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大乗佛教がやってきた! インド→シルクロード→中国→朝鮮→大和路の長旅


「あなたは佛教徒ですか?」と「お宅は何宗ですか?」の間
例えば外国のクリスチャンに「プロテスタントですか?カトリックですか?」と問うたとしよう。この場合彼らは自分のことをクリスチャンであることを前提に、所属する宗派を答えるだろう。
 一方我々の場合はどうだろう。「お宅は浄土真宗ですか?禅宗ですか?」と問われたら、「父の家は曹洞宗ですが、母の家は真宗です。」などとは答えられる。だが別の機会に外国人から「あなたは佛教徒ですか?」と問われたら困ってしまうのは私だけだろうか。宗派を問われるのはこの世における家族の所属先を問われることであるが、「佛教徒」であるかと問われるのはもっと根源的な個人の信仰の問題だからだろう。
 これまで通訳案内士を約四百人養成してきたが、宗教を含めた日本文化に精通しているはずの我々通訳案内士の中でも「私は佛教徒です」と堂々と言える人はまれであると気づいている。そもそも我々の考える日本佛教というのは、ワールドワイドにみてスタンダードな佛教といえるのか。そのようなことを思いつつ、桜の咲くころ幼稚園を卒園したばかりの六歳の息子を連れて日本佛教のゆりかご、大和路を歩いてみた。

佛教伝来以前の大和の建築たち―唐古・鍵遺跡と纏向(まきむく)遺跡
 大和の佛教文化が栄えたところとしては、奈良盆地最北端の奈良市街(平城京)、奈良盆地西側で生駒山東麓の斑鳩(いかるが)町などもあるが、この国の佛教文化が最初に花開いたのは奈良盆地南部の明日香村(飛鳥)である。
しかしそれに先立つこと八百年ほどの紀元前三、四世紀ごろ、大和三山の一つ、耳成(みみなし)山の北に位置する田原本町には、大環濠集落が形成され、すでに楼閣が建っていたという。これが唐古・鍵遺跡である。ひさしの装飾がワラビのようにクルリとカーブしていたというこの建物は、「唐古」という名から推測できるように「唐」すなわち渡来人の技術を利用したものだ。
 唐古・鍵遺跡から大和川(初瀬川)を、三輪山目指してさかのぼっていくと、箸墓(はしはか)古墳で知られる纏向(まきむく)遺跡である。卑弥呼が三世紀に邪馬台国を置いたという伝説の地には、伊勢神宮正宮と同型らしい平入りの建物と出雲大社と同型という妻入りの建物の礎石が発掘されたと言われ、興味が尽きない。
 現在、唐古・鍵遺跡の弥生時代の楼閣は復元されており、昔を偲べる。ただあくまで推定復元であるので、ひさしにワラビのような飾りのついたこの建物が実在していたと考えを固定させるわけにはいかない。むしろ纏向遺跡では建物の復元ではなく、1メートルほどの高さの杉柱を六十数本埋め込み、卑弥呼の宮殿らしき巨大な建築の規模を示しているが、杉柱の上にあったはずの、今はなにもない空中に想像を遊ばせるのも悪くない。ただ、いずれの遺跡にしても言えることは、佛教伝来のはるか前から奈良盆地には文明が導入されていたということだ。
 そんなことを考えながら明日香村に向かった。

「日本一小さい大佛(?)」-飛鳥大佛
 飛鳥の里をまわるには車でもよいが、あちこちで桜の咲くころだったので、橿原神宮前でレンタサイクルを借り、周ってみた。田園地帯を東に走り、飛鳥川を越えると北に丘が見える。百人一首で「春過ぎて夏来にけらし白妙の…」でしられる香具山である。香具山を見ながら自転車の後ろに乗せている息子にこの歌を暗唱させつつペダルを踏んでいると、標高152メートルと高くはない山なので、大学時代に初めて見たときにはこれがあの有名な香具山とは認識できなかったことなどを思い出した。
 そこから南に向かって丘を登り、下ったところに飛鳥寺がある。日本最古の現存する佛像で知られているこの寺をお参りするたびに思うのが、奈良のほとけたちに比べるとここの飛鳥大佛は表情がこわばっていることだ。学生時代に初めて見たときには「メカゴジラの顔」を連想するほどの生硬さを感じた。しかしここのほとけは奈良の他のどんなほとけたちよりも親近感が感じられる。まず金堂が小さいため約270㎝の高さの「小さな大佛」でも存在感があるからだろう。そして参拝者とほとけとの間には仕切りもなにもなく、オープンなのも、このほとけをより近く感じる理由だろう。
 渡来人の家系に生まれた鞍作鳥(止利佛師)によるこの大佛だが、表面のほとんどは鎌倉時代に焼けた後に作り直されたものという。もしこれが立っていれば一丈六尺(約480センチ)あったということから「丈六釈迦如来坐像」と呼ばれる。ただ、この小さな堂内でこそ存在感はあるが、「大佛」というにはいささか小さい。「日本一小さな大佛」というのは形容矛盾だろうか。

佛像が生まれるまでーインド×ギリシア=ガンダーラ佛
 現存最古(609年以前)のほとけが釈迦如来であることには大きな意味があるように思える。なぜなら釈迦如来こそ世界の佛教においてその「元祖」たるものだからだ。釈迦とは神ではない。ゴー(ガウ)タマ・シッダールタという北インド・ネパールのシャーキャ(釈迦)族の王子を指すことから分かるように「お釈迦様」とは民族名なのだ。それは例えば大和の皇子だった聖徳太子を「大和様」と呼ぶようなものだろう。ちなみに「ブッダ(佛陀)」というのは「悟りを開いた者」という意味で、シッダールタに限らずだれでも悟ればブッダになれるという。
 シッダールタ王子は人間に「生病老死」という四つの苦しみから逃れられないことに悩んで出家し、菩提樹の木の下で座って悟りを開き、弟子とともにインド各地にそれを伝えた。ただその当時は佛像というものは存在しなかった。佛教というのは拝むことよりも正しく生きることであり、正しくものを見る教えである。よって紀元前五世紀ごろに釈尊入滅後、五、六百年ほどは佛像もなかった。
 佛像の誕生は現在のアフガニスタンからパキスタンにかけてのガンダーラである。ギリシアのアレキサンドロスが「東方遠征」と称するインド征服を企て、この地を支配していたころ、ギリシアの彫像がガンダーラの佛教文化と融合し、佛像ができたという。それがシルクロード、中国、朝鮮を経由して日本列島にやってきた。今目の前にまします飛鳥大佛は千年以上の旅を重ねてインドから飛鳥の里に現れたことになる。

教え<建築・佛像の時代
 
できた当時は金色に光っていたであろう日本最古のこのほとけを前に思った。この釈迦如来坐像は苦からの解脱の方法としての「八正道」を説き続けてきたに違いない。これらは独りよがりの偏った見方を排して事実を見、それに基づき考える「正見(しょうけん)」や「正思」。相手に寄り添いつつ偽りのない言動を行う「正語」「正行(しょうぎょう」」。そして殺生や窃盗、詐欺など反道徳的な職に就かず善行に務める「正命(しょうみょう)」「正精進」、さらに物事の本質をつかむ「正念」「正定(しょうじょう)」である。
 ところで千四百年前、蘇我氏がここにこの寺を建て、佛像を鋳造したころ、塔を中心に東西と北に合計三棟の金堂があったという。金堂とはその寺で最も最も中心となるほとけを安置する建物だが、それが三棟あり、塔を囲むというのは、金色のほとけよりも塔のほうが重要視されていたことの表れなのだろうか。そしてそれまでこの盆地にあった大型建物というと、唐古・鍵遺跡や纏向遺跡などの楼閣建築はあったろうが、それらとは比べ物にならぬほどの華やかな金堂群や塔を目撃した飛鳥の人々は、苦しみからの解脱などではなく、寺院建築や金色に輝く豪華な文明に心惹かれたに違いない。
つまりこの国の佛教文化は衆生を救うための大乗佛教としてではなく、建築や佛像といった見事な外観を誇示するものとして入ってきたのだ。

「佛教六世紀周期説」とネット時代こそ必要なほとけの教え
 釈迦の時代から六世紀ほど経った1世紀前後に佛像が生まれ、中国に佛教が伝わった。その六百年後の七世紀前後に飛鳥の佛教文化が生まれた。そしてさらに六百年経ってインドで佛教が廃れた十二世紀前後、この国の民衆の間に鎌倉佛教が広まった。それから約六百年経ち、欧米の学者が佛教に関心を抱き始めた十九世紀、日本では廃佛毀釈が起こり、その後の佛教文化は「葬式佛教」と佛教美術が中心になって現在に至る
 この佛教の栄枯盛衰を語る「佛教六世紀周期説」に従うとすると、飛鳥寺が創建された六世紀前後の佛教は、目を見張るほど豪華な舶来品への憧れであったろうが、それらも今や日本史の教科書の一頁を飾るに過ぎない。そして最も大切なほとけの教えが庶民のものになるまではさらに六世紀を要した。
 釈尊の教えの詳細は日本史の教科書ではほぼ無視されつつあるが、インターネットが万能となった今のような時代こそ広まるべきではないか。例えばSNSだと似たような考えの人としかつながらないため、情報が偏りがちで、同じ情報に接しても自分の価値観に合わないものは無視しがちである。そんなときには「八正道」のなかの「正見」「正思」が必要なことは言うまでもない。そして情報を発信するにしても「正語」「正行」でなければ炎上する。顔も体も修理の跡だらけのこのほとけを見ていると、「本当に大切なのは佛像なんかじゃなくて教えなんだけどなあ…」とぼやきが聞こえてくるようだ。

ハングル版般若心経
 本堂内にはハングルの掛け軸がある。よく見ると般若心経がハングルで書かれているではないか。般若心経は五世紀初めにインド僧鳩摩羅什(クマーラジーヴァ)が大乗佛教のエッセンスを漢訳したものだが、後の七世紀に「三蔵法師」玄奘が命がけでインドから持ち帰り、独自に漢訳したものが、東洋各地で今なお唱えられている。目の前の釈迦如来像とハングル版般若心経に、偉大なるアジアのダイナミズムと縁を感じないではいられない。
 ハングル版般若心経を見ているとハングルが脳内で漢字に置き換わり、それが意味に落とし込まれてくるのを感じる。例えば「무고집멸도」を見たら「無苦集滅道」と脳内に漢字が浮かぶ。そして釈尊が悟りを開いてから最初に説いた「人はみな苦しみから逃れることはできない。その苦しみというのは凝り固まった迷いが集まってできたもの。しかしそれも滅却できる。八つの正しい道を歩む修行をすれば。」というように、「ハングル、漢字、意味」の三段階を経て私の中に入ってくる。

時空を超えた風景
 外に出ると塀の向こうに田園が続く。ここが大和で初めての王宮があった「まほろば」である。私はここにくるたびに二つの場所を思い出す。一つは韓国慶尚北道清道郡の田園風景であり、もう一つは私のふるさと、出雲安来の能義平野である。思わず息子に語りかける。
「安来に似とるのう。でも韓国にもこげなとこがあるで。」
 ふと見ると住職が板に白ペンキで書いた説明版がある。「真神原(まかみがはら)からの眺め」として始まるこの文は古代のロマンをかきたてる。
視野を遠く放つべし。ここに立ちて見る風景は古代朝鮮半島、新羅の古都慶州、百済の古都扶餘の地と酷似しており、大陸風で飛鳥地方随一なり。日本文化のふるさとである古都飛鳥のこの風景には、古代百済や新羅の人々の望郷の念を禁じえない。 住職謹記
 堂内でハングル版般若心経を見て、傷だらけのほとけにガンダーラとインドと中国の影を見て、美術品としておしこめられたほとけのぼやきを聴いたかとおもうと、外は韓国なのかわがふるさとなのか分からぬ風景だ。わずかの間に時空を超えてアジア一周をしたかのような眩暈(めまい)を感じた。
住職さんは日本文化のふるさとは飛鳥であり、そのルーツは古代朝鮮であり、そこに望郷の念を感じている。私は私で、日本文化のふるさとは出雲であり、出雲族のルーツの一つは古代朝鮮であると考え、いわば古代朝鮮をルーツとする地方同士で妙な親近感を感じている。

ギリシアの塑像×インド佛教=佛像、渡来人×土着文化=飛鳥文化
 飛鳥寺が創建されたころ、この地のマジョリティが渡来人だったというが、大和各地にも出雲系の大物主命を祭る三輪山やその南東の「出雲」集落、古代出雲発展のカギとなったタタラを司るヒメタタラをも祭神とする橿原神宮など、天皇家が支配する以前の古代出雲の存在がモグラたたきのモグラのようにあちこちから頭を出す
 そもそも「真神原(まかみがはら)」というが、私の育った奥出雲の雲南市には「神原(かんばら)」という集落があり、そこは日本で初めて卑弥呼が魏から賜ったという「景初三年」と刻まれた三角縁神獣鏡が日本で始めて発見された。飛鳥にいるのか出雲にいるのか朝鮮にいるのかいよいよ分からなくなってきた。
 そのうちインド渡来のほとけの教えを、朝鮮・出雲・飛鳥の水で割って飲んでいるかのような気になってきた。文化の大きな流れにほろ酔い気分となりつつ、私は息子を自転車の後ろに乗せ、古代と現代、日本とアジアが交差するこの農村地帯を走り、レンタサイクルショップを目指して帰っていった。
 ペダルを踏みしめつつ気づいた。ギリシアの塑像×インド佛教=佛像、渡来人×土着文化=飛鳥文化という、この文化のブレンドこそが飛鳥の本質ではないか。暮れなずむ樫原神宮駅前から近鉄奈良線に乗り、宿所のある奈良に戻っていった。

釈尊から達磨、そして聖徳太子へのバトンタッチ
 朝一番で奈良から法隆寺に向かった。JR大和路線法隆寺駅で降り、20分ほど歩いた。そのうちバス停の奥に南大門、そしてその右手に金堂、左手に五重塔がそびえるのが目に入ってくる。言わずと知れた世界最古の木造建築である。
 門をくぐると見える回廊の柱も、ギリシア神殿を思わせるふくらみ(エンタシス)が美しい。
 金堂に入る。薄暗いなか、おぼろに釈迦三尊像が迎えてくれる。表情のかたさは飛鳥大佛とよく似ているが、こちらのほうが多少和らいで見える。これも佛師鞍作鳥が聖徳太子の亡くなった後に、その姿を写して作ったものという。太子は日本の佛教史上最初の「佛教インフルエンサー」といってよいだろう。そして出家せずに在家のまま信仰を貫いたことも、後の日本佛教に大きな影響を与えた
 一国の最高権力者にして佛教に帰依した者は太子だけではない。例えばインド・マウリヤ朝のアショーカ王は殺生をもいとわぬ暴君だったが、改心して佛教を熱く信じ、紀元前三世紀にインド亜大陸の隅々まで佛教を広めたという。とはいえ異教徒に佛教を強要するのではなく、宗教同士の融和も図ったことは評価されるだろう。
 またそのインドで生まれ、中国大陸で佛法を広めようとした達磨大師は、五、六世紀に佛教を広めるのに熱心な梁の武帝に謁見した。武帝は達磨大師に「私は経文を編纂し、各地に佛塔を建てた。どんな功徳があるのだろう。」と問うたところ「功徳はなし」と冷たく答えた。功徳目的の佛教振興では意味がないというのだ。佛教は功徳を得る手段ではない。佛教そのものが目的なのだ。武帝に期待していただけに失望した達磨大師は、嵩山(すうざん)少林寺にこもって壁に向かい九年間坐禅し、禅宗の開祖となったという。
 そして達磨大師の没後に日本で生まれた厩戸皇子が、日本で最初に佛教精神に基づく政治を行った政治家といえよう。おばの推古天皇の摂政として八面六臂の活躍をした彼の基本精神は主に佛教に基づくものだが、それは太子のブレインにして高句麗僧の恵慈(えじ)に学んだものらしい。
 それは例えば役人のあり方について「十七条の憲法」には「篤く三宝を敬へ。三宝とは佛法僧なり。」とあることからも明らかである。「佛法僧」とはほとけとその教え、そして僧侶のグループを指す。
 さらに「忿(こころのいかり)を絶ちて、瞋(おもてのいかり)を棄(す)て、人の違うことを怒らざれ。人皆心あり。心おのおのの執れることあり。かれ是とすれば、われ非とす。われ是とすれば、かれ非とす。われ必ずしも聖にあらず。」「夫(そ)れ事独り断むべからず。必ず衆(もろもろ)とともに宜しく論(あげつら)ふべし。」などは独りよがりな考えの誤りを説いており、八正道の「正見」「正思」の影響がみられる。
 釈尊の教えは達磨大師がランナーとなって中国大陸に、そして地続きの朝鮮半島から恵慈が聖徳太子にバトンタッチして日本に広まっていったのだ。

金堂の壁画―美術史としてではなく
 1949年に火災で焼失してしまったが、復原された金堂壁画のほとけたちの大胆な表情やくねくねした腰つきは、釈迦三尊像とは異質の「インドらしさ」を感じさせる。グプタ朝のアジャンター石窟寺院に類するものがあるというが、これを見ると私の知っている唯一のパーリ語が口をついて出てきた。
「ブッダン サラナン ガッチャーミ(南無帰依佛) 
ダンマン サラナン ガッチャーミ(南無帰依法) 
サンガン サラナン ガッチャーミ(南無帰依僧)」
 子どもの頃に通っていた佛教日曜学校で毎回唱えていた「三帰依文」だが、これこそ「篤く三宝を敬え」という聖徳太子の教えそのものだ。釈尊が話した言葉に近いらしいこのパーリ語は、主に上座部佛教で使われるというから、スリランカやタイ、ミャンマーなどの佛教徒ならこの意味が分かるのだろう。そのため禅寺や浄土系の寺院ではめったにでてこないが、日本以外の佛教に接したときはパーリ語が口をついて出てくるのだ。
 大乗佛教、上座部佛教を問わず佛教徒同士のつながりを感じさせてくれるこの言葉だが、金堂壁画の複製を見たときにこれが無意識に出てきたということは、やはり私にとってあの壁画は日本のものというより異国のものと認識しているのだろう。
 同時に気づかされたことがある。これは日本史の教科書でも必出だが、私はほとけを「美術史」の一環としてみることができないようだ。鑑賞と批評の対象ではなく、あるときはすがり、あるときは自分のダメさ加減を改めて認識させてくれるものが佛画であり佛像なのだ。

「東洋のモナ・リザ」、百済観音
 法隆寺は金堂や五重塔、講堂を中心とした西院と、夢殿などからなる東院伽藍からなるが、その間に「大宝蔵院と百済観音堂」という宝物殿がある。その中にまします百済観音は中学時代に修学旅行できて見たときから不思議な感覚をいだかせるほとけだった。身長は209㎝と高いがほっそりとやせ、肉感は全くなく、何かを言いかけてやめたかのような曖昧な表情をしたこのほとけは、その名に「百済」という国名を冠する以外にはほぼ何もわかっていないだけに、想像の翼を自由に広げて背景を考えることができる。
 合掌礼拝してからどの角度が最も美しく見えるか、ベストアングルを無遠慮に探す私に、百済観音はさぞ迷惑がっていることだろうと我ながら思う。ある時気づいた。これは東洋のモナ・リザだ。この微笑と控えめな美は、ルーブル美術館に展示されていてもモナ・リザに引けを取らない。などと思っていたら、本当にルーブルに日本美術を代表して出展されたと知り、驚いた。みな考えることは同じなのだろう。
 この佛像は私にとって「信仰の対象」としてより「美術の対象」として見えるらしい。信仰と芸術の間で揺れる自分の中の基準がよく分からなくなる。

玉虫厨子に見る自己犠牲の精神
 院内で次に気になるのは「玉虫厨子」である。厨子(ずし)とはいわば佛壇のようなものであるが、その側面に描かれた「捨身飼虎図」はシッダールタ王子、すなわち釈尊の前世を表しているとされ、特に佛教的色彩が強い。
縦長の画面の上には崖から飛び降りようとする王子が、中ほどには頭から落ちようとしている王子が、そして下には虎に食べられる王子が描かれている。見方によっては縦長のコマ割りのない三コマ漫画にも見えてくるこの作品こそ、もしかしたら後の日本大衆文化の伝道師となった「漫画」の起源なのかもしれない。
 それはともかく、この絵は有名な佛教説話を表している。王子が森を歩いているときに飢えた虎の母子がおり、母トラが我が子を食べようとしているのを見かけた。かわいそうに思った王子が我が身を崖から投げ落とし、母トラに与えたという。この功徳によって次の生でシッダールタ王子として生まれたのだろう。
 手塚治虫の「ブッダ」に、山の中で飢えた老人に出会った三匹の動物のうち、老人に与えるものがないため焚火に飛び込んで我が身を焼いてその老人に捧げたウサギの話が出てくるが、このように自分の身を他人に捧げる自己犠牲は大乗佛教に特に顕著である。
 その割には玉虫の羽をむしって飾るというのはこの教えに反しているようにしか思えないという考えはひねくれているだろうか。

ウイグル人を思い出す伎楽面(ぎがくめん)
 法隆寺の大宝蔵院には伎楽面があると思っていた。伎楽面とは呉から伝わった仮面劇の面であるが、その目鼻立ちがウイグル人をほうふつとさせる。東京国立博物館の法隆寺館でこれを見た瞬間、昔中国に住んでいたころを思い出した。道端で自転車のスポークの先を削って串にし、香辛料をまぶしたスパイシーな羊肉をさして炭火で焼く「羊肉串」を焼くウイグル人たちをあちこちで見かけたものだ。舌を回して大声で客を呼び、片言の漢語(中国語)を話す彼らからいつも羊肉串を買っていた。伎楽面の容貌が実に彼らそっくりで、面を見ながら遠くシルクロードを思い出した。
 それらは法隆寺から皇室に献上されたものというので、こちらにもあるかと思ったら、伎楽面は全て東京国立博物館で保存されているとのこと。
 面というと、纏向(まきむく)遺跡からは目と口をうつろに開けた本邦最古の木製面が出土されている。そして田原本町の秦楽寺は大陸の楽曲や舞踊を伝えた秦氏の本拠地の一つであり、大衆的な仮面劇にすぎなかった猿楽・田楽を哲学的な芸術まで高めた観阿弥・世阿弥も秦氏の子孫ということになっており、彼らがその近くに住んでいたらしい。弥生時代から飛鳥時代、そして室町時代まで、大和盆地は日本の「面の本場」だったのだ。
 ただ、海を越えてやってきたかのようなエキゾチックな風貌の伎楽面がここでは見られないことが残念でならない。

夢殿救世(ぐぜ)観音だけは見られない理由
 東院伽藍の中心は夢殿であるが、この八角の堂内にあるのが「秘佛」救世観音である。今も春と秋に限定的にしか拝観できない。私も大学時代に一度拝観したことがある。しかし私はそれを鑑賞できず、下を向いて拝んで帰っただけだった。
 写真で見ると金箔がそれほどはがれておらず保存状態が極めて良い。私がしげしげと拝観できない理由は、明治時代の話を読んで知っていたからだ。文部省の委員として美術品調査の目的でここを訪れた岡倉天心やフェノロサは、ほとけに対する冒涜を畏れる僧侶たちを押しのけ、数百年間誰も見たことのないこの秘佛を白日の下にさらした。それが四、五百メートルもの布の中に現れたのがあのほとけだったという。その神秘をさらすという行為に私は抵抗を感じ、目の前に御開帳されていもみなかったのだ。
 江戸時代に寺院は幕藩体制の末端組織に置かれた。明治初期に、幕藩体制の手先としての寺院に憤った一部の人々は廃佛毀釈によってほとけを薪にして燃やしたり、道端に打ち捨てたりした。でなければ美術品として美術館のショーケースに入ってしげしげ見られ、批評されるか、そうでなければ商品として海外に売られるかであり、いずれにしてもほとけのもってきた佛法の伝道者として、または崇拝の対象としての役割は強引に奪われた。そんな記憶があるため、私は見たくてたまらないがこの目で拝観したことがない。これからもぶしつけに拝観することはないかもしれない。
 そして伽藍を離れ、隣接する尼寺、中宮寺に向かった。

佛像の複製はほとけたりえるか?
 法隆寺夢殿から中宮寺は、思わず同じ伽藍ではないかと思うほど近い。中学校の修学旅行ではじめてこの尼寺にまします漆黒のつやを放つ女性的なほとけの半跏思惟像を見て、なにかに吸い込まれるような親近感を感じたものだ。この像が弥勒菩薩なのか如意輪観音なのかは結論がでていないのだが、もし弥勒菩薩だとすると釈尊入滅後、五十六億七千万年という天文学的歳月を待つと我々を救いにやってくるという菩薩の顔は静かで優しい。
 最近行ったとき、半跏思惟像は「出張中」で複製が安置されていると入口で言われた。法隆寺金堂に比べるとはるかに小ぢんまりした本堂だが、入って複製に迎えられた私と息子は驚いた。なんと、正面と側面、二体の複製があるではないか。これは予期しなかった。しかも本物と比べるとわずかだが違うのが感じられる。複製というのはほとけといってよいのだろうか。しかも二体もある。シュールだ。頭が錯乱してきた。
 近代に入ってからほとけを信仰の対象ではなく美術品として見るインテリが増えてきた。そして彼らに対する批判は何度もきいた。ただ私自身、東京国立博物館に「出張」してきたこの半跏思惟像をしげしげと見つめたものだ。お寺にある時は右脳で感じる「ほとけ」が、博物館に展示されているときは左脳で批評する「物像(ぶつぞう)」と置き換わるようだ。
 ではその留守を預かっている目の前の複製品はなんなのだろう。留守を預かるからにはこちらのほうが代理とはいえどもほとけであろう。社長が出張中の副社長のようなものだ。しかしこれが複製と聞いてありがたみが薄れてくるこの私はなんなのだろう。そもそも「像」とは中国語で「~のような」を意味するが、逆に言えばそれそのものではないということだ。私がほんものであると感じるときは「ほとけ」、美術品としては「佛像」と呼び分ける理由はそこにある。
 しかしその日の中宮寺は代理の副社長が二人???本物・偽物とはなにかという哲学的命題を投げつけられて困りきった私を、二人の美しい「影武者」は頬に笑みを浮かべて見ている。
 お寺としては「社長」に面会に来たのに副社長しかおらず、申し訳ないので二人いる副社長をお出ましさせたのだろうか。奈良県とはいえ生駒山の向こうは大阪という斑鳩町である。大阪流のサービス精神なのかもしれない。

天寿国繍帳
 中宮寺での必見のものがもう一点あるとすると、天寿国繍帳であろう。聖徳太子の妃の一人、橘大郎女(たちばなのおおいらつめ)が、亡くなった太子を偲んで天寿国、すなわち極楽浄土に往生したに違いない太子の「極楽ライフ」を織物で表現した、日本最古の刺繍という。
 中宮寺の本堂にあるものだが、実はこれもレプリカで、本物は奈良国立博物館に所蔵されている。そして私はそれをかつて東京国立博物館で見た。本来は数畳分あったはずだが、現在残っているのは半畳分ほどだが、六分割された四角い空間に極楽での暮らしが縫い込まれている。真ん中から上は比較的はっきり見えるのだが、下のほうはよく見えない。これは飛鳥時代のオリジナルと鎌倉時代に補修した部分との違いだが、驚くことにはっきり見えないほうは鎌倉時代のほうであり、はっきり見えるほうが飛鳥時代のオリジナルである。
 一体どんな人物が飛鳥時代にこの絵を刺繍したのかは分かっていないが、総監督は椋部秦久麻(くらべのはたのくま)、そして絵師は東漢末賢(やまとのあやのまけん)、高麗加西溢(こまのかせい)、漢奴加己利(あやのぬかこり)という。つまり「秦」「漢(=韓)」、「高麗」などという漢字からして、明らかに渡来人であろう。飛鳥時代の渡来人の技術が七百年後の鎌倉時代よりも技術が高かったというのはにわかに信じられないが事実である。
 そして詳細を見ると白い花弁の蓮から人が生まれているが、これは極楽に往生した人物は蓮の花から生じるという説話によるものである。また、イソップ童話でもないが「ウサギとカメ」が刺繍されている。「亀は万年」で長寿のシンボルというのはよくわかるが、注目すべきはウサギが月の中にいて、餅つきの代わりに薬を作っていることだ。おそらく不老長寿の薬なのだろう。
 ちなみに亀の甲羅にはそれぞれ四字熟語が書かれている。確認できるものに「世間虚仮(せけんこけ)」、「唯佛是真(ゆいぶつぜしん)」がある。つまり「この世の中のすべてには実態などない。佛の世界こそ本当の世界である。」というのだ。太子は三部作の佛教の大著「三部義疏(ぎしょ)」のうち「法華義疏」というのがあるが、どうやらその中の言葉らしい。
 中宮寺からバス停に向かい、しばらくバスに乗ると法起寺である。こここそ日本の法華経発祥の地として名高い寺である。

法華経普及の始まりの寺、法起(ほうき/ほっき)寺
 法起寺を訪れる人は少ないかもしれないが「世界遺産法隆寺地域の佛教建造物」の構成資産である。とはいえ世界遺産特有の「偉そうな」雰囲気はない。法隆寺前からバスで四分ほど、歩いても十五分ほどで着く、現存最古の木造三重塔で知られる寺である。
 しかしここを中心に聖徳太子が広めようとしたのは、そのような牧歌的な信仰ではない。「三経義疏(さんぎょうぎしょ)」のうち、「勝鬘経(しょうまんぎょう)義疏」、「維摩経(ゆいまぎょう)義疏」と並んで「法華経義疏」の講義をはじめた地なのだ。
 「諸経の王(お経の中のお経)」とされる「法華経」は正しくは「妙法蓮華経」という。ここで「蓮華」という言葉が出てくるが、中宮寺の天寿国繍帳の図案を思わせる。法華経は後に比叡山延暦寺で重要視されたため、そこで学んだ鎌倉佛教の指導者たちもみな精読していたものだ。そしてインド僧鳩摩羅什(クマーラジーヴァ)が四世紀に漢訳したこの経典は、それまでの「般若経」をさらにバージョンアップさせたものといえる。(「般若心経」は「般若経」のエッセンスではあるが、両者は同じものではない。)
 例えば「般若経」では悟りを開く三つの方法を提示している。一つは「声聞乗(しょうもんじょう)」という、お寺できちんと先生について学ぶ「通学派」。二つ目は「独覚乗」という、組織や人に頼らず自分で悟る「独学派」。この二つは自分だけの悟りを考える点で、「上座部佛教」的である。そして三つめは「菩薩乗」といって自分の中の佛性を自覚し、自分だけでなく周りの人にも悟りを開かせる「部活動派」。「般若経」では最もよいのは「菩薩乗」だという。というのも、自らの悟りのみならず、みなともに救われようという「大乗佛教」的価値観が評価されたのだ。

語学やるなら通学派?独学派?部活派?
 しかし聖徳太子がそれ以上に「法華経」を評価したのは、これがすべての人が悟りを開けるという「衆生成佛」という考えに立脚するものだったからだ。「般若経」では取りこぼしかねない「通学派」「独学派」をも悟りの対象となるのだ。
 例えば英語を学ぶとして、通学(留学)派と独学派はしょせん自分の英語力の上達しか考えていない。留学を通じて生涯英語の道を歩もうとともに切磋琢磨して英語の達人にならねば、というのも分からないではないが、それでは通学(留学)派や独学派が救われない。これが「般若経」的な考えだとすると、そこで「だれでも英語の達人になれる」という考えに立脚し、通学(留学)派や独学派にも希望を与えたのが「法華経」といっていい。そしてその法華経が日本で最初に説かれた場所に建てられたのが、この田園のひかえめな寺であった。
 法華経が大切にするのは、まず佛像ではなく佛塔と経典そのものという。佛塔とは佛舎利、すなわち釈尊の遺骨や灰を分骨して保管した塔であるが、こちらのほうが佛像より歴史が長い。斑鳩の田園のなか、つつましくたたずむ三重塔だが、よく考えると佛塔を伝えた朝鮮半島や中国大陸では木造のものは極めて少ない。八世紀初めに建てられたこの三重塔は、たとえ渡来人が関与したとしても周りの田園風景に完全に溶け込んでおり、今や「日本の原風景」となったといえよう。
 また、法華経に関して言えば、ユニークな解釈が少なくない。中でも釈尊はそもそも悟った存在だったが、悟りを開くブッダとしての模範を示すためにこの世に生まれ、出家して悟りを開き、教えを広めて入滅した。が、それらはみなに身をもって教えを伝えるための「模範演技」だったというのだ。同じ佛教といっても色々な解釈があるが、その中でも太子は特に法華経を説いたこの地に寺を建てることを希望した。そして般若経とともにこの法華経は日本中に広まっていき、後に両者とも日本佛教の骨格を形成することとなった。

薬師寺 日光菩薩と月光菩薩
 バスで薬師寺を目指して失敗した。ルートは正しいのだが、境内の北西に位置する「西ノ京駅」前で下車するとお寺の裏口からしか入れないため、池に映える堂々たる双塔の伽藍を眺めることができない。なんといっても薬師寺というとあの塔なだけに残念である。
 四時ごろ裏口から入ってようやく金堂、東塔、西塔などにお目にかかることができた。白黒のモノトーンな色調は、現存する東塔や東金堂だけである。そしてその他は丹青や金銀をあしらった唐風の華やかな色調が全体を覆う。
 食堂(じきどう)から大講堂に入る。私にとってここの一番の見ものは佛足石(ぶっそくせき)である。佛像がガンダーラでできる以前、畏れ多くもみほとけの姿を表現することは憚られたため、人々はその足跡を彫ることによってほとけの教えをかみしめたというが、それが目の前にある。立派な塔も、輝かんばかりの佛像もありながら「足の裏の彫刻」という控え目で目立たないものを大切にするのは、大乗佛教以前の伝統が息づいていて興味深い。
 金堂にまわる。本尊の薬師如来はその名の通り医療の神として各地で民間信仰的にも人気を博してきたが、ここのほとけはかつて黄金色に輝いていたはずだ。目も眩むほどの輝きは時の流れとともに薄れ、正面の入口から入る日の光に反射して漆黒の鈍い光を放っている。ふくよかな薬師如来像だけでなく、左右の脇侍(わきじ)の日光菩薩と月光(がっこう)菩薩の控え目な腰のくびれも美しい。白鳳のほとけの美の基準が唐であったことが明らかに見て取れる。
 ふと思いついて六歳の息子、明に言った。
「これはお前のほとけさんだ。日光と月光。『日』と『月』でお前の名前の『明(あきら)』になる。お前の名前はこのほとけさんから来とる。」
ほとけさまの前で口から出まかせもいいとこだが、どうやら息子は感心していたようだ。

東院堂聖観音像
 そして時間の関係で東院堂に向かった。
 閉門時間ぎりぎりで東院堂にすべりこみ、こちらも白鳳佛の究極の美をたたえる聖観音像を拝む。観音様というのは衆生を救うために十一面観音、千手観音、不空羂索観音、如意輪観音等三十三の姿に変化するというが、その「デフォルト」の形がこの聖観音という。
 それにしても薬師寺の白鳳期のほとけたちは極めて完成度が高い。そして圧倒的な美しさを誇る。逆に飛鳥佛のもつ「ヘタウマ」的な味のある個性は少ない。飛鳥佛には手を合わせて拝むが、白鳳佛には手を合わせて美を鑑賞する自分に気づく。薬師寺は寺であり、美術館ではないとわかっていても、ここでは美術鑑賞にふけってしまうのだ。
 そしてここで白鳳時代から建ち続けてきた東塔に向かった。

東塔で思い出したお坊さんの話
 おりしも東塔は十数年の長きにおよぶ修復工事を終えたばかりで、普段非公開の内部の心柱まで拝むことができた。そして外に出ると、久方ぶりにお目見えした塔の先端に目を凝らし、少年時代を思い出した。
 私が初めて薬師寺にお参りしたのは1985年9月、中学二年生の修学旅行だった。その時のことはよく覚えている。太い眉毛に黒い袈裟のお坊さんが冗談を交えながら佛教とこの寺の意味を解説してくれたからだ。
 お坊さんは東塔の先端を指さし「あそこが見えますか?」と聞いた。いがぐり頭とおかっぱの私たちが一斉に先端を凝視するが、見える由もない。するとお坊さんはレリーフ「水煙」に飛天が笛を吹いている様子をパネル写真で見せてくれた。そして明治時代にあれを見つけたアメリカのフェノロサは、天平の音楽を奏でる飛天の様子が「瞬間冷凍」された様子が見えるようだという意味で「凍れる音楽」と評したという話をしてくださった。
 実はそれは史実ではなかったようだが、ポイントはそこではない。お坊さんの話は中国山地の山奥からやってきた我々いがぐり頭にとって、もっと大切な話をしはじめた。「昔の職人さんたちは、千二百年後の君たちが見えても見えなくてもごまかさず細部まできちんと仕事をした。君たちは先生や親御さんが見ていないからといって、いい加減なことをしてごまかしていないか?」そして「私なんかしょっちゅうお経をごまかしとる。」と言って笑わせる。

ガイドの中のガイド
 今思うとこの時、つまり1985年9月後半は、ニューヨークでプラザ会議が開かれ、その後の円高ドル安とバブル経済に伴い大量の日本人が浮かれ気分で外国を闊歩しだす時代の幕開けだった。勤勉な「はず」の日本人が堅実な生活から派手で浮ついた生活を求めだしたころだったのだ。お坊さんはそれを予見していたのかもしれない。そしてこれからの将来を担ういがぐり頭たちに、「人に見られているからきちんとやる」のではなく、「きちんとやるべきことはごまかすな、ひいては自分自身をごまかすことはできない」というメッセージを託したかったのかもしれない。
 これが佛教のどのような教義や説話からきているかは分からないが、お坊さんはいがぐり頭たちにとって大切なのはフェノロサや美術史ではないことをはっきり認識していたはずだ。そのお坊さんが薬師寺の「名物坊主」故高田好胤(こういん)管長であったことを知ったのは高校3年生になってからだった。
 私が知る限り、本物のなかの本物の通訳案内士といえば高田管長である。おそらく通訳案内士資格はお持ちではなかったはずだが、プロの通訳案内士の技を自由に使っておられた。目の前にみえる事物から日本を語る手法、相手を見て話題を自由に変えるセンスと話題の引き出しの豊富さ、人をひきつけるユーモア、佛教を通して日本のこころを伝えること。そしてそのすべての基本が、厳しい佛門修行で身についたことはいうまでもない。
 今お会いできたら喜びの敗北感に打ちひしがれるほどの名ガイドだ。

西塔で気づいた社会事業家としての高田管長
 白黒の東塔の向こうの西塔は極彩色である。私の生まれた1971年当時、この塔はなかった。それだけではない。東塔と東院堂を除くとめぼしい建物はなかったはずだ。それでは東大寺、唐招提寺、春日大社など著名な寺社が目白押しの奈良で、参拝客数のランキングは低かったに違いない。観光客は昔も今も写真写りの良くないところはカットするものだから、美しいとはいえ白黒の塔一棟では地味すぎる。それが1985年に初めて訪れたときには目の前の西塔も金堂も輝かんばかりに復元されていた。そしてそれを成し遂げたのが先述の高田好胤管長だった。
 戦後もかなりの間、ここの国宝のほとけたちも「仮金堂」なる一時しのぎの建屋で仮住まいをしていた。それをなんとかしようと発願し、一生をかけて今の規模まで建て直した高田管長の手腕は極めてユニークだ。一言でいうなら社会起業家的な精神を発揮したともいえる。
 伽藍再建の布施を受けるために、何千万単位で出してくれそうな大企業をまわろうという案が、当然のこととして検討されたという。しかし管長は、あえて参拝者一人ひとりに写経を納めてもらうことで、千円から数千円の布施を受け付けることにした。時はあたかもオリンピック後の高度経済成長のひずみがあちこちで現れた昭和四十年代である。このままいけば日本は「物で栄えて心で滅ぶ」と予見したからである。
 僧侶である自分たちが宗教行為である布施と経済行為であるカネ集めをはき違えるわけにはいかない。そこでここから全国民的な写経運動を展開した。さらに当時の奈良ではありえなかったことだが、修学旅行生を大量に受け入れるべく、旅行会社とタイアップして薬師寺に来てもらった。観光地の土産物屋や食堂や旅館と同じセンスを伝統ある寺院の管長が持っていたというのが驚きである。ただ管長は大阪人であるといえば、多少納得はいく。

批判の声もどこ吹く風
 「佛教をメシの種にして」と、白眼視する人々、ひいては公然と批判する人々も少なくなかったというが、伽藍復興という目的達成のためには、雑音もどこ吹く風と受け流した。同時に写経をすることで現代人に自らを振り返る時間を持ってもらうこと自体がもう一つの目的となっていったのかもしれない。さらに言えば、大乗佛教では般若心経等を読んで、書く行を大切にしてきた。写経によって荒みつつあるこころの救済事業と、布施による伽藍再建事業が一挙両得にできる。高田管長をプラグマティックな「社会起業家」と呼ぶにふさわしいと思う理由はそこにある。
 そういえば古の昔このお寺で修行した僧侶のなかにも社会起業家がいたのを思い出した。聖武天皇のもと、東大寺の大佛および大佛殿を建立するのに尽力し、多くの人々の布施や労働奉仕を指揮した行基である。行基はそれまでにもすでにため池や堀、架橋などの土木工事を指揮したり、福祉活動を行ったりしてきた。正当な僧侶たちからは批判されつつ、社会事業をやりぬいたのだ。坊さんというのはただ修行したりお経をよんだりするだけではない。社会変革と人々の心を救済するという役割を果たす、マルチプレイヤーだったのだ。
 そのような意味でも行基が修行した薬師寺で千二百年後に現れ、写経を通して現代人に自分を振り返らせた高田管長は、国家佛教としての薬師寺の役割を20世紀になお果たしたといえるだろう。

玄奘三蔵法師と薬師寺
 閉門時間になった。どうしても一カ所行けないところがあった。バス停近くの玄奘三蔵院伽藍である。玄奘が命がけの冒険で唐からインドに赴き学んだのは「唯識論」、すなわち世界にあるすべてのものは、実は存在しない。全世界が我々の「こころ」の反映であるとする思想であった。そしてその唯識論の日本における「研究所」だったのが薬師寺と興福寺だったため、それを記念してここに玄奘三蔵院伽藍を新たに建設したのだ。
 ちなみに行基の師、道昭は遣唐使の一員として唐で玄奘に師事し、法相(ほっそう)宗を学んだ。つまり行基はあの三蔵法師の孫弟子といえる。唯識論に関しては後に興福寺を訪れた際にお話しする。
 ところで後になって分かったことだが、ここではコロナ禍において毎日の勤行で病魔の退散と早期の終息を祈っているという。そもそも奈良佛教とは、個人の救済を標榜する鎌倉佛教と異なり、国と民の安寧を祈ることからきている。単なる美術館でも哲学研究所でもないことに思い当たったのは境内を出てからだった。

奈良市の「ゴールデン・トライアングル」
 私が「奈良市のゴールデン・トライアングル」と勝手に呼んでいるエリアがある。奈良を初めて訪れる訪日客が行く東大寺、興福寺、春日大社の三カ所のことだ。いや、正確に言えば奈良公園を囲むこれらの寺社といってもいい。日本人は「奈良」というと寺であるが、訪日客、特にアジア系訪日客にとっては奈良=鹿なのだ。北海道のような自然の中ならともかく、千以上もの鹿が町中を堂々と闊歩するのはここぐらいなものかもしれない。
 このトライアングルの「主人」は、今は鹿であるがもともとは貴族の中の貴族、藤原氏だった。試しに平城京の地図を見てみると、トライアングルが位置する北東部だけ突き出ているのが確認できるが、この部分のほとんどが藤原氏の縄張りだった。春日大社は藤原氏の氏神であり、興福寺も藤原氏の菩提寺である。そして東大寺は藤原不比等の娘、光明子が後に光明皇后となり、聖武天皇に懇願して実現させたものと言われる。つまり奈良市のゴールデン・トライアングルは、「フジワラ・トライアングル」でもあったのだ。
 また鹿が戯れるのも春日大社の主祭神、タケミカヅチが常陸の鹿島神宮から白い鹿に乗って飛んできたという伝説に基づくという。出雲人意識の高い私は春日大社に行くのに正直抵抗がある。タケミカヅチだけでなくフツヌシの祭神となっており、「古事記」によるとこの二柱の神々が出雲に国譲りを迫り、国権を奪ったというからだ。今回初めて六歳の息子を連れてきてこの話を伝えた。私は一礼こそしたものの手を合わせてまで拝まなかった。息子には拝むかどうかは自分で決めるように言ったら拝まなかった。六歳でもやはり出雲族の後裔だと思っているのかと感心すると同時に、いつかこのわだかまりが消え、素直に春日大社や鹿島神宮で手が合わせられるような日が来てほしいと思いながら春日大社を去った。

鹿野苑(サールナート)から興福寺中金堂へ
 それにしても鹿だらけだ。息子は鹿せんべいを買った先から鹿に囲まれ、怖くてせんべいを手放した。するとあっという間にせんべいは鹿の胃袋に収まった。
 ここの鹿は野生動物ではあるが、お産などのときには「鹿苑(ろくえん)」なる財団法人の施設で保護される。この漢字を見てピンときた。ここは「鹿野苑(ろくやおん)」ではないか!鹿野苑とは釈尊が悟りを開いてはじめて教えを説いた、シカの多く生息する園をいい、現在のサールナートという町にあったという。佛都奈良のこのトライアングルは、日本版鹿野苑でもあったのだ。 
 猿沢の池から興福寺の境内への石段を上ると、礎石がたくさん並んでいる。ここにかつて南大門があったからだが、礎石の数がその規模を物語っている。そして今は芝生で鹿が草を食んでいる。 
 正面に2018年に再建されたばかりの中金堂が目に入ってくる。色彩は丹青に金をあしらった、唐の様式=天平様式だ。真新しいためか、歴史は感じさせない。だが創建当時はこのような感じだったかとも思う。
 実はこの中金堂の木材として使用されたケヤキの巨木は国産ではない。日本にはこれほどの木はすでにないため、アフリカはカメルーンで伐採されたものだという。710年の平城京遷都とともに藤原京から移ってきたこの寺は、各国の様式を導入してきたが、まさかその千二百年後にアフリカの木材を使用するとは思ってもみなかったろう。

佛教の在家メンター、維摩居士
 東院堂に向かう。薬師如来に日光・月光菩薩像や四天王像等、古代から中世にかけてのさまざまな様式の国宝・重文の佛像が並ぶが、ここで最も特徴的なのは鎌倉時代につくられた木造維摩居士坐像と文殊菩薩坐像である。椅子にあぐらをかいて何かを説こうとする寄木造のこれらの坐像は、聖徳太子が編纂した「三経義疏」のうちの「維摩経」に基づいたストーリーを伝えてくれる。
 このコンビのうち一般的に有名なのは「三人寄れば文殊の知恵」で知られる智慧の佛、文殊菩薩だろう。それに対する維摩居士は在家信者であり弟子でも菩薩でもないが、慈悲のこころをもつメンター的立場である。
 あるとき釈尊が、大病を患った維摩居士の見舞いに行くよう自らの十大弟子に言うのだが、みなかつて維摩居士にやり込められたことがあるため、煙たがって行こうとしない。そこでさらにハイクラスの弥勒菩薩に行かせようとした。すると五十六億七千万年後に現れて衆生を救うとされる弥勒菩薩にさえ、維摩居士は扱いにくい様子だ。以前、元気な時に議論をしたらこんなことを言われたからだ。
 「弥勒さん、おたくは将来悟りを開くことが確約されているそうですが、そりゃおかしい話です。佛教では過去も未来もなく、あるのは今の今だけのはずでしょう?」
 大乗佛教で将来の悟りを確約する「授記」というシステムの矛盾をついた維摩居士だが、さすがの弥勒菩薩も困ってしまったため、見舞いに行きたくないというのだ。個人的にはこんな苦手なことから逃げる弥勒菩薩の「人間臭さ」や、釈尊の頼みといえども断る弟子たちの「ヘタレ」度合いが大好きだ。結局最後に釈尊が維摩居士のもとに送り込んだのが智慧の文殊菩薩である。この「世紀の対決」を一目見ようと、佛弟子たちもついていった。野次馬もいいところだ。

慈悲の維摩VS智慧の文殊
 「慈悲の人」にして大金持ちの維摩居士は庶民にはめっぽう優しく、稼いだ金を惜しみなく分け与え、人を思いやり寄り添うが、菩薩や弟子には歯に衣着せぬ物言いだ。一番弟子の舎利弗が、「この部屋は空っぽで椅子もないですね。」というと、
「あなたが求めるのは椅子なのか、法(真理)なのか?」とジャブをかます。「も、もちろん法です。」と答えると「しかし真理は言葉や形であらわせるものではない。」と反撃する。在家の彼が高弟に教えを垂れるのが痛快である。また文殊菩薩が維摩居士に病気の原因を聞くと、
 「自分のフィルターを通してしか世界を見ることができない「痴」と、つまらないことにこだわり続けてしまう「有(う)愛」が病気の原因です。」と答える。いちいち面倒くさい病人だ。全くもって釈尊が言いそうな口ぶりだ。しかしこれは維摩居士ならずとも、すべての人が苦しむ原因でもある。つまり世の中の全てが「空」であると分かっていないから偏見を持ったりこだわったりするのだ。そしてあれはいいがこれはダメという分別をしてしまう。

カレーライスは空?
 「空」について私の納得いった説明は、「カレーライスは空」というたとえだ。目の前にカレーライスがあるとする。しかし「カレーライス」が存在するのではなく、ご飯とカレールーと人参とジャガイモとタマネギと肉から構成されたものがあるにすぎない、というものだ。つまり私という人間が存在するのではなく、家族やコミュニティ、会社などがあって、その構成要素、いわば「材料」「部品」として私がいるのであって、「私という人間」は周囲との関係のうえで成り立っているにすぎない、ということだろう。
 面白いことに見舞いに来ているはずの智慧の菩薩、文殊が病人のはずの維摩に質問をしまくる。例えば「菩薩の私が悟って如来になるにはどうすればいいか?」と在家の大金持ちの維摩に聞くと、
 「他宗教との他流試合から学ぶこともあるし、また佛の悟り、世の人々のこころの動きにもヒントがある。」そして「自らの汚辱に満ちた迷いの世界を生き抜け。」「土着宗教や匠の技、土着の知恵などを極めて人を幸せにせよ。」などとのたまう。これぞ在家でも救われる大乗佛教のエッセンスだ。
最後に諸佛も一緒になって「不二法門」について各自の意見を述べはじめた。「不二」とは善悪、美醜などの対立概念を、それぞれ異なるものとして見るのではなく「善があるから悪もある。善がなければ悪もない。」「美があるから醜がある。醜がなければ美もない」というように対立をセットで見るコンセプトだ。そして「法門」というのは佛教における本当の真理を表す。
 諸佛の意見を文殊菩薩はまとめていう。「つまり、不二法門とは、口では表しきれないものです。では、維摩さん、あなたの見解を聞かせてください。」
 というと、維摩は黙ったまま答えない。沈黙が続く。すると文殊菩薩は「参りました!」と兜を脱いだ。つまり、維摩は身をもって「口では表しきれない不二法門」を実践したということだ。日本社会で最近まで通用してきた「腹芸」という非言語コミュニケーションのルーツは維摩居士と文殊菩薩にあったのかもしれない、と思う。みなそれこそ「無言の舌戦」を聞かせてもらった気持ちになって外に出たことだろう。

五重塔と僧侶たち
 東院堂から出ると、五重塔が地面に大きな影を作っていた。高さ50メートルを誇るこの塔は、15世紀、室町時代のものだが、戦国の世を生き残り、泰平の江戸時代を無事に過ごした後、明治維新とともにこの塔、そして寺全体が危機に見舞われた。神佛分離令に伴う廃佛毀釈である。
 このとき興福寺の僧はみな無抵抗のまま春日大社の神職に「転職」することになった。そもそも興福寺は長い間藤原氏の支援もあり、事実上大和一国を管理していた。そのため維摩経のみならず興福寺と並ぶ法相宗の大本山としてアカデミックな佛教研究所としての地位を守り続けてきた。また江戸時代を通して奈良最大の寺社勢力で、寺領は約二万石、小大名規模の世俗勢力であった。
 そのためだろうか、江戸時代は僧侶の間でさえ信仰のための寺院としての意識は低かったようだ。それを証明するかのように廃佛毀釈に真っ先に応じて還俗を名乗り出たのが当時の首座だったりする。江戸時代の僧侶たちにとって、寺院とは世俗の幕藩体制の末端機関にすぎなかったとしたら、郵政省職員が民営化された会社に残るような感覚で新しい時代に適応していこうとしたのだろう。
 高校レベルの日本史で学ぶ江戸時代の文化史で、佛教思想に関する項目がほとんどないのも納得である。佛教者たちのトップの興福寺さえこのような体たらくだったからだ。
 目の前の五重塔も二束三文で売却されつつあったが、塔の金具を取り外して売ろうとしても面倒なので捨て置かれていたところ、熱狂的な廃佛運動が収まったため、現在なお我々の前にその身を保っている。
 廃佛毀釈の生き残り。売られかけて売れ残って捨て置かれたために立ちすくみ続けるこの塔は、今なおこの佛都一の高層建築であるという。

国宝館へ
 興福寺が宗教的役割以上に世俗的な統治機関として、また研究所としての役割を果たしてきたことは先に述べたが、現代人が興福寺に求めるのは救いでも悟りでもなく、日本最高級の佛教美術の精華に圧倒されることだろう。その「佛教美術館」としての名に恥じないコレクションが国宝館にある。
 それほど面積は広くない館内だが、高さ五メートル以上の木造千手観音菩薩立像(鎌倉時代)を中心に、白鳳・天平時代の名だたるものがずらりと並ぶ。
 例えばアンパンマンの原型ではないかと思わせるような真ん丸顔の佛頭。もとは飛鳥の山田寺のものだったが、興福寺に移され、鎌倉時代から室町時代まで東金堂の本尊として安置されていた薬師如来である。残念ながら火災で焼失したが、頭部だけで1メートル近くあるということは、全体では「大佛」といってよい大きさだったに違いない。

十大弟子像の楽しみ方
 次に脱活乾漆像の白眉、十大弟子がお目見えする。真剣な顔、穏やかな顔など、一人ひとりの表情が異なり、飛鳥佛にはなかった表情のリアルさが感じられる。飛鳥大佛の時代からわずか一世紀あまりで、ここまで佛師の技術が上がったかと思うと驚嘆するほかはない。ただ、彼らはみなインド人だったはずだが、モンゴロイド顔となっているのはリアリズムと言えるか微妙ではあるが、おそらく自分たちと同じ顔をしてなければかえって違和感を覚えるのかもしれない。
 ところで十大弟子というと、彼らも「維摩経」の主人公にして、在家の大金持ちにして慈悲の人、維摩居士との関係が気になる。維摩が病気になったので釈尊が十大弟子に見舞いに行くように促したが、誰一人としていこうとしない。その理由は、かつてみなかつて議論でコテンパンにやられたことに根を持っているからなようだ。そして維摩の「正論」度合いがふるっている。
 まず、落ち着いた眼差しの舎利弗(しゃりいほつ)に対しては「静かで清潔な環境で座るだけが坐禅ではない。雑音だらけでごちゃごちゃした世の中でもこだわりを捨て普通に生きること。これこそ本当の坐禅ではないか。」と、正論を述べる。
 次に修行に修行を積んだ結果、神通力に秀でた木蓮に対しては、「在家信者に出家のやり方を言っても意味ない。ありのままの姿を説くべき。」と手厳しい。
 そして慈悲のこころで施す大迦葉(だいかしょう)には、「貧乏な人だけに施すというのはこだわりだ。乞食行(こつじきぎょう)は相手に捧げるのではない。相手と自分の境をなくせばただ物が動いただけということなると気づくべきだ。」と、これまた正論。
 説法上手の富楼那(ふるな)には、「説法名人というのは自分の考えや感情、意見などは置いておかないと。まず相手の懐に入り、寄り添ったうえで話すべきではないか?」と饒舌な人間にとって痛いところを衝く。
 釈尊の弟子は一説によると1250名いたそうだが、そのトップ1パーセント未満の彼ら十人弟子でさえ、たじたじとなった相手が維摩だったのだ。この話を聞いてから十大弟子像を見ると、澄ましてみえる彼らだが、実は自分の得意領域に入ってきて批判する人には会いたくないという人間臭さが感じられ、面白い。心なしか誰かを煙たがっているような顔に見えてくる弟子もいる。そんな表情を作るのに成功したのも、これが繊細な造形ができる乾漆像だからだろう。

八部衆像と佛教界のヒエラルキー
 興福寺で最も人気の高い佛像はやはり阿修羅像だろう。こちらもリアルな脱活乾漆像で、少年らしい悩みや愁い、一抹の不安までをもたたえたその表情の完成度は極めて高い。
 ところで阿修羅というのは佛教においてどれぐらいの立場なのだろうか。江戸時代に「士農工商」という身分制度があったように、佛教界は次のようにランクづけられる。
①悟りを開いた如来
②如来予備軍の菩薩
③帰依しない者を強制的に佛教に導く明王
④佛教の守護神、天部(貴顕天部/武装天部)

 このうち、如来と菩薩は主に北インドの支配層だったアーリア人の信仰に基づいているが、明王と天部は南インドの被支配層のドラヴィダ人の信仰―バラモン教・ヒンドゥー教の神々を取り込んでいる。つまり佛教界は古代インドにおける南北の民族問題、宗教問題を反映しているとみてよい。さらに、同じ佛像でもなぜ優しい人間の姿の佛様もあれば、怖い顔の佛さまもあるかというと、そのルーツが異なるからだ。つまり人間の姿をしているのはアーリア系、怖い姿のものはドラヴィダ系のものが多いという。
 また同じドラヴィダ系守護神でも明王は主に平安時代の密教の神佛となったのに対し、奈良佛教は天部が多い。その中でも中性的、または女性的で温和な「貴顕天部」と、鎧兜を身にまとったり、武器を持ったり、後ろに炎がめらめら燃えている「武装天部」に分かれる。いわばドラヴィダ系の「貴族」と「武士」といってもよい。
 国宝館における「貴顕天部」としてはバラモン教の最高神にして宇宙の創造神「ブラフマン」であるが、釈尊に佛教を広めるよう勧めたという「梵天像」と、衣のような礼服の下に甲冑をまとい、釈尊の修行時代から従ってきた「帝釈天像」がある。そしてその帝釈天と激戦を繰り広げた戦の神が八部衆の中で、いや、興福寺の佛像の中でも最も人気の高い阿修羅像なのである。彼らの対決が行われた場所にたとえて、激しい争いの場を「修羅場」というのだ。
 このように、佛教界のヒエラルキーを知っていれば昔のインドの抱えていた宗教問題、民族問題という「対立」だけでなく、佛教がいかに土着宗教を佛教化してきたかが分かってくることだろう。これを日本の神道にたとえると、天照大神を最高神とする大和族が、大国主命を最高神とする出雲族や熊襲、蝦夷などを従え、大国主命や須佐之男命等出雲系や熊襲、蝦夷の神々を、神道を守る神々として「天部」においたようなものだろうか。
 
天燈鬼立像と龍燈鬼立像
 興福寺は何度も焼けたが、その都度復興した。ただその中でも平氏による南都焼き討ちはすさまじかったという。その後鎌倉時代に復興した際につくられたもののなかでユニークなのが、佛像ではなく「鬼」の像だ。佛像において「鬼」は「邪鬼」として四天王などに踏みつけられる存在であったが、それが単独で、しかも二体あるのがこの国宝館である。その名を天燈鬼立像と龍燈鬼立像という。
 運慶の指導の下、三男の康弁が彫ったというが、そのリアリズムには驚かされる。そのうち天燈鬼は赤く、片手で口を開けて叫びながら必死になって灯籠を持ち上げようとするエネルギーに満ちている。そして色褪せているとはいえかつては青だったことが確認できる龍燈鬼は、頭の上に灯籠が置かれ、押しつぶされそうなのに、歯を食いしばって耐えている。赤鬼と青鬼、上に持ち上げるベクトルと下に押しつぶされるベクトル、口を開けるのと歯を食いしばる阿吽の呼吸など、対照的な様子であるが、共通しているのはこの国宝館のなかで例外的に「苦しんでいる」像だ。
 支配者から「鬼」とされたがため、独立した像になっても罰ゲームのように重いものを持たせられたり、押しつぶされたりする「カッコ悪い」鬼たちの姿を昇華させたのが「天部」なのかもしれない。佛教社会のなかでも「カースト以下」に追いやられても耐え忍んで佛教を守る彼らにエールを送りたい。

無著・世親像-彼らなくしてその後の日本佛教なし
 境内の北西に平家による南都焼き討ちの後に復興した八角堂、北円堂がある。そこで春秋に短期間開帳されると人々がこぞって見に来るのが無著(むじゃく)と世親の像である。目に水晶玉をはめ込んでリアルなことこの上ないが、一見「東洋人」に見える彼らも出身はガンダーラ、すなわち現パキスタンあたりで四世紀ごろ活躍した兄弟である。
 老人に見える人物は無著という兄で、上座部佛教的なコンセプトに飽き足らず大乗佛教に転向した。そして弥勒菩薩から大乗佛教の「空」や「縁起」、そして「唯識」などというコンセプトをじかに伝えられたという。佛教ではこの世の全てに実体がないとはいうが、それを感知する「識」、すなわち心のずっと奥のほうにある「無意識なセンサーの大本」だけは存在する、というのだ。
 「唯識」というと薬師寺も日本の「唯識」研究の本場であるが、無著が学んだのは、人々の意識は次のように二段階に分かれているということだ。
表層:視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚+それらがもたらした情報をもとに判断する「意識」
深層:表層意識の根本となる「末那識(自我)」+阿頼耶識(自我さえ意識しない無意識状態)

 人間が悩み苦しむのは表層意識にとらわれているためであり、それから解脱するには意識の根本の「阿頼耶識」を清浄に保たねばならない。そのために行うのが善行とヨガであるという。
 無著はこの教えを最初は抵抗する弟、世親に伝えようとしながらも拒まれたが、世親もついにこの教えの真理に気づいた。そして弟は唯識論を中心におく思想「法相宗」に大きな影響を与え、それが玄奘三蔵法師によって唐に、そして日本にわたり、この興福寺の中心的な思想になったのだ。ちなみに世親は浄土教のコンセプトを世に出しもしたので、後に浄土真宗の開祖とされる親鸞も浄土教の「七高僧」の一人「天親菩薩」として高く評価している。
 北円堂で目の前に立つこの兄弟がいなければ、玄奘三蔵法師も印度にいっていなかったかもしれない。そうすると大乗佛教は存在しなかったかもしれない。そうなるとこの寺院のみならず日本の平安時代以降の佛教はなかったことになる。そのような日本佛教の陰の功労者がこの二人なのだ。

東大寺―天平文化はごくわずか
 奈良を訪れる訪日客が一カ所だけしか寺社を訪れる時間がないとすれば、ほとんどの人が東大寺を訪れるだろう。「奈良の大佛」のインパクトはそれだけ大きい。ただ、境内の北側にある宝物殿として使われた校倉造の正倉院やその西にある転害門等を除けば、現在みられる伽藍のほとんどが奈良時代のものではない。
 例えば伽藍に入ると我々を迎えてくれる日本一ダイナミックな南大門も鎌倉時代のものだ。運慶・快慶作の筋骨隆々な金剛力士像はもちろん天平文化のものではない。オリジナルは平氏による南都焼き討ちのさいに焼失した。これは東大寺側にも問題がある。寺にたてこもる僧兵たちに対して当初は平氏も気を使っていたのだが、丸腰の使いの者六十名余りが僧兵たちに惨殺されたことが南都焼き討ちの引き金を引いたからだ。
 鎌倉時代に入ってから宋に三度も留学した国際派、重源が、勧進職に就任すると、現山口県の山あいにあった木を伐りだし、博多にいた世界的建築家、陳和卿(ちんなけい)をスカウトして建てさせたのが今に見る南大門だ。

 華厳宗とは
 東大寺の宗派を華厳宗であると即答できる人は多くあるまい。なぜあれほど有名な寺でありながらその宗派が知られていないのだろう。奈良佛教の特徴は鎮護国家、すなわち国家と国民の安寧を願うための施設であり、また佛教という哲学を研究する「哲学インスティテュート」だったため、「奈良の大佛さん」と親しまれてはいても、真宗のように熱心な門徒(=ファン層)がいるわけでも、禅宗のように日常生活の一部として坐禅を取り込んだりするものではない。
 それでは華厳宗とはどのようなものなのか。これは三世紀ごろに北インドからシルクロードあたりで発生したとされる「華厳経」に基づく宇宙観を研究するところだ。これは正式な漢訳は「大方広佛華厳経」というが、金鐘寺(東大寺の前身)の僧、良弁(ろうべん)が新羅で学んだ審祥(しんじょう)に華厳経の講義を依頼したのが始まりだという。これは「悟り」以上に「大方広佛」、つまり「はてしなく大きな佛」の存在を思う宇宙観が皆をひきつけたという。
 大佛殿に向かう時、時には中央の観相窓から廬舎那(るしゃな)佛の顔が少しのぞいている。我々が大佛を見るのではない。果てしなく大きな廬舎那佛が我々を見ているという逆転現象を印象付ける。

大佛殿の中はパラレルワールドの大宇宙
 高い敷居を越えて大佛殿の中に足を踏み入れると、黒光りする廬舎那佛を中心として丸い後光に十数体のほとけが囲んでいる。これは大宇宙だ。廬舎那佛を太陽とたとえるなら、周りに水金地火木土天…と惑星が回っていくように大宇宙が立体的に広がっており、見る者をその宇宙の中に引きずり込むのである。そしてこれこそが「立体華厳経」なのだ。
 「華厳経」では「この世の他にもパラレルワールドがあり、そこに廬舎那佛というブッダがいる」と考える。それだけなら浄土教と変わらない。しかし浄土信仰は死後の話だ。華厳経は今生きている世の中と同時進行で佛国土が存在するというのだ。しかし我々はそこに行けない。なぜなら一つの宇宙には一つのブッダしかいないため、阿弥陀如来と違って廬舎那佛はこの世界に迎えに来てくれないからだ。
 そこで出てきた考えが「バーチャルな佛国土」である。つまりバーチャルなオンラインサロンで会話を楽しむように、体はこの世界にあっても、廬舎那佛がバーチャルな佛国土の様子を我々に見せてくれるというのだ。
これによく似ているのがデジタル・アートでこの世にはない世界を再現する「チーム・ラボ」だろう。
 今この大佛殿で見ているのは、まさにチーム・ラボで作った佛国土というわけだ。ただバーチャルだと隔靴掻痒の感もいなめない。しかし華厳経では現実とバーチャルの区別をつけない。例えばオンラインで振込みしても相手の口座に着金するようなものだ。現実とバーチャルが紐づいているのが華厳経の考えという。つまり私たちが見ているこの壮大な佛国土は、本当の廬舎那佛と紐づいているのだ。

一即多、多即一
 ここを訪れる人たちはみな廬舎那佛ばかりに注目するが、周りにいる十数体のほとけたちにも注目してほしい。華厳宗では「一即多、多即一」という言葉を大切にする。これは「一つと思ってもたくさん、たくさんと思っても一つ」というなにやら禅問答のような言葉に聞こえる。ただ例えば「奈良の大佛」というと廬舎那佛一体をイメージするが、よく見ると周りの十数体の「衛星」のようなほとけたちと一体である。これが「一即多」の意味だ。そして私たち一人一人があの「サテライト佛」だと想像してみよう。すると十数人の「衛星佛」で廬舎那佛を囲み、そして大きな一つの「奈良の大佛」を形成している。これが「多即一」なのだ。
 奈良の大佛さんはデカいだけではない。このバーチャルなパラレルワールドで、私もあなたも両親や祖父母、先祖から命をもらっているという意味では「一即多」だし、私たち一人ひとりがこの一つの世界を、宇宙を構成しているという意味では「多即一」であることを教えているのだ。

行基と辛国神社
 大佛殿から東の丘陵地帯にある法華堂を目指すと、途中に辛国神社という小さなお社がある。「辛」=「韓」、つまり「韓国神社」のことではないかと思うのだが、この寺も実に朝鮮半島と縁が深い。大佛建立の立役者で渡来系というと、まずは先述した百済系渡来人の子孫で開山となった良弁(ろうべん)が挙げられる。そして出自は不明だが、この地で初めて新羅で学んだ華厳経を講義した審祥(しんじょう)も挙げられ、彼も渡来人と言われる。そして最大の立役者は百済系で「千字文」や「論語」を伝えた王仁の子孫らしい行基である。
 そのころ聖武天皇・光明皇后夫妻は佛教を篤く信じていた。そこで都に東大寺、各国に国分寺、国分尼寺を建立しようとした。この鎮護国家の佛教寺院が華厳宗の本家本元であるのは納得がいく。なぜなら聖武天皇が目指した国家とは、中央の奈良に天皇、各国に都から国司を派遣するという中央集権国家であるが、これも天皇=奈良=廬舎那佛、国司=各地方=サテライト佛という構図に当てはまる。都に東大寺、諸国に国分寺と国分尼寺を建てたのも全く同じ構造だろう。
 当然のことながら庶民には関係のない、いやそれどころか増税のみ負担させられる迷惑極まりない国家プロジェクトだったに違いない。協力者もいないなか、天皇が目をつけたのが行基だった。正式な僧侶の集団とは認められないながらも、各地で土木工事をしたり福祉事業を展開したりしていた彼は、庶民から絶大な支持を得ていた。そこで彼を口説いて庶民の力を借り、大佛殿および大佛を建立させたのだ。
 大佛の後方には創建当時の大佛殿のレプリカが置かれているが、現在のものよりさらに大きい。これは聖武天皇というより、行基の教えを通して佛国土の存在を信じた人々の情熱と奇跡的な力だったに違いない。
 そして歴史の陰に隠れてしまったが、半島から渡来してこの国家規模の寺院を造営し、今に伝わる礎となった渡来人たちのことを思い、私は東大寺を訪れるたびに辛国神社に詣でる。

法華堂からミュージアムへ
 東大寺の東側は丘陵地帯にある法華堂は、奈良時代につくられた部分と鎌倉時代に付け足した部分が見事に融和した面白い建築である。2011年まではここで天平時代の至宝、不空羂索(ふくうけんじゃく)観音像と脇侍の日光・月光菩薩像が拝めたが、その後、南大門外側に東大寺ミュージアムができたため、このほとけたちも佛堂の主からミュージアムの主要展示品に「格下げ」されてしまった。
 不空羂索観音像は四十本の手に、実に様々な道具を持ち、その道具で我々を救ってくださるという。我々の悩み苦しみはそれぞれ異なる。病気の苦しみと愛する者を亡くした苦しみではそのタイプが異なる。苦悩の種類によって異なる道具を持って治して下さるほうが、より具体性を帯びていて救済の手が差し伸べられているように感じさせるのだろう。毎回異なる「悩み」でしがみつくのび太が我々ならば、不空羂索観音とはいちいち異なる道具で対処してくれるドラえもんのように思えてきた。そういえばまるまるとした体型までドラえもんそっくりだ。
 そして両脇の日光・月光菩薩像は、今でこそかなり色褪せているが目を凝らしてみるとかすかに赤や緑が残っている。唐の佛教の色彩そのままだ。この三尊がかつていかに輝かしかったか想像に難くない。日光・月光菩薩はシルクロードの敦煌・莫高窟のほとけによく似たものがある。天平のほとけのグローバリズムが、この巨大な東大寺で最もよく感じられるのが、この三尊像だろう。逆に言えば、その他はほとんどが幾度の戦火で燃やされてしまい、今あるのは「チーム・ラボ」のようなバーチャルな大宇宙なのだ。
気づくと夕暮れになっていた。バーチャルな境内を出て、現実の21世紀の奈良市に戻っていった。

東大寺戒壇堂と鑑真和上
 東大寺境内にあってもあまり人も訪れないようだが、大佛殿の西側にある戒壇堂にも行ってみた。江戸時代に再建された小さな建物だが、この場こそ唐僧鑑真和上が五度の渡海の失敗の末、はるばる海を越えて来日し、奈良で最初に授戒を行った場所だ。
 鑑真和上が日本に来た理由は、733年に入唐した興福寺の栄叡(ようえい)、普照が弟子入りし、日本に戒律を伝えてほしい旨を懇願したからだ。それまでも奈良では皇室や貴族を中心として佛教は信じられていた。僧侶を保護するため、彼らには納税の義務を免除するだけでなく、一部の者の生活を保障したりもした。しかしそうなると納税免除が目的で頭を丸めるだけの「私度僧」とよばれるインチキ坊主たちが出てきた。
 同じころ、唐では僧侶になるには厳しい国家試験があった。そこで学び、実践しなければならないのが「戒律」である。日本には佛教は伝わったが、戒律は伝わっていなかった。それは奈良佛教というのが鎮護国家のための佛教であり、僧侶のあり方まで関心がなかったし、それを定めるまで手が回らなかったからだろう。しかし唐では国家試験をパスしていない人物は僧侶として認められない。よって遣唐僧らも唐では私度僧と同じ扱いを受けることになった。
 佛教を篤く奉ずる聖武天皇・光明皇后からすると、佛教国家元首としての体面上それは耐えられないことだったのだろう。そこで戒律の国家試験の判定を行える人材として白羽の矢が立ったのが律宗の鑑真和上だったのだ。
 ところで戒律はインドで生まれたが、大乗佛教では中国で定着した。「戒」とは大乗佛教らしく在家信者も守るべき項目で、殺生、窃盗、淫行、虚言、飲酒は最低限してはならないというものである。ただ破ったからといっても罰則はなく、あくまで自分の心の中の問題であるのだが
 一方「律」は僧侶向けで、僧侶の集団(サンガ)内で守るもので、その数は250項目。そして比丘尼(尼さん)にいたっては348項目という。これらの厳しい試験の審判をすることで、僧侶にお墨付きを与えたのだが、この東大寺戒壇堂で最初に授戒した相手が聖武天皇や光明皇后、そして彼らの娘の孝徳天皇(後の称徳天皇)である。佛教に対する帰依は認められても、本格的な出家をしているわけでもない彼らがあの厳しい試験を突破して受戒するということからみて、単に権力者に対するサービスにすぎなかったのではなかろうか。

唐招提寺へー金堂にたちこめる天平の空気
 「奈良市のゴールデン・トライアングル」の一大中心、東大寺から、翌日西ノ京に向かった。薬師寺のすぐ北に唐招提寺があり、そこからさらに北北東の方向には平城宮が復元されている。
 鑑真和上一行は六度目の挑戦でようやく沖縄に到着し、屋久島を経て薩摩半島の坊津にたどり着いた。ちなみに1549年、このすぐ近くに漂着したのがザビエルだ。彼は欧州で宗教改革以降カトリック勢力がプロテスタント勢力に押されていたため、他のアジア諸国を経て日本に布教に来たようだが、偶然の一致なのだろうか、佛教の戒律を伝えにきた鑑真も、佛教勢力が道教勢力に押されていた唐の時代に海を渡ってきた。
 南大門を過ぎて寄棟造の金堂に入る。中央には東大寺と同じく廬舎那佛が鎮座する。東大寺よりも印象的なのは中央のほとけの周りに八百数十体の小さなほとけがぎっしり並んでいることだ。これらはかつて一千体あったはずだ。「多即一」すなわちこれら千体プラス中央の廬舎那佛一体で、一つの大宇宙を表しているという華厳宗の教えが一目瞭然だ。
 ここは律宗ではあるが、なぜ華厳宗のほとけなのか。奈良の南都六宗というのは後世の鎌倉佛教などとは異なり、宗派<学派、つまりアカデミックなものと思ったほうが妥当である。よって宗派を超えてほとけたちを拝んでいたからだ。
 隣には脇侍として千手観音像もある。こちらも大きな腕が42本、そして小さな腕が911本も伸びている。ここまでたくさん手があると、こんがらがってしまいそうだ。反対側には薬師如来が立っており、その他四天王像や梵天・帝釈天コンビに守られている。やはりミュージアムにあるほとけとは異なり、本来の持ち場をそれぞれが守っている。さらに驚くのは薬師如来が平安初期である以外はみな奈良時代の佛像が奈良時代の建築の中に当たり前のようにあることだ。この内部は千三百年間ほとんど変わっておらず、空気まで天平の匂いがたちこめるようだ。

講堂と開山堂の御身代わり
 金堂の北側には平城宮の東朝集殿を移築した講堂がある。後の平安京の宮殿建築さえ残されていないのにその前の時代の平城宮のものがそのまま残っているとは、この上なく貴重であろう。少なくとも金堂から講堂周辺は、内も外も奈良時代そのままの空間であるが、それより古い時代の法隆寺を別として、このようなところは奈良とはいえどここだけだ。
 奥の開山堂にむかう。ここは年に一度だけ鑑真和上の遷化後に弟子によってつくられた鑑真和上像がご開帳されるが、平成になってから本物をもとに完璧に再現された「御身代わり」という乾漆像がお目見えする。五回目の航海で失明し、見えぬ眼を閉じて坐禅する和上の姿は写真で見る実物よりも生々しい。
 中国人観光客が奈良に来るときは、ほとんどが奈良公園だけで終わる。しかし「公務団」と呼ばれる行政関係者や政治家、学生団体はだいたいここも訪れる。中国から日本に戒律を伝えた鑑真は、日中友好のシンボルとなっているからだ。そのときはこの御身代わり像も見ることになるが、実は実物は和上のふるさと、揚州に渡ったことがある。日中国交正常化の後の1980年と、平城京遷都1300年を記念した2010年のことだ。しかし中国において鑑真和上の知名度は初めての「里帰り」まで極めて低かった。

日中友好よりも大切なこと
 そこでつい思い出すのが藤野厳九郎である。この名前を聞いてピンとくるのは魯迅の「藤野先生」を読んだ方だろう。魯迅が学生時代に仙台の医学専門学校で出会った福井県出身の藤野先生が熱心に教えてくださったことに対する追憶の中で、彼はこうまとめている。
 「先生が私に心から期待をかけてくださったこと、懇切丁寧に教えてくださったことは、中国のため、中国に新しい医学を伝えるためというレベルの話ではない。もっと高い次元でいえばよりアカデミックな、そう、新しい医学が中国に伝わっていくことを望んでのことであった。(他的対于我熱心的希望、不倦的教海、小而言之、是為中国、就是希望中国有新的医学;大而言之、是為芸術、就是倦希望新的医学傳到中国去。)」
つまり「日中友好」という国同士のことよりも医学を伝えるというアカデミックな信念に燃えたのが藤野先生だというのだ。
 翻って考えてみよう。754年に東大寺に着任し、5年ほど国家佛教のトップにたった鑑真和上だったが、759年にこの地に土地を与えられて独立した戒壇院を設けた。戒壇院で受戒するのが権力者だからであってはならない。佛の道をきちんと歩んでいく人間に限られるべきだ。和上はそのような信念を持っていたに違いない。この東海の小島に骨をうずめると覚悟したからには、やり遂げるべきことは東大寺で有力者に戒を授けることではないと、はじめからわかっていたのかもしれない。
 和上は日中友好のために命がけで海を渡ったのではない。本物の佛法を守れる人間を養成するために、つまりは佛法のために渡ったのだ。国家間の有効が大切ではあるのはもちろんだが、和上は唐人である前に佛国土の住民だったように思う。

アジアを横断して伝わった佛教
 最後に唐招提寺であまり観光客が行かないが、大切な場所、戒壇院に寄った。鎌倉時代に再建された基壇のうえに、1978年につくられた半円形の石のストゥーパがある。もちろん鑑真和上の時代にはなかったものだ。しかし佛教史上意義深いのは国家佛教から脱皮して独自に真の佛法を守り伝えていく僧侶を輩出しようとしたこの戒壇院ではなかろうか。
 飛鳥や斑鳩、奈良公園周辺をまわって最後にここ唐招提寺でインドのストゥーパを前におのずと腹からパーリ語の三帰依文がまた出てきた。
「ブッダン サラナン ガッチャーミ(南無帰依佛) 
ダンマン サラナン ガッチャーミ(南無帰依法) 
サンガン サラナン ガッチャーミ(南無帰依僧)」
 記紀や万葉集など、日本人のこころのふるさとでありながら、天竺、震旦、高麗等、アジア文化の吹き溜まりでもあるこの大和路。インドで釈尊が語ったことを、シルクロードで鳩摩羅什が漢訳したり、唐代に中国で「唐僧」とよばれる三蔵法師玄奘が命がけで持ち帰ったりした経典や戒律。それらが鑑真和上によって日本の僧侶たちに広まっていき、千二百年後の私の中にもしみこんでいる。アジア大陸を横断したほとけの教えのご縁を感じるときにはいつもこのパーリ語が口をついて出てくる
 南大門の外に出たら日本の田園風景だ。うららかな春の大和路を後にして東京にむかった。(了)


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