。さすがの上皇も現場の声を無視できず、代わりに社内の別の摂社を独立させ、そこの禰宜にしようという話を長明に持ち掛けたが、生まれ育った河合神社の禰宜でなければ意味はないーというB型お得意の「妙なこだわり」のため、感謝しながらもこれを断り、なんとあれほど心血注いで編纂していた「新古今和歌集」を放り出して、行方をくらませてしまったのだ。
 また、隠遁したもう一つの理由として「琵琶秘曲事件」が有名だ。琵琶の「秘曲」が三つあり、長明はそのうち一曲のみ師匠から教えられたが、後の二曲は免許皆伝されていないまま師匠に死なれた。その後、長明主催で管楽の集まりを開き、この三曲を披露し、集まる人に衝撃と感激を与えたという。芸術家としての彼の本領発揮といえよう。しかしこの秘伝を公開した「秘曲づくし」を問題視した者が後白河上皇に訴え、上皇自身は芸術活動に理解があったとはいえ、度重なる訴えにより、居心地の悪くなった長明は遁世したともいわれている。
 相手が上皇であっても、秘曲を守るというルールがあっても妥協しないのは「B型人間」の特徴なのかもしれない。「B型人間」には社会的なヒエラルキーやルールよりも、「マイ・ルール」に忠実であることが何よりも大切だからだ。ただ、もしかしたら上皇も彼の気持ちがわかっていたかもしれない。上皇自らが「B型的」な言動が多いからだ。


春雨に濡れて京都・大原へ
 あれほど情熱を注いだ和歌の仕事を放り出して、しばらくすると長明は大原に隠棲した。
 雨脚が強まる春の日、大原の里に市バスを乗り継いで行ってみた。市街地から1時間ほどかかったが、訪問するのはほぼ三十年ぶりだった。急な山々の谷間に農家が点在する大原は行政上京都市左京区でありながら、我がふるさと、奥出雲の寒村にも似ていた。平日の雨降る日に訪れる人はほとんどいないが、向こうの山は天霧に包まれており、雨音以外には何も聞こえず、月並みな表現だが、さながら水墨画の世界である。長明が住むにふさわしい。
停留所横で名物の蕎麦としば漬けを食すと、「大原女(おはらめ)の小径」という遊歩道を雨に降られつつ、三千院のほうに向かった。「大原女」とは大正前後の日本画家、土田麦僊(ばくせん)の作品でも知られるが、藍染めの作業着に手拭いをかぶり、頭に柴を束ねて担いでは都で売り歩いていた女性のことだ。歩いているとその「顔出しパネル」まである。京都の観光地では舞妓さんに「変身」したり、普通の着物をレンタルして観光したりする人々が少なくないが、ここでは大原女のコスプレができるという。そのマニアックさには笑うしかない。かくいう私もこんな雨の日は墨染の袖に腕を通して笠を目深にかぶり、僧侶のコスプレでもしたい気分である。
 この遊歩道沿いには何軒も土産物屋を見かけたが、みな開店休業状態だった。ただ、ここも1970年代には観光客でにぎわったという。デュークエイセスの「女ひとり」という曲の出だし、「♪京都大原三千院 恋につかれた女がひとり」が、全国的にはやったのは1965年。二番、三番は「栂尾(とがのお)高山寺」、「嵐山(らんざん)大覚寺」と続くが、「大原三千院」の知名度がこれにより全国区となった。
 そしてバスで通ってきた道路が舗装されたのが1967年。そして1970年に入ると、グルメとファッションと平成風にいえば「女子旅」という新しい女性のライフスタイルを提唱した“an-an”や“non-no”が発刊され、さらに旧国鉄も「ディスカバー・ジャパン」キャンペーンを繰り広げ、高度経済成長の乱開発から残った各地の隠れた名所を女性同士で行く旅が流行りだした。1970年には渚ゆう子・ベンチャーズの「京都の恋」「京都慕情」など、金閣寺や清水寺、二条城といった修学旅行の定番コース以外の隠れた名所が注目された昭和四十年代、大原は「何度目かの京都」の行先としてリピーターたちから絶大な支持を得たのだ。
 しかし私の学生時代の平成初期には、そのブームは完全に過ぎ去っており、元の静かな大原に戻って久しい。雨に打たれ「大原女の小径」を歩きながら、閑古鳥だらけの「昭和風」土産物屋を横目に、栄枯盛衰を感じずにいられなかった。

三千院の苔の庭
 十分ほど歩くと、穴太衆の作か、城郭とみまがうほどの立派な石垣が現れた。比叡山の向こうの近江坂本の門前町を思わせる。堅牢なその石塁の石段を上がり、江戸時代の城門のような御殿門をくぐると、三千院の客殿だ。伝教大師最澄が比叡山に創建し、慈覚大師円仁が引き継いだこの天台宗寺院が大原に移ってきたのは明治時代のこと。つまりここが三千院として知られてきてからそれほど長く経っているわけではない。とはいえ、宸殿から広がるまばらな杉の下に広がる苔庭の美しさは西芳寺の苔に勝るとも劣らない。しっとり濡れる苔のつやが、京都の「俗世間」から雨の中を登ってきた私の眼に染みる。
 苔庭にお堂がある。往生極楽院といい、阿弥陀如来の三尊像が迎えてくれる。押したばかりの御仏の金箔の光が暗いお堂の中から外にあふれ、衆生を極楽浄土にいざなってくれるかのようだ。特に左右の脇仏は前かがみにひざまずき、一刻も早く救いに来てくれるようである。これを創建したのは長明が大原に来る200年近く前、「往生要集」を著して人々に極楽浄土への往生の仕方を伝えた恵心僧都・源信といわれる。そしてその本こそ、後にほとんどの書物を捨てて草庵暮らしをしていた長明が大切にし、何度も読んだ本だった。
 彼が出家したのがここの裏手の来迎院だったというし、また「往生要集」を愛読書としていただけに、この三千院―当時の極楽院に来ていたに違いない。

ヒッピーのコミューンだった大原(?)
 それにしても静かだ。京都という当時日本一の大都会から十数キロでありながら、俗塵を離れるにはここは格好の地だったことがよくわかる。そこで当時、ここは京都から多くの世捨て人たちが集っており、彼らのコミュニティのようなものも形成されていたようだ。そうなると和歌の会や琵琶の会などを催せば、それなりの人が集まり、交流が生まれていたようだ。
 20世紀でいうならば白樺派が千葉県我孫子の手賀沼沿いに集住したようなもの、あるいは各地にできたヒッピーのコミューンのようなものだったかもしれない。さらには、山中でその日の糧にいかにありつくかということに汲々としていた地元民のなかは、彼らに都の物資を配達する宅配業者まで現れるほどで、大原も意外に便利だったという。
 長明が大原に向かう前の1186年、現三千院付近の勝林院で、東大寺の重源らが「諸派連合軍」を結成し、浄土宗を打ち立てた法然を取り囲み、一昼夜にわたって十二の教義上の難問を投げかけた。そこには数多くの聴衆もいたが、「南無阿弥陀仏」の称名でだれでも極楽に往生できるという法然の教義に聴衆の多くが心打たれた。おそらく伝説だと思うが、この時、安置されている金色の阿弥陀如来の手から光が放たれ、念仏による極楽往生の正しさが証明されたという。
 しかし反対勢力も負けておらず、長明が大原にいた1207年、法然は讃岐に流されていた。三年後に許されて帰洛し本拠地とした勢至堂が現在の知恩院である。
 それにしても人里離れた山里で、だれに気兼ねすることもなく仏道と和歌と琵琶に没頭できるというのはうらやましい限りである。和歌の編纂事業のような誇りややりがいはないかもしれないが、長明という人物は本来世間的な成功よりも、だれにも邪魔されないなかでのびのびと自然体で生きていたい、老荘的な人間なのだろう。しかし一所にいられない性質なのか、または人々との交わりがいやになったのか、三、四年すると突然大原を去った。
そこで翌日は洛北大原から長明の次の隠棲の地、洛南日野に行く途中、知恩院に寄ってみることにした。

日野への道―知恩院界隈
 前日とは打って変わったうららかな春の日、幼稚園児の息子と大きなスーツケースを引きずりながら、地下鉄東西線に乗り、三条駅で降りた。鴨川を見ながら思い出した。長明の時代はこの一帯もあるときは地震で家々がつぶれ、あるときは辻風で吹き飛ばされ、さらには飢餓で死者がこの川に流され再び亡くなり、そのたびに地獄絵の様相を呈したはずだ。そのため人々は極楽浄土への往生に憧れるようになったのだ。
 知恩院は小高い丘の上にあるので、スーツケースがより重く感じる。そのうち非常に大規模な、城郭を思わせる石垣に巨大な山門が見えてきた。スーツケースを寺務所に預け、数十メートル石段を登ったところが突然広い空間の御影堂、つまり法然上人の像を安置する巨大な建物である。この動線は、城郭マニアの私からすれば平山城の大手門から三の丸、二の丸、そして本丸の天守にたどり着いたかのような感じがする。
 そのほかにも巨大な建物が少なくないが、これらの中に法然時代のものは一棟もない。みな江戸時代初期、特に家康時代に幕府によって建てられたものだ。これも家康自身が浄土宗を信仰していたことによる。法然時代の面影は建物や仏像などではなく、一心に念仏を唱える人々の中に見るべきだろう。
 再び山を下りて、西側に向かうと青蓮院である。ここは長明の死後数年してから史論「愚管抄」をまとめた天台座主の慈円が若いころ門主をしていたところで、彼のもとで得度したのが親鸞である。現在は知恩院に比べると小ぢんまりしているかもしれないが、もともと法然に勢至堂を提供したのも慈円であることから、青蓮院からみると自分たちが大家、勢至堂=知恩院は店子のようなものだったのかもしれない。現在も天台宗寺院でありながら真宗門徒にとっても聖地である。慈円の、そして天台宗の懐の深さを感じさせる。
 坂を下って地下鉄東西線東山駅から日野に最も近い石田駅を目指した。駅のコインロッカーには私のスーツケースは大きすぎて入らず、やはり引きずって歩くことにした。

「日野」ってどこ?法界寺への道
 「日野」という場所が京都でもかなり知名度が低いと知ったのはその前日のことだった。ホテルの従業員に「日野に行きたい。」というと、「山科のほうですか?」と言われた。日野は山科区ではなく伏見区なのだが、京都中心部の四条大宮に務めるホテルマンたちには「山科のほう」で片づけられてしまった。さらに石田駅の次の六地蔵駅は宇治市なので、宇治出身の通訳案内士に「日野に行く」と言ったところ、おなじようにピンとこなかったようだ。日野は今なお京都の秘境なのか?それなら当時ならなおのこと、隠棲の場にふさわしい。なぜか期待が高まってきた。
 石田駅から日野の法界寺および誕生院までは1㎞あまりだが、荷物があるのでタクシーに乗った。4LDKの戸建てが計画的に建ち並ぶ、何の変哲もない郊外の町である。大原と比べると「都会」だ。秘境ムードは消し飛んだ。
住宅街が山と交わるあたりの法界寺にすぐに到着した。12世紀末に法然の弟子、聖覚によって作られた国宝阿弥陀如来像は、お隣の宇治市平等院鳳凰堂の阿弥陀如来と瓜二つであり、典型的な定朝様である。壁には極楽浄土の天女を描く壁画がうっすらと残っている。
 親鸞はここで生まれたという。阿弥陀堂は鎌倉時代初期の再建でも、如来像は親鸞時代にもあったはずだ。ということは、彼もこれを拝んでいたに違いない。良いものを見せてもらった。ここも天台宗寺院であるが、真宗の「正信偈」をあげさせていただいた。
 そしてこの寺院を創建した地元の日野氏こそ、親鸞のルーツである。親鸞らが法然とともに後鳥羽上皇の逆鱗にふれ、流罪に遭ったのが1207年。その翌1208年に日野氏を頼ってこの寺に来たのが、他でもない後鳥羽上皇に目をかけられながらもその下を去った鴨長明であった。これも運命のいたずらと言えよう。

「方丈記」の春夏秋冬
 法界寺からスーツケースをおしながら住宅街の坂道を上り続けた。1キロ余り行くと住宅が途切れ、山道になった。スーツケースがずっしり重い。人気が全くない草むらにスーツケースを隠して、登山道を登っていった。その先に長明が庵をたてた場所があるはずだ。山道を歩きながら心が躍る。高校時代に「方丈記」とであってから、うまくいかない時はなぜか気になってくる鴨長明にようやく会えるような気がしてきたからだ。
 そのうち小川といえないほどの水流がせんせんと山道を流れてきた。息子にそれを踏まないように注意を促し、水流をさけつつ15分ほど登り続けた。
杉林のなか、ホーホケキョの声が聞こえる。ウグイスではあるが、ホトトギスについて書いた「方丈記」の次の段落を思い出した。
「春は藤波を見る。紫雲のごとくして、西方に匂ふ。(春の藤がふわーっと垂れるのが紫色の雲のようで、西方極楽浄土につらなるようだ。)
夏は郭公(ほととぎす)を聞く。語らふごとに、死出の山路を契る。(夏のきょきょきょきょというホトトギスの鳴き声に向かい、「ワシが死んだら冥途へのお供についてきてくれ」と頼んだ。)」
 つまり、彼はこの山中の庵で春の藤につけても、夏のホトトギスにつけても、死をイメージしていたのだ。この山道自体がこの世とあの世を結ぶ道にように思えてきた。
さらに続く秋冬は、
秋はひぐらしの声、耳に満り。うつせみの世をかなしむほど聞こゆ。(秋のカナカナカナカナというヒグラシの声が耳に響き渡ると、はかないこの世の悲しさにうたれる。)
冬は雪をあはれぶ。積り消ゆるさま、罪障にたとへつべし。(冬は雪に心動かされる。積もっても融けて消える様子は、往生できるよう功徳を積んだのに悪いことをして極楽に行けなくなるような感じか。)」
 つまり、春夏秋冬、あの世のことを考えているのだ。同じ京都で四季を語らせても「枕草子」の「春はあけぼの 夏は夜 秋は夕暮れ 冬はつとめて」と比べると、その内向きな厭世観が目立ちすぎる。

方丈跡で「方丈記」の暗唱
 さらに山深いところに登っていくと、せせらぎの音が大きく鳴り響いてきて、ついにハイエースほどの大きな岩が現れた。上部は平らだ。ここに長明は庵を建てたのだという。静かだ。聞こえるのはほとばしる水の音と鳥の音、そして木々のざわめきだけだ。ここに長明は七、八年も住み、往生したのか。
 冒頭の「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし…」もここで書いたのだろう。とすると、「ゆく河」とはこの日野の山奥の石清水だったのか?「よどみに浮かぶうたかた」とは、途中で流れがよどんでいたところを見て思ったのか?それとも八百年以上前の話で、道も水の流れも変わってしまったのか?そんなとりとめもないことに思いをはせながら、息子に「行く川の水は絶えずして…」をその場で暗唱させ始めた。
 私はなぜか古典の暗唱に凝っていて、息子が三歳になったころから名作にまつわる場所に赴いては暗唱させている。それも、越後湯沢では「雪国」の冒頭、奈良では「百人一首」のうちの数首、また古典ではないが、沖縄のガマ(自然壕)の中では「月桃」、さらに土浦の予科練平和記念館では「若鷲の歌」など、時代性も思想的統一性もなにもないが、ときには節をつけて歌いつつ暗記させている。長明が「方丈記」を執筆したといわれる山中でそれを暗唱することで、彼の想いが息子の将来にも影響を与えるのではないかと思いながらも何度も唱えさせた。「厭世的な子ども」というのも、ある意味かわいいではないか。

山守りの息子-かけがえのない友
 子どもいえば長明はこの山に入った時、身の回りのお世話係として山守りの息子が彼のもとに来ていたが、その十歳の少年とは妙に気が合い、ともに山を歩き回り、語り合ったという。おそらくその交流は彼が亡くなるまで続いたと思われるが、思うに六十代の老人と十代の少年は、先生と弟子という関係でも、高齢者と介護者という関係でもなく、長明の一生のうち、ただ一人の心を許せる友達ではなかったろうか。
 下鴨神社では親戚や神社関係者との付き合いはあったろう。和歌や琵琶の会にも、師や歌仲間はいた。「新古今和歌集」の編纂にも、同僚や上司がいた。大原でも隠者同士の付き合いはあったろう。しかし、下鴨神社の禰宜の子という身分も、和歌や琵琶の才能も、後世に残る和歌集を途中まで編纂したというキャリアも、上皇や藤原定家など、超VIPと交流関係があることも、そんな世俗的な権威が全く通用しない相手…十歳の無学だが山での生活能力にたけた少年…の出現に、彼はそれまでの交友関係ではなかった新鮮味を感じたのかもしれない。
 この少年に関する記述によると、山の中を歩いて、「百人一首」の名歌でも知られる隠者、猿丸太夫や蝉丸の足跡をたどったという。想像に過ぎないが、長明は少年に、
奥山に 紅葉ふみわけ 鳴く鹿の 声聞くときぞ 秋は悲しき」(猿丸太夫)
これやこの 行くも帰るも 別れては 知るも知らぬも 逢坂(あふさか)の関」(蝉丸)
などの歌を口伝えで教え、暗唱させたのではなかろうか。また、花見や紅葉狩り、山菜取りなど、四季折々の楽しみをともにしながら、やはり和歌を口ずさんだのではなかろうか。年齢も出自も教養のレベルも異なる二人ではあるが、生涯を通して長明が本当の意味で心を開いたのは、この十歳の少年だけだったのかもしれない。

ポータブルハウスでの断捨離生活でも手放さなかったもの
 方丈の庵の跡地で改めて思いだした。彼は歌や琵琶の天才などをもつ「やんごとなき身分」の方でありながら、手先が器用で、この三坪ほどの岩の上に収まる庵を設計する建築家でもあったのだ。ちなみにそれはあらかじめこの岩の土地に合うように設計したのではなく、持ち運びできる組み立て式家屋をばらして持ってきたのだ。というのも、いつ何時、天災や人災で引っ越さねばならなくなるか分からぬ都での暮らしの現実を目の当たりにしてきたため、何かあればいつでも逃げられるコンパクトサイズの家を設計していたのだ。
 そして河合神社に復原された庵にもあったように、囲炉裏と寝具、「往生要集」等数冊の本、琵琶、そして仏画など、最小限のものしか持ち込まなかった。ここに来るにあたって「断捨離」を行ったのだ。とはいえ、琵琶が必要だったのか。それは仏教の否定する「執着」ではないのか?実は現代の「断捨離」と同じく、彼の場合もすべてを捨てる禅僧の出家のようなものではなく、自分にとって大切なもの以外は処分するということであるようだ。だとすると、彼は極めて現代的な感覚の持ち主だったのかもしれない。


長明の「いざ、鎌倉」
 彼がこの日野の山奥で「方丈記」を書く前年の1211年、実は大旅行をしている。目的地は新興の武士の都、鎌倉である。連れ立って行ったのは、「新古今和歌集」編纂時の同僚にして歌仲間の飛鳥井雅経である。百人一首では「参議雅経」として、次の歌で知られる。
み吉野の 山の秋風 さ夜ふけて ふるさと寒く 衣うつなり」(新古今和歌集)
 雅経は後鳥羽上皇や藤原定家の下で選歌をするほどの才能を持つため、源頼朝からも寵愛を受けており、二代将軍頼家や、「和歌将軍」だった三代将軍実朝とも親交が深かった。このたび雅経は亡き頼朝公の法要が鎌倉の法華堂で行われたのに呼ばれ、その際、日野の山中で世捨て人となって老いゆくかつての歌仲間に、残り少ない人生で花を持たせてやろうという「友情」から、和歌や琵琶に関するそれなりの仕事を与えてほしい旨を事前に根回しして鎌倉に下ったのだ。長明は御家人ではないので将軍との間に「御恩と奉公」の関係はないが、自分の残りの人生をかけ「いざ、鎌倉」の心境だったかもしれない。
 現在「武家の古都」鎌倉を歩きつつ、当時を偲ぶのは難しい。そもそも鎌倉市内に鎌倉時代の建造物は皆無である。しかし地形は昔のままだ。鶴岡八幡宮を中心にして、南にのびる若宮大路が由比ガ浜に向かう。この構図は当時ならば京都御所から南にまっすぐのびる朱雀大路、現在ならば烏丸通に見立てることができる。
 そして由比ガ浜の海岸は、近代に入って完全に埋め立てられた巨椋池(おぐらいけ)を思い起こさせる。ちなみに巨椋池は、現在の宇治市の平等院近くを流れる宇治川から、京都・大阪府の境で木津川・桂川と合流する地帯まで広がる、日本一の池だったという。さらに、北山や東山に該当する山々に囲まれたこの町は、少なくとも現代人にとっては古都・京都の地形を思わせるかもしれない。
  活気に満ちた輝かしいこの新興都市を訪れた京都の文人鴨長明はどう感じただろうか。おそらく災害続きとはいえど王朝文化の残り香のあった京都と比べると、鎌倉は文化的深みもなく、そこで見たものも京都の文化を劣化版コピーした薄っぺらいものに過ぎなかったのではなかろうか。

武家の都、鎌倉への違和感と「就活」失敗
 そもそも武家社会というのは、公家文化の中で過ごしてきた彼にとって全く異質のものだったろう。鶴岡八幡宮は京都・男山の石清水八幡宮を勧請したものであるが、この京都文化の権化をシンボルとする以外に、あまり見るべきものはなかったようだ。
 例えば高徳院阿弥陀如来坐像、すなわち鎌倉大仏も、建長寺・円覚寺といった禅寺も、その時には建立の計画さえない。たとえあったとしても、出来上がったばかりの大寺院など、長明からみれば成金趣味にしか思えなかったことだろう。それはいわば現代日本人が中国の深圳やUAEのドバイなどを訪れたとき、政治的、経済的活気は感じるが、長い伝統に基づくしめやかで文化的な香りが感じられないようなものかもしれない。
 この町のどこか、おそらくは八幡宮の東に当時あった大倉幕府あたりで、雅経は長明を時の三代将軍実朝に引き合わせたことだろう。今は手狭な低層住宅地域となっているこの地域も、昔は東日本の中心だった。実朝の和歌の才能も群を抜いており、後鳥羽上皇に師事しつつ、藤原定家にも和歌の添削などを頼むほどだった。そのようなサロンの中にいた長明なので、さぞ話が盛り上がるかと思いきや、結局のところ実朝と長明の間には縁がなかったようだ。就活失敗である。長明は得意の琵琶を披露することもなく、心のたあけを歌った和歌を若き将軍に捧げることもないまま、鎌倉を去った。


鶴岡八幡宮
 鎌倉幕府の象徴であり、軍神、八幡神を祭る鶴岡八幡宮本宮。その石段の横に銀杏の巨木があった。長明が鎌倉を去って8年後の1219年、二代将軍頼家の息子、公暁(くぎょう)が、叔父にあたる実朝が本宮に上がるのを待ち構え、殺害したことで源氏の将軍は途絶える。鎌倉将軍家と京都の天皇家が表面上うまくいっていたのは、「新古今和歌集」を編纂させた後鳥羽上皇や、その中心的撰者でもあり「小倉百人一首」をもまとめた藤原定家、そして武家による初めてのアンソロジー、「金槐和歌集」をその数年後にまとめているほどの実朝将軍によって「和歌」という貴族文化の精神的遺産を共有することにより絶妙なバランスで保たれていたからだ。
 そのつながりがなくなり、武骨な北条家が執権となるや、京都と鎌倉の関係は悪化し、二年後の1221年に上皇は二代執権北条義時を追討する院宣を出した。それに対して実朝の母にして頼朝の妻だった北条政子が、大勢の御家人相手に、関東の幕府を打ち立てた頼朝公のおかげで御家人の所領も増加・安定し、京都などに使役されずにすむようになった御恩に報いよという旨を、この鎌倉で演説したという。日本史上、演説で、しかも女性の演説で荒くれ武者どもが動いたということは後にも先にもない。もちろん、坂東武者たちも恩義だけではなく、様々な計算をしたうえで政子側についたのは言うまでもない。
 そしてこの「承久の乱」によって後鳥後鳥羽は破れ、隠岐に流されるが、配流先でも「新古今和歌集」の校正に校正を重ねていたという。「新古今和歌集」は華やかなりし王朝時代の挽歌でもあったのだ。ある意味、長明がこの選歌に携わりつつも河合神社の禰宜になれないとなると出奔したというのは、平安京の貴族社会から逃げ出したことを意味し、実朝に会いに行きながら「就活」に失敗したというのは、新しい時代の武家社会からも受け入れられなかったことを象徴的に表している。
 二つの時代のはざまに落ちたこの天才が、住み慣れた京都につくまでの足取りは重かったに違いない。しかし日野の山には彼を待つ少年がいた。そして彼は自分の一生と、人や世の中に対して思うことを書き連ねた。これが「方丈記」となった。


「方丈記」は結局「コミュ障じいさん」の自己弁護なのか?
 鎌倉での長明のパフォーマンスは全くなっていなかった。自分の本当の力が出し切れていれば、登用先もあったかもしれないが、それをやろうと思わなかった。いや、できなかったのかもしれない。それが自分の主義だからか、物欲しげではしたないと思っていたからか、それとも武家政権という新興勢力の頭目に違和感があったからか分からないが、彼は今の言葉でいうなら「コミュ障(コミュニケーション障害)」だったのではなかろうか。
「方丈記」の終盤には、彼の本音と建前と自己弁護と負け惜しみと強がりがごちゃまぜになって表れてくる。例えば、
ほど狭しといへども、夜臥す床あり、昼ゐる座あり。一身を宿すに不足なし。寄居(かんな)は小さき貝を好む。これ事知れるによりてなり。みさごは荒磯にゐる。すなはち人わおそるるがゆゑなり。われまたかくのごとし。事を知り、世を知れれば、願はず、わしらず、ただ静かなるを望みとし、憂へ無きを楽しみとす。
(たとえ狭いといっても、人間「起きて半畳、寝て一畳」あれば十分だ。ヤドカリだって小さめの貝を好むというし、ミサゴという鷹は、人に襲われないよう荒磯にすむ。私も同じで、自分の分際をわきまえて、世の中の仕組みもわかっているので、高望みはしない。あせってじたばたしたり、振り回されたりもしない。ただ心静かで安心できるのが一番なのだ。)」
 結局、鎌倉でそれなりの和歌に関する地位に就けなかったことに対し、「わしはそんな地位を目の前にぶら下げられても振り回されないぞ。やはりこの日野の庵が一番じゃ。」と、強がって負け惜しみを言っているように思えてならない。
 また、物心ついたころから周りの人たちにかしずかれて育ち、山中でも山守りの少年に頼り、鎌倉に下り、将軍に謁見するにも雅経の助けを借りてきた、「頼りっぱなし」の彼が、このように言っている。
只、わが身を奴婢とするにはしかず。いかゞ奴婢とするとならば、若(もし)、なすべき事あれば、すなはちおのが身をつかふ。たゆからずしもあらねど、人をしたがへ、人をかへりみるよりやすし。若、ありくべき事あれば、みづからあゆむ。苦しといへども、馬・鞍・牛・車と、心をなやますにはしかず。
(やはり自分の体を召使にするに限る。そのやり方については、しなければならない時には自分でやればいい。面倒くさくないといえば嘘になるが、人を使って、気を遣うよりましだろう。歩きたければ自分で歩く。疲れるとはいえ、馬や牛はどうなった、鞍は?車は?など、あれこれ面倒なことを考えなくていいじゃないか。)」
 やはりこの人は貴族階級だ、と思った。「自分のことは自分でする」というのは最低限のこと、ではなく、あえて書きつけるほどのことなのだ。これはそれまでの自分の暮らしを顧みて、自戒の意味で書いているのか、または京都で人間関係にあくせく悩ませられている貴族たちに「まだ都で消耗してるの?環境を変えるだけで人生はうまくいく」と、ブロガーのイケダハヤト氏のように生き方を改めようとしているのか、興味深いところだ。さらに彼は言う。
若、人このいへる事を疑はば、魚と鳥とのありさまを見よ。魚は水に飽かず。魚にあらざれば、その心を知らず。鳥は林をねがふ。鳥にあらざれば、其心を知らず。閑居の気味も又おなじ。住まずして、誰かさとらむ。
(嘘だと思えば魚と鳥をよく見てみろ。水の中の魚は水が大好きなはずだが、我々人間は魚じゃないからその楽しみは分からない。鳥なら林が好きだろうが、鳥じゃないからその本当の心は分からない。こんな山中で隠遁するのも同じ理屈で、やってみた人じゃないと分からない。)」
 だんだん、都会の君たちより日野の山奥のわしのほうが幸せなんだ、と、自分の選んだ道を認めてほしいという感じが伝わってきて、ある意味痛々しい。ただ彼がもし本当にコミュ障だったら、これは建前の強がりなどではなく、案外本音なのかもしれない。
ちなみに私が最も好きな一文が終盤の終盤に出てくる。
ただかたはらに舌根をやとひて、不請阿弥陀仏両三遍申してやみぬ。(ただなんとなく口をモゴモゴさせながら、ナマンダブ、ナマンダブ⦅こんなので阿弥陀さん、ほんとに救ってくれたりして⦆…と二、三回繰り返してからやめてしまった。)」
 この人は結局、当時の皆が心からあこがれた極楽浄土に、阿弥陀如来に心から「南無阿弥陀仏」の称名を繰り返すことで往生する、ということを、本気で考えていなかったのではなかろうか。ふもとの法界寺で生まれ育った親鸞は、長明が「方丈記」を執筆していたころ越後に流され、そこで「本気で南無阿弥陀仏を唱えれば、だれだって極楽浄土に往生できる」と民衆に説いていた。そして人々の心をつかみ、浄土真宗を日本最大の宗派にしていった。
 それに比べると長明は「不請阿弥陀仏」、すなわち阿弥陀仏が衆生を救うという浄土信仰の「真理」を本気にしていないようなのだ。この中途半端な阿弥陀仏とのスタンスに救われる人も少なくないことは見当がつく。一心に弥陀の本願を信ずるよりも、「こんないい加減な自分でいいのか?」と自問しながら「ナマンダブ、ナマンダブ」を唱えてはやめる、また思い出したように唱えてはやめる。そのような中途半端な大衆に、「それでいいのだ」と「天才バカボン」のように太鼓判を押してくれるのが、長明なのだ。
 誰でも、特に「悪人(ダメ人間)」から救われると説いた親鸞だが、坐禅をするでもなく、南無阿弥陀仏を心から唱えるわけでもなく、山の中で琵琶を弾き、歌を詠み、世をすねたように生きているこのような老人から救ってくださるという親鸞のロジックを長明が知っていたのだとしたら、大した策士である。
 それにしても長明のイメージは「隠者」だと高校時代は思っていたが、この旅を通して「琵琶と和歌のアーティスト」「元祖断捨離じいさん」「B型じいさん」「コミュ障じいさん」「強がりの負け惜しみ」「なんちゃって浄土信仰」「実は策士」など、様々な横顔が見えてきた。
 山中で長居しすぎたようだ。合掌礼拝で長明じいさんに別れを告げ、坂を下りながら息子に改めて「ゆく河の水は…」を暗唱させているうちに、山の入口に置いておいたスーツケースを見つけた。アスファルト道路にでたころは、西日が差していた。じきに住宅街に出て、向こうから歩行者がやってきた。山の中ではポケットにしまっていたマスクを取り出してつけた。世の中はコロナだったことを忘れていた。コロナで日本中、世界中のライフスタイルが変わったが、これもまた「ゆく河の水」となってくれることを祈りつつ、日野の里を去った。(了)

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