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「いきの構造」とともにいきに歩く下町

 梅さんと寅さんと両さんの下町
 1970年代の山陰で生まれ育った私が「下町」の存在を知ったのはいつのころだったろうか。下町っ子以外の同世代が下町の存在を知るきっかけは、漫画やアニメ、映画だったはずだ。私の場合は「ど根性ガエル」の主人公たちの学校が「下町中学校」だったこと、そして登場人物の多くが「ド根性」の持ち主で、特に寿司屋の梅さんという職人とその親方は話し方がべらんめえ口調で負けず嫌いだということ、そうした断片を通して「下町の人」=「ド根性」であるという認識を持つに至ったようだ。そして私がテレビの再放送でそれを見ていたのは70年代後半になる。
 同じころから「男はつらいよ」をテレビや映画で見るようになった。寅さんは梅さんと似て、意地っ張りのおっちょこちょいで、学はないが義理人情にあつい。そしてなによりもけんかっ早い。興味深いことに、梅さんはヨシコ先生という教師に惚れてはいても、決してそのことを口にもしなければ迫ろうともせず、もじもじと、悶々としている。小学生だった私からみてさえ、見ていてじれったいことこの上ない。そして寅さんの前にも毎回「マドンナ」が現れ、柴又の実家に泊めたりまですることもあるのだが、告白などはあり得ない。ただ、マドンナが他の男と幸せそうにいるのをそっと見守るだけだったりする。
 そのうち私も床屋や病院などで「週刊少年ジャンプ」を見るようになった。数ある作品の中で毎回必ず見るのは「こちら葛飾区亀有公園前派出所」だった。浅草の佃煮屋の息子、両津勘吉の破天荒な警官ぶりが傑作の「下町物語」である。三度の飯より祭り好きな両さんも、梅さんや寅さんと同じく鼻っ柱が強く、負けず嫌いだが「彼女いない歴=年齢」である。私は梅さん、寅さん、両さんを通して「下町」を知り、江戸っ子という人種を知った。
 のちに三十代後半から四十代後半まで、私は十数年間を西日暮里という下町で過ごした。主な生活範囲は日暮里のほかに上野、浅草、谷根千周辺であり、これが私にとっての「下町」の範囲になった。
 子どものころ大好きだった、ブラウン管の中の三人の江戸っ子たちの「行動原理」を解き明かすべく読んだのが、哲学者九鬼周造が1930年に出版した「いきの構造」であった。今回はこれを片手に、愛すべき江戸っ子と、そして生き方としての「いき」について考えながら、私の住んできた下町を歩きなおしてみたいと思う。

 日暮里
 日暮里はいわゆるアニメや漫画やドラマや映画の舞台として知られているわけではない。だがそれだけに「舞台裏」の普通の暮らしが垣間見られる。初めて西日暮里に引っ越した2008年、左隣の世話好きなおじいさんに挨拶に行くと、「向こう三軒両隣に挨拶に行くように」と言われた。そして職業を聞かれ、「通訳案内士の指導」等といっても説明が面倒なので、とりあえず「中国語や韓国語を教えています」と答えたら、返ってきた答えが今も耳に残っている。
「へー、するってえと、何かい?中国語だの朝鮮語だの、しゃべれるって、そーゆーこっかい?そいつぁ驚き、桃の木、山椒の木ときたもんだ!」
 また、家に風呂はあったが下町といえば銭湯だろうと思い、近くにあるはずの銭湯に向かったが見つからない。すると向こうから浴衣に下駄、頭にはタオルを巻いたおばあさんがやってきたので、銭湯はどこか聞くと、「ああ、オイヤ(お湯屋)さんかい、まっつぐ行ってシダリ(左)だよ。」と返ってきた。江戸落語か寅さんの世界に迷い込んだかのような感じになって妙にうれしかった。私の「下町生活」はこうして始まった。

 縄文時代から江戸っ子のじいさん
 当時家から1㎞圏内に4,5か所銭湯があった。その中でも特に三河島の帝国湯という、昭和初期のいかめしい建築に庭までついた、三保の松原あたりからみた富士山のペンキ絵がレトロなお湯がお気に入りだった。特に平日の午後には江戸っ子ーとはいえ高齢者ばかりだがーが集い、下町言葉で話し続け、相撲中継をみながら将棋に興じる、独特のけだるさが好きだった。湯煙の上の高窓から差し込む日差しが湯船に揺れる光景は何にも代えがたい。
 あるとき温度計が46度を指していた。熱すぎる。しかし江戸っ子のじいさんは何も言わずにじっと湯船につかっている。私も足をつけてみる。ぐっと我慢して入る。熱さに顔がゆがむ。すると見知らぬじいさんは「ああ、冷てえ、風邪しいちゃいそうだ」と独り言、に見せかけて明らかに新参者の私に向かって言っていた。
 夕方になると小学生たちが入ってくる。あるとき、5、6年生くらいの男子が三名、クラブの帰りか何かに銭湯に立ち寄ったが、お湯が熱すぎるので冷水を入れようとした。すると先に入っていたじいさんは小学生に向かっていった。
「熱いからって水を入れるなんて粋じゃないねえ。江戸っ子は熱い湯に入るって、縄文時代から決まってんだ。
 縄文時代に江戸っ子がいたとは恐れ入った。

垢ぬけ、張りのある色っぽさ
 「いきの構造」では、「いき」の要素は①媚態(色っぽさ)、②意気(張りのある)、③諦め(垢ぬけた)だというが、熱すぎる風呂に入るのを見ると、次の一節を思い出す。
「いき」の第二の徴表は「意気」すなわち「意気地」である。意識現象としての存在様態である「いき」のうちには、江戸文化の道徳的理想が鮮やかに反映されている。 江戸児の気概が契機として含まれている。野暮と化物とは箱根より東に住まぬことを「生粋」の江戸児は誇りとした。「江戸の花」には、命をも惜しまない町火消、鳶者は寒中でも白足袋はだし、 法被 一枚の「男伊達」を尚んだ。
 いきとは「粋」でもあり「意気」でもある。それを九鬼は「意気地」すなわち負けず嫌いの強がりと規定している。町火消や鳶職人は寒くても白足袋で法被を羽織るだけなのだ。同じようにお湯が熱いからといってもそれを「風邪ひきそうだ、ハックション!」などとわざわざくしゃみをしてみせるぐらいでなければ野暮なのだ。箱根以西の山陰の私など野暮そのもの。これは男だけかと思えば女もまたしかりであり、特に「素足」がいきだという。
 素足 もまた「いき」の表現となる場合がある。「素足も、野暮な足袋ほしき、寒さもつらや」といいながら、江戸芸者は冬も素足を習とした。粋者の間にはそれを真似て足袋を 履かない者も多かったという。着物に包んだ全身に対して足だけを露出させるのは、確かに媚態の二元性を表わしている。
 そういえば昭和のころは「子どもは風の子」といわれていて、冬でも半袖、半ズボン、もちろんはだしが元気な(江戸っ子風にいえば「張りのある」)子どもとされていたため、山陰の雪の中、この格好で通学して先生に褒められる子供がいたことを思い出す。江戸っ子とは対照的にさえ思える山陰の私たちも、この美意識を共有していたことに今更ながら驚く。

蕎麦の「いき」
 出雲で生まれ育ったからなのか、私も蕎麦喰いの端くれである。そして江戸っ子にとっても蕎麦は粋な食い物ということになっている。粋な食文化について九鬼はいう。
味覚としての「いき」については、次のことがいえる。第一に、「いき」な味とは、味覚が味覚だけで独立したような単純なものではない。
 なるほど、おいしければいいというのでは粋ではない、というのはわかる。私は中華料理全般が好きだが、それらが粋だとは思っていない。中華料理は「味覚が味覚だけで独立」、私の言葉で言い換えるなら「味で勝負」することに重きを置きすぎているように思えるからだ。そして彼はこう続ける。
「いき」な味とは、味覚の上に、例えば「きのめ」や柚の嗅覚や、山椒や山葵の触覚のようなものの加わった、刺戟の強い、複雑なものである。
 たしかにその意味では、ネギやわさび、七味唐辛子などの薬味が欠かせない蕎麦は粋なものといえよう。江戸っ子の好きなウナギや寿司、天ぷらもみなそうだ。ただ、香辛料といえば中華料理こそ本家本元ではなかろうか、と思いきや、次の言葉で中華料理は一掃される。
第二の点として、「いき」な味は、濃厚なものではない。淡白なものである。味覚としての「いき」は「けもの店の山鯨」よりも「永代の白魚」の方向に、「あなごの天麩羅」よりも「目川の田楽」の方向に索めて行かなければならない。
 すべてではないが、総じていえば中華料理は濃厚である。例えば中国伝来のちゃんぽんに比べれば、蕎麦の淡白なことは言うまでもない。うどんも中国渡来ではあるが、日本に根を下ろすにあたって淡白に変わっていった。そして最後にこうまとめる。
要するに「いき」な味とは、味覚のほかに嗅覚や触覚も共に働いて有機体に強い刺戟を与えるもの、しかも、あっさりした淡白なものである。
 つまりあっさりしていながら、味わいだけではなく、匂い、舌触りなどにもこだわるというのがいきな味なのだ。蕎麦にお目見えしたときには蕎麦独特の香りを楽しむ。そしてズズズッと吸い込み、舌触りやのど越しを楽しむ。蕎麦を吞み込むと、鼻腔から再び蕎麦のにおいが抜ける。「有機体に強い刺戟を与える」というのは、味覚、嗅覚、触覚、視覚等に衝撃を与えるという意味であろうが、彼の定義によれば「いきな食い物」の筆頭にあがるのはやはり蕎麦になりそうだ。
 
二八蕎麦へのカルチャーショック
 ところで蕎麦喰いの私が東京、特に下町で驚くのはその蕎麦屋の数である。西日暮里では、確実にコンビニより多かった。「生蕎麦」を変体仮名で書いた看板は、出雲そばを蕎麦のスタンダードだと思っていた私にはカルチャーショックだった。いや、もっとショックだったのは、蕎麦の白さだった。間違ってうどんが出されたのではないかと思いつつ、口に入れるとほのかなそばの香りがする。
 そしてしばらくして気づいた。江戸っ子には「田舎そば」というコンセプトがあることを。北関東や東北など、蕎麦殻ごとひくために黒っぽいものを指してこういうらしい。そして我らが出雲そばもこの「田舎そば」に該当し、少なくとも江戸・東京ではマイノリティであると気づいたのはごく最近だ。
 逆に現在のそばの直接の先祖、「そばきり」発祥の地とされる信州の更科そばは、蕎麦殻は混ぜないが、つなぎに小麦粉を入れるため真っ白だ。江戸は「二八蕎麦」、つまり二割分の小麦粉をつなぎにした蕎麦が主流である。田舎そばが普通だと思ってきた私にとって、蕎麦の中核しか使わないが、つなぎに小麦粉という「不純物」を入れた更科そばは、酒でたとえるなら「大吟醸」。十割の田舎そばは「純米酒」。江戸っ子の好んだ二八蕎麦は、なにやら中途半端な存在に思えてくる。
 
「西高東低」だった食文化
 そもそも蕎麦は江戸時代まで粋な食べ物ではなかった。西日本のうどんが上だと思われていた時代である。いや、それだけではない。酒も肴も、食文化は「西高東低」で、上方から江戸に「下る」ものとされていた。軍事力と政治力だけでは文化大国の上方に太刀打ちできない。しかし18世紀後半から少しずつ江戸の庶民による文化が花咲きはじめた。
 そして江戸には大量の北関東や奥羽、甲信越からの人口が流入した。彼らの多くが農漁村の次男以下であったという。一方、西日本から江戸に「下って」来る者の中には近江商人や伊勢商人など、豪商も少なくなかった。
 おおむね現在の総武線を境に、前者は北側に住んで職人階級に、後者は南側に居住し、商業に精を出した。その結果、総武線の南北で全く異なるタイプの街並みが出てきた。つまり銀座、日本橋といった高級品を扱う店舗が林立する南側と、浅草、神田、門前仲町等の門前町、両国のような相撲のメッカなど、いわゆる「江戸っ子らしい」北側に分かれたのだ。そして「蕎麦は神田」、というイメージがあるが、東日本の「食いつめ者」たちが住む下町で蕎麦が独自の美意識をもって発達していったことは極めて興味深い。
 
西の茶の湯と東の蕎麦
 江戸落語に「不昧公夜話」というのがある。お忍びで屋台のそばを食した出雲松江藩の茶人大名、松平不昧が、蕎麦の民藝的価値に気づいた。そして諸大名を招き、自ら蕎麦を打って食べさせた、という話だが、大名たちは蕎麦を食べたことがなく、不昧公ほどの食通の文化人が茶事の後に出すものだから、どんなに素晴らしいものか、と期待しつつ、上品な料理を楽しむかのように庶民の蕎麦を食べている様子を、落語の聴衆たる江戸っ子たちは笑い飛ばしたという。ところで「いき」と「上品」について、九鬼はこう述べている。
「いき」に関係を有する主要な意味は「上品」、「 派手」、「渋味」などである。(中略)うち、「上品」および「派手」の属するものは 人性的一般存在 であり、「いき」および「渋味」の属するものは 異性的特殊存在 であると断定してもおそらく誤りではなかろう。
 茶の湯に比べると蕎麦はどう見ても「上品」ではなく、「派手」の対極にもある。しかし「渋味」に関して言えば茶の湯に引けをとらない。さらに「渋味」についてこう続ける。
「派手」は対立者に「地味」を有する。「いき」の対立者は「野暮」である。ただ、「渋味」だけは判然たる対立者をもっていない。普通には「渋味」と「派手」とを対立させて考えるが、「派手」は相手として「地味」をもっている。
 つまり蕎麦と茶の湯に共通する「渋味」の対立概念は、あえて言えば「甘味」なのかもしれないが、これは美意識とはいいがたい。また、「地味」といえば、ラーメンとスパゲティと蕎麦とうどんを並べて、どれが最も「地味」かといえば、一般的には「蕎麦」だろう。その「地味」についてさらに続ける。
地味は原本的に消極的対他関係に立つために「いき」の有する媚態をもち得ない。その代りに樸素な地味は、一種の「さび」を見せて「いき」のうちの「諦め」に通う可能性をもっている。地味が品質の検校を受けてしばしば上品の列に加わるのは、さびた心の 奥床しさによるのである。
 つまり蕎麦のもつ地味さのなかには茶の湯を通して発展した「わびさび」的要素があり、世の中には何一つとして同じものはないという「諦め」をその中に含むというのだ。それが蕎麦こそ「いき」な食べ物という所以なのだろう。この文を読むと、もしかしたら西日本は上方で発展した茶の湯に相当するものが東日本の江戸にもあるとすると、それは蕎麦ではないのか、と思うようになってきた。
 
江戸っ子にとっての「民主的」蕎麦
 思うに、上方で発達した茶の湯に対抗するかのように、「後進国」江戸では蕎麦にうるさくなったのではなかろうか。例えば江戸っ子は引き立て、打ち立て、ゆでたての蕎麦を、「食べる」のではなく、豪快に「たぐる」。そして田舎そばはかみしめてこそ風味が広がるが、細長い二八蕎麦を江戸っ子はだし汁にちょいとつけるだけで噛まずにのど越しを楽しむ。噛みながら香りを楽しむのは野暮な田舎者のすることなのだ。こうした「作法」を、上から下に範を垂れる茶の湯と異なり、自分たちの「粋」という美意識のもとに形成し、普及していったのだ。蕎麦がいかに「民主的」なことか
 他にも上流階級が担い手だった茶の湯と正反対な「民主的傾向」がある。茶は文化の香り高い宋から西日本にやってきた舶来品だった。一方、俗に七十五日でできるという蕎麦は東日本の山間地でもできる救荒作物、つまり非常食の安物であり、文化の香りどころか粋ですらなかった。しかし江戸にやってきた東日本人たちは、これを卑しみながらも、自分たちの先祖が命をつないできたものとしての記憶を忘れていなかったに違いない。なんせ、縄文遺跡からも発見されるほど古い歴史があるのが蕎麦なのだから。
 さらに江戸っ子の「民主的作法」は続く。まともな蕎麦屋では茶葉による茶が出ない。茶の香りと蕎麦の香りが相反するからだ。だから出されるのは蕎麦茶であり、最後には蕎麦湯で締める。そして茶の湯の心構えがその時その時の出会いを大切にする「一期一会」ならば、蕎麦のそれは、その時その時の作業を大切にする「ひき立て、打ち立て、ゆでたて」である。そしてなによりも、茶の湯のこころが「和敬清寂」であれば、蕎麦のこころは「媚態・意気地・諦め」からなる「いき」なのだ。
 
「ただ喰うことばかり」のほかは野暮
 先述した通り、西日本は松江の茶人大名、不昧公は、落語の中では蕎麦を知らなかった。しかし茶の湯を通して「下手物(げてもの)」の美を理解していた彼なら、蕎麦のもつゲテモノのうまさを拾い上げるだけの味覚とセンスを持っていたに違いない。そば処出雲の松平不昧が蕎麦のうまさを発見した、というと、あまりにも出来すぎた話だが、民衆の暮らしの中にあるゲテモノこそうまい、という、後の大正時代の民芸運動に通ずるこの感覚は革命的だったのではないか。民衆の味を当代一流の文化人が認めたというのは、まさに食の革命であった。 
 当時の江戸では節分(大晦日でなく)に年越しそばをたぐり、引っ越ししたら向こう三軒両隣に蕎麦を配ってあいさつし、12月になると忠臣蔵の討ち入りの前に食べたという「討ち入り蕎麦」をまたたぐる。まさに江戸っ子のソウルフードだった。酒では上方に勝てないが、麺では蕎麦がある。これは江戸っ子たちのプライドをくすぐったに違いない。そして茶の湯が「茶道」となって家元制を敷き、堅苦しくなったのとは対照的に、だれも「蕎麦道」を組織化しなかった。
「茶の湯とは ただ湯をわかし 茶をたてて のむばかりなる事と知るべし」
と歌った千利休をもじるならば、
「蕎麦喰いは ただ湯をわかし 放りいれ、喰うばかりなるものと知るべし」
 であって、余計な家元制や虚飾は野暮というものだろう。
 
浅草ーいきか、野暮か
 西日暮里の自宅から、ある時は仕事で、あるときは家族と何百回と通った浅草。名実ともに訪日客にとっての東京観光のメッカといえるこの町は、昔から「いきな街」だった、ということではあるが、残念ながら、定番の観光コースに「いき」を感じることはほぼない。むしろ、でっち上げられた「なーんちゃって江戸情緒」の張りぼてにしか見えない。要するに「野暮」なのだが、浅草の「いき」が見たくて何度もこの町に通ってきた。九鬼は「いきの構造」をこう定義する。 
「いき」の構造は「媚態」と「意気地」と「諦め」との三契機を示している。そうして、第一の「媚態」はその基調を構成し、第二の「意気地」と第三の「諦め」の二つはその民族的、歴史的色彩を規定している。
 つまり「いき」というのは、異性からのまなざしを強烈に意識することを前提に、「根性」と「あきらめ」という矛盾するものが備わったものだというのだ。異性からのまなざしについて思うに、この町が東京のデートスポットとして21世紀の現在、いや、20世紀後半においてさえ認識されていたとは到底思えない。ただ異性からのまなざしを町中が強烈に意識する時も、ないではない。それは五月の三社祭の日と八月のサンバカーニバルである。
 
サンバカーニバルは「いき」か?
 女性の肌の露出が著しいサンバカーニバルが異性のまなざしを意識するのは大いに理解できる。しかしそれで「いき」かというと微妙である。「意気地」にも「諦め」にも欠けるように見えるからだ。
 それに比べ、三社祭は浅草寺北東に位置する浅草神社の三名の神々を祭る神事だが、なんといっても神輿をかつぐ町内の若い衆たちが最大の見どころだろう。町全体が浮かれあがっているが、その「ノリのベクトル」が神楽などの舞とは異なる。
 神楽の舞の動きも時に躍動的であるが、そのベクトルは大地と水平か、コンパスで舞台に円を描くように回転するのが中心である。一方「意気地」の動きは武士に押さえつけられていた町人が立ち上がる、下から上へのベクトルだ。神輿は下から上に跳ねる。神輿を担ぐ男たち、女たちの鉢巻の先も、みな上に向けている。これは上昇志向などではなく、権力に対する無言の挑戦なのだ。とはいえ、張りのある動きも、異性を意識してこそのものである。九鬼はこのように続ける。
「いき」の第一の徴表は異性に対する「媚態」である。そうして、かような媚態が「いき」の基調たる「色っぽさ」を規定している。

 三社祭の媚態
 今は数少なくなったが、祭の熱気に包まれた数日間、地元浅草の銭湯は神輿を担ぐ前に体を清める人々、または担いだ後に汗を流す人々でごった返していた。九鬼は風呂上りの女性についてこう述べる。
「いき」な姿としては湯上り姿もある。裸体を回想として近接の過去にもち、あっさりした浴衣を無造作に着ているところに、媚態とその形相因とが表現を完うしている。
 つまりさっきまで裸で入浴していたことを思わせ、あっさりした清潔な浴衣をひっかけているところになまめかしさを感じるのだ。そして化粧に関してもこう続ける。
一般に顔の 粧いに関しては、 薄化粧 が「いき」の表現と考えられる。江戸時代には京阪の女は濃艶な 厚化粧 を施したが、江戸ではそれを野暮と卑しんだ。江戸の遊女や芸者が「婀娜」といって貴んだのも薄化粧のことである。
 お祭りの日には確かに町中に涼やかな薄化粧の女性たちであふれる。さっぱりとした浴衣姿もあれば、法被姿もある。法被姿の場合、男女ともに素肌の露出が目立つ。特に彫り物を入れている職人たちは、鯉口シャツの脇からそれをのぞかせる。時には褌一本で自らの「分身」たる彫り物を誇らしげに天下に披露する。ちなみに彫り物の有無にかかわらず、少なからぬ男たちが、下半身は褌一本である。そして粋な姐さんは法被の下にTシャツなどは着ず、さらしを巻いて胸の谷間を強調する。
 平日に褌一本で彫り物を見せて歩けば間違いなく職務質問だけではすまないだろう。しかし今日は「天下御免」の祭の日なのだ。そんなことでとやかく言うのが野暮というもの。そして男女ともに肌の露出で異性の気を引こうとする。これが九鬼のいう「いき」の第一条件、「媚態」である。
 
「諦め」られないのは野暮
 しかし粋な姐さんたちがさらしを巻くだけで胸の谷間を強調しているからといって、鼻を伸ばしてみていてもそれは「野暮」以外のなにものでもない。あくまで無関心を装う。これが第二条件の「意気地」だろう。
 浅草だけではなく、古来祭の日には男女の垣根が取り払われる日でもあったのは洋の東西を問わぬ伝統だろうが、祭の日に「仲良く」なろうとして、相手に接近しようとしても相手の側に気がなければ、今なら「ストーカー」と呼ばれ、犯罪者扱いである。一方江戸っ子的価値観からいえば「いき」のルールから離れた「野暮天」である。それは第三条件の「諦め」、つまり惚れたはれたが相手に通じないときには潔くサッと身を引くことこそ粋だ、というルールを破ったからだ。
 ところで訪日客のメッカに「なりさがって」しまい、年に一度の祭りの日ぐらいにしか「いき」という「無形文化遺産」を取り戻せない江戸っ子の子孫たちではあるが、逆にいえば辛うじてこの日だけは「いき」な自分たちを取り戻せる日でもある。この現在まで脈々と通ずる「いき」は、どこから来たものだろうか。
 
酉の市
 浅草に初夏を告げる祭が三社祭ならば、冬を告げるのは浅草の北西、鷲(おおとり)神社で11月の酉の日に開かれる酉の市だろう。すぐ近くに樋口一葉記念館があるが、この作品のなかにも酉の市の場面がある。普段は閑散としたものではあるが、年に二、三度の酉の市の日には、立錐の余地もないほどの賑わいだ。そしてここでも「野暮」と「いき」のせめぎあいが見られる。
 そもそも酉の市で売られる熊手は、野暮なことこの上ない。それにごてごてとつけられた松竹梅に大判小判、七福神におかめひょっとこ、鶴亀に米俵、だるまに招き猫など、縁起物がてんこ盛りである。あっさりした渋味をこのむ「いき」な江戸っ子が買うものとは思えない。そして福をかき集めるという行為自体がそもそも粋ではない。
 しかも、その「買い方」が問題だ。客はねじり鉢巻きに法被をまとったテキヤ風情の兄さん姐さんに値切るのだ。「ひとつ一万円」、と言われれば「五千円」に値切る。すると兄さんは「八千円」に値を落とす。すると客は「六千円」とさらに値切る。待てよ、カネ離れの良い、「宵越しの銭は持たねえ」のが江戸っ子ではなかったのか。
 結局七千円ぐらいで落ち着くのが「予定調和」なのだが、ここからが問題だ。それを七千円で買うのは野暮もいいところだ。結局は一万円札を出して、「お釣りはとっときな、ご祝儀だ。」というのがいきな遊びなのだ。
 そして支払いを済ませると、兄さん姐さんに手締めをしてもらい、熊手を担いで帰路につく。考えてみれば無駄である。はじめから定価販売のみで七千円か一万円で売ればいいではないか。客の時間を奪わなくても済む。ビジネスライクに見ればとんでもない無駄だ。しかしこれはある意味、江戸っ子が自分を江戸っ子であることを確認する大切な「儀礼」なのだろう。
 ある時、この「儀礼」に参加している自分自身が、江戸っ子を「演じている」ことに気づいた。そして兄さん姐さんは、テキヤであるというよりも、「下町江戸っ子劇場」を作り上げて、「テキヤ役」を演じているに過ぎないのだ。そう思うと三社祭の男女たちも、「下町江戸っ子劇場」を運営しているように思えてきた。21世紀の渋谷では「ハロウィン」という舞台でみな妖怪役を演じているように、江戸時代から今まで下町の江戸っ子たちはずっと下町のいきな江戸っ子を演じてきたのではなかろうか。
 そしてその「下町江戸っ子劇場」を数百年間にわたり興行的に運営して「いき」を体現してきたのが東銀座の歌舞伎座という空間ならば、それが空気のように身に染みているのがこの下町の本物の江戸っ子たちなのだろう。
 
花川戸の助六
 浅草寺は東京大空襲で全焼したが、唯一北東に残る二天門だけは焼け残った。ここから東に向かうと、花川戸である。「花川戸」というと歌舞伎ファンならばすぐに助六を思い浮かべることだろう。歌舞伎十八番のうち上演回数が最も多いという「助六由(所)縁江戸桜(すけろくゆかりのえどざくら)」の主人公助六は、要するにやくざ者ではあるが、江戸っ子の「いき」を体現した役としてスター中のスターといえよう。
 一方、その素性は父親の仇討ちを果たした鎌倉初期の武士、曾我五郎ということになっている。一言でいえば荒唐無稽だ。しかし大衆の娯楽、歌舞伎に史実性を求めることのほうが野暮であろう。ここでは江戸っ子たちが彼に何を求めたのかを考えながら、花川戸から北に向かって歩いてみたい。九鬼は彼の体現する「いき」についてこう語る。
 「いき」は媚態でありながらなお異性に対して一種の反抗を示す強味をもった意識である。「鉢巻の江戸紫」に「粋なゆかり」を象徴する助六 は「若い者、間近く寄つてしやつつらを拝み奉れ、やい」といって喧嘩を売る助六であった。
 助六は父の形見の愛刀を探すため、武士たちに喧嘩を売っては刀を抜かせているが、吉原の三浦屋という遊郭に出入りするうちに揚巻という花魁に惚れこむ。そしてその刀の持ち主が「髭の意休」という趣味の悪い成金であることをつきとめる。意休は揚巻に熱を上げているが、揚巻が想っているのは助六であるため、意休にはなびかない。これが花魁のいきであった。
 
「武士道」を花魁に見つけたり
 九鬼は続ける。
「映らふ色やくれなゐの薄花桜」と歌われた三浦屋の揚巻も髭の意休に対して「慮外ながら揚巻で御座んす。暗がりで見ても助六さんとお前、取違へてよいものか」という思い切った気概を示した。「色と意気地を立てぬいて、 気立が粋で」とはこの事である。かくして高尾も小紫も出た。

 高尾も小紫も、権力や金銭になびかず、こころから想う男に操をたてたという伝説の遊女たちである。この後、九鬼は興味深い説を述べる。
「いき」のうちには 潑剌 として武士道の理想が生きている。「武士は食わねど高楊枝」の心が、やがて江戸者の「宵越の銭を持たぬ」誇りとなり、更にまた「蹴ころ」「不見転」を卑しむ凛乎 たる意気となったのである。「傾城は金でかふものにあらず、意気地にかゆるものとこころへべし」とは廓の掟であった。「金銀は卑しきものとて手にも触れず、仮初にも物の直段 を知らず、 泣言を言はず、まことに公家大名の息女の如し」とは江戸の太夫の讃美であった。
 権力者側にある意休よりも、社会の最下層に置かれた助六や揚巻のほうに「武士道の理想」を見出したのが九鬼であり、そして何よりも江戸っ子たちだったのだ。
 
助六のふるさとを歩く
 江戸は身分社会であった。身分によって居住区も異なり、山の手には広大な藩邸や武家屋敷が建ち並ぶのと対照的に、浅草周辺の大部分がせせこましい町人地だった。
 通訳案内士を対象に毎年「裏浅草」のウォーキングツアーを開催しているが、二天門から東に100メートルも進めば、観光地としての浅草は一変する。花川戸公園には助六の歌碑だけでなく、「履物屋街発祥地」の記念碑もある。そして公園の向かいには労働局皮革技術センターもあり、隅田川沿いに1.5㎞ほど北上すると、東京都人権プラザの北に皮革産業資料館もある。皮革、履物、川沿い、人権、と並ぶとピンとくる方も多いだろう。助六のふるさととされるところは、被差別部落だったのだ。
 招き猫で知られる今戸神社のすぐ南には本龍寺という真宗大谷派の寺院がある。ここの墓地の左奥側に「矢野氏墓」と刻まれた墓石がある。江戸時代に被差別民にされた人々は、氾濫したら真っ先に流される河川の近くや、崩れやすい山の下などに集住させられ、人々の忌み嫌う屠畜業や皮革産業、処刑人等の「穢れ」とされた職業に従事させられていた。ただ裁きを受けるときは一般の奉行ではなく、幕府側からは「穢多頭(えたがしら)」と呼ばれた弾左衛門に権限が与えられた。世襲制で矢野氏を名乗った弾左衛門は、幕府から関東全域の被差別部落の行政を任された。
 被差別部落民同士、協力していたかというと、そこにはあからさまな支配・被支配構造があったという。幕府は被差別民を被差別民に支配させたのだ。後17世紀には皮革産業が弾左衛門の支配から抜け出した。しかし上述の職業以外で18世紀初頭になっても支配を受け続けていたものがあった。それが「河原乞食」と蔑まれてきた歌舞伎役者などの芸能人だった。初代市川團十郎は弾左衛門の過酷な支配から脱するため、訴訟を起こして勝訴した。
 花川戸の助六は代々市川團十郎のお家芸だった。すると憎むべき「髭の意休」とは、この墓の弾左衛門ということになる。つまり江戸っ子たちは武士が統治のためにでっち上げた「被差別民」に、支配階層の魂たる武士道を体現させたのだ。とはいえ、江戸の観衆にそのメッセージは通じまい。また髭の意休=弾左衛門説は、史実ではなく歌舞伎一流の荒唐無稽なネタかもしれない。ただ観衆は「権力者」に刃向かう助六に、武士道由来の「張りのある意気」を感じた。そのような「裏事情」を秘めた矢野弾左衛門の墓地も、今はひっそりとしている。

見返りの柳を曲がって吉原へ
 本龍寺より北西に1㎞ほど土手通りを進むと、ガソリンスタンド脇に柳が植えられている。「見返りの柳」と呼ばれるこの柳の木を東に曲がると、湾曲した坂道である。1657年の明暦の大火で、幕府公認の遊郭の町、吉原が全焼した。とはいえ、当時の吉原は現在の日本橋にあった。それをまるごと移すため、江戸のはずれの湿地帯だったこの地に盛り土で約900m四方の人工的空間を造成し、塀で囲んで巨大な遊郭にしたのが現在の吉原である。
 「土手通り」とは、ここが昔湿地帯に土手を築いて吉原に行く道にした名残に他ならない。そして曲がった道は、客が「悪所」とされたところに出入りするのを見られないように配慮したものという。そして坂道を上るのも、吉原全体が盛り土だったからである。
 吉原の通りには数多くの「喫茶店」があるが、カフェではない。どの「店」に入るべきか勧めてくれる、有料案内所である。実はこのシステムも江戸時代からあった「引手茶屋」そのものだという。碁盤の目のように整然とした街並みには赤や青や黄色の目を引くような店舗が建ち並ぶ。歩ききったところに、昔の遊女たちが日々拝んだという吉原神社がある。揚巻のような花魁から、最下層の者までここにお参りしたのだろう。
 
男の「浮き世」と女の「憂き世」
 九鬼は色街の「いき」についてこう述べている。
 要するに、「いき」は「浮かみもやらぬ、流れのうき身」という「苦界」にその起原をもっている。そうして「いき」のうちの「諦め」したがって「無関心」は、世智辛い、つれない浮世の洗練を経てすっきりと垢抜した心、現実に対する独断的な執着を離れた瀟洒として未練のない恬淡無碍の心である。「野暮は揉まれて粋となる」というのはこの謂にほかならない。婀娜っぽい、かろらかな微笑の裏に、真摯な熱い涙のほのかな痕跡を見詰めたときに、はじめて「いき」の真相を把握し得たのである。
 吉原というのは何の因果かここで身を売らざるを得ない女性たちにとっては「苦界」すなわち「憂き世」であった。それは「諦め」ざるを得ない自分の人生をきれいさっぱりと棄て去ることによって「いき」となった。そしてそれは同時に男性にとって、大枚をきれいさっぱり遊女のために捨て去る「いき」な「浮き世」になったのだ。そして男女それぞれ異なる「いき」を結び付けるのが、九鬼に言わせると「媚態」なのである。
異性間の尋常ならざる交渉は 媚態の皆無を前提としては成立を想像することができない。
 つまり、その「交渉の場」こそ吉原だったのだ。
 
吉原は「城塞」か?
 その先の台東病院からはまた折れ曲がって下り坂であるから、花街はここまでであることがわかるが、その脇には弁天池がある。今は規模が小さくなったが、昔はここに巨大な池があり、女神の弁財天が祀られていた。そして女性的な観音像もたっている。いずれにせよフェミニンな雰囲気に思えないでもないが、なにやら妖気が漂いそうな場所だ。と思ったら、関東大震災の時には遊女たちが一斉にそこに逃げ込もうとしたため、溺死や圧迫死で五百名弱もの命が失われたという。彼女らは「大正デモクラシー」の時代にも、籠の中の鳥だったのだ。
 吉原を離れるべく、坂を下りながら思った。ここはまるで古代中国の城塞ではないか。四角形の空間の周りに濠を掘り、見張りが厳重な城門をくぐると、城内は碁盤の目のようである点などそっくりである。さらに、遊郭は「廓(くるわ)」ともいうが、日本の城郭において本丸、二の丸、三の丸などの一つ一つの区域のことも「曲輪(くるわ)」とよぶ。
 しかし根本的に違うのは、中国の城塞や日本の城郭は外敵から内部を守るためのものであったのだが、ここは内部の遊女たちの脱走を防ぐための設備だったということだ。
 
「生れては苦界 死しては浄閑寺」
 台東病院から北に1㎞ほど進むと、浄土宗浄閑寺である。遊女はかつて、死んでも墓をたててもらえなかった。1855年の安政の大地震の時も、数多くの遊女たちが亡くなったが、彼女らは吉原から1㎞程離れたこの寺に投げ込まれた。そこでここは別名「投げ込み寺」と呼ばれる。狭く薄暗い墓地の裏手にまわると、新吉原総霊塔がたてられているのだが、成仏しきれていない魂がさまよっているように感じられる。正直、ここまで霊気漂う場所を下町で見たことがない。
ともかくも「いき」のうちには運命に対する「諦め」と、「諦め」に基づく恬淡とが 否み得ない事実性を示している。
と、九鬼は書いているが、性病や各種疾病におかされても客を取らせられ続け、十年の「年季明け」を待たずして亡くなった人々、そして頻繁に起こった地震や火災で命を失った人々が、運命を「諦め」、恬淡としていられるのはおよそ嘘であろう。これに関しては九鬼の「いきの構造」を疑いつつ、夕暮れの浄閑寺を去った。
 
銀座も下町
 三ノ輪の浄閑寺では、墓さえ作ってもらえぬ遊女たちの悲惨な現実を前に「いき」の「諦め」とは妄想に過ぎないとおもいながら、それでも江戸っ子たちの精神を支えてきた「いき」が気になって仕方がない。「いき」の何たるかを求めるにあたり、浅草周辺ばかり歩いていても、煮詰まってきそうだ。そこで銀座を歩いてみた。
 浅草と銀座は明治日本の生み出した「二大繫華街」といえるだろう。我々がなんとなく持っている「下町イメージ」は上野や浅草周辺が筆頭に挙げられるかもしれない。ただしばしば忘れがちなのだが、銀座は武士たちの住んでいた山の手ではなく、町人たちが住む本来の「下町」である
 とはいえこの二つの成り立ちは大きく異なる。庶民の観音信仰に基づいて形成された浅草周辺の最寄り駅、上野には、現在でいう京浜東北線や宇都宮線、常磐線等を経由して北関東や東北、新潟などから「豊かでない層」が大挙して押し寄せた。
 一方でそもそも資本を持つ商人がいたところに、明治初期には築地を外国人居留地とし、明治政府が表通りだけとはいえレンガ造りの街並みにしたのが銀座である。資本に国策がからんで出来たこの銀座の「国鉄」の最寄り駅は新橋といえるが、ここも横浜港からの舶来品が最初に帝都に到着する場所だ。四大財閥の財力や薩長土肥などの政治力、そして列強の文化が集中したのが銀座なのだ。こうして銀座はいち早く下町を「卒業した」のである。
 
西洋に「いき」はないのか
 欧米を模範とした文明開化の「実験都市」からスタートした近代の銀座だけに、欧米の高級ブランドの店が集まる。そう考えると例えばイタリアあたりにはカジュアルなスーツを着込んだ伊達男がいそうだ。そうした男たちは「いき」ではないのか。九鬼は言う。
「いき」の研究は 民族的存在の解釈学としてのみ成立し得るのである。民族的存在の解釈としての「いき」の研究は、「いき」の民族的特殊性を明らかにするに当って、たまたま西洋芸術の形式のうちにも「いき」が存在するというような発見によって惑わされてはならぬ。
 どうやら「いき」は日本独自のものといいたいようだ。そしてこう続ける。
 なお一歩を譲って、例外的に特殊の個人の体験として西洋の文化にも「いき」が現われている場合があると仮定しても、それは公共圏に民族的意味の形で「いき」が現われていることとは全然意義を異にする。一定の意味として民族的価値をもつ場合には必ず言語の形で通路が開かれていなければならぬ。「いき」に該当する語が西洋にないという事実は、西洋文化にあっては「いき」という意識現象が一定の意味として民族的存在のうちに場所をもっていない証拠である。
 つまり「いき」にピッタリの言葉がないのでそのコンセプトがないというのだ。dandyなどというのはどうだろうか、と思ったが、どうやらこれは外観へのこだわりに重きが置かれるようだ。騎士たちがこころの中の「姫君」を守るために立ち上がるのも「媚態」に通じるかもしれない。しかし九鬼のいう「媚態」「意気地」「諦め」の三つをカバーする美意識は見当たらなさそうだ。特に「諦め」が皆無な気がしてならないのは私だけだろうか。
 
 歌舞伎座
 銀座と「いき」でまず思い当たるのは歌舞伎座である。九鬼はいきな食について語りつつ、こう述べる。
しかしながら、味覚、嗅覚、触覚などは身体的発表として「いき」の表現となるのではない。(中略)「いき」の身体的発表はおのずから舞踊へ移って行く。その推移には何らの作為も無理もない。舞踊となったときに初めて芸術と名付けて、身振と舞踊との間に境界を立てることにかえって作為と無理とがある。
 言わずと知れた歌舞伎は、出雲阿国という女性が男装をして都の観衆の前で踊る身体表現から始まった。そこには媚態を基礎とする「いき」があったろうが、それは自然な魂の発露だったろう。そしてそれが江戸に下り、「河原者」とさげすまれながらも庶民のこころをつかんできたのは先にも述べた。
 ただ、この地に歌舞伎座ができたのは1889年であり、近代建築である。外観のみ桃山時代の城郭のようには見えるが、複雑かつ威風堂々としすぎていて「いき」とはいいにくい。ただ、芝居小屋で演ずる「河原者」あつかいしてきた世間に対し、あえて威風堂々とした外観により、ここは歌舞伎が名実ともに江戸を、日本を代表する芸能となっていくためのセンターとなっていった。
 
ホンモノを論じるのは日章旗と同じほど野暮
 ところで初代歌舞伎座が落成した1889年といえば、日本海軍が旭日旗を軍艦旗として定めた年でもある。ただ、そのデザインは「いき」といえるだろうか。九鬼は述べる。
 縞模様のうちでも放射状に一点に集中した縞は「いき」ではない。例えば 轆轤に集中する傘の骨、 要に向って走る扇の骨、中心を有する蜘蛛の巣、光を四方へ射出する旭日などから暗示を得た縞模様は「いき」の表現とはならない。「いき」を現わすには無関心性、無目的性が視覚上にあらわれていなければならぬ。放射状の縞は中心点に集まって目的を達してしまっている。それ故に「いき」とは感ぜられない。
 旭日旗や朝日新聞の社旗などに比べれば、やはり歌舞伎座の建物のほうがまだ「いき」なのかもしれない。2013年に新築した際、戦後に復興した建物は取り壊されている。つまり現在のものは高層ビルの低層階を張りぼてにしたにすぎない。しかしある意味、歌舞伎の舞台そのものが「ありもしなかった過去を作り出し、それに酔いしれる」場である。助六にせよ、義経にせよ、忠臣蔵にせよ、ドキュメンタリーではない。「ホンモノかニセモノか」を論じるのは、日章旗と同じくらい野暮なのだ。
 一方で銀座を歩くたびに思う。歌舞伎やバー、サロンなど、この町ではカネのかかる場所でしか「いき」が感じられない。この街の「いき」は、いわば「冷暖房完備」の「空気清浄機付き」の室内でしか感じられないのだ。しかしいきの「意気地」とはもっとトンガっているものだと思う。歌舞伎でいえば、いきは「和事」ではなく「荒事」なのだ。
 大枚はたいて吉原で「いき」に遊ぶ「髭の意休」のようなお大尽に感情移入できない私は、もっと町中に「いき」があふれた所が好きなのだろう。やはり最後に目指すのは、高級感もなく、大規模な観光地でもない、葛飾柴又になりそうだ。
 
下町の新参者、葛飾区
 江戸時代には下町だった銀座だが、明治時代にいち早く下町を「卒業」したことは前に述べた。その後、大正時代前後には現在の荒川区から北千住あたりがどんどん工業化するにつれて、東日本中の労働者を受け入れることで「下町化」していた。私の住んできた日暮里なども三河島菜の取れる農村地帯だったのが、急速に下町に取り込まれていった。いわば「下町の北上現象」といえよう。
 葛飾区が下町に取り込まれたのはおそらく戦後である。それどこか、葛飾区は江戸時代初期まで武蔵国ですらなかった。千葉県北部、茨城県南部とともに下総国だった。つまり葛飾区は武蔵国としても、下町としても「新参者」なのだ。そんな葛飾を全国区にしたのは、もちろん「男はつらいよ」の冒頭で寅さんがいつも語る「わたくし、生まれも育ちも東京葛飾柴又です。帝釈天で産湯を使い、 姓は車、名は寅次郎、人呼んで "フーテンの寅" と発します。」であろう。
 
柴又駅前
 京成電鉄金町線の柴又駅で降りる。あの映画で毎回必ず出てくる駅前だ。寅さんとさくらのブロンズ像が出迎えてくれる。寅さんは右手であのトランクを持ち、左手は上着のポケットに突っ込んでいる。それがまた小粋である。手のしぐさについて、九鬼はいう。
 我々はロダンが何故にしばしば手だけを作ったかを考えてみなければならぬ。手判断は決して無意味なものではない。指先まで響いている余韻によって魂そのものを判断するのは不可能ではない。そうして、手が「いき」の表現となり得る可能性も畢竟この一点に懸っている。
 寅さんが「いき」の表現となしうる手をポケットに突っ込むのは、案外照れかくしなのかもしれない。全48作のシリーズでは寅さんは毎回マドンナとまんざらでもない仲になるが、結局恋仲にはなれない。だが、
媚態の要は、距離を出来得る限り接近せしめつつ、距離の差が極限に達せざることである。
と述べている九鬼が戦後も生きていて「男はつらいよ」を見ていたら、「これこそいきだ」と膝を叩いたろう。さらに毎回違うマドンナに惚れる彼をみるたびに思い出す部分が、
「いき」は恋の束縛に超越した自由なる浮気心でなければならない。
である。そしてひとつの恋が終わると、この駅から旅立っていくのだ。
 
帝釈天へ
 そんなことを思いだしながら帝釈天の参道を向かう。通りは令和になってもあの映画のままだ。ついでにいえば、ここは空襲の被害がほとんどなかったため、寅さんが生まれた戦前ともほとんど変わっていないはずだ。
 寅さんの実家という設定の団子屋で草団子を買ってから題経寺に向かう。笠智衆の演ずる御前様がいないか、わかってはいるがついつい気になる。柴又のだれからも親しまれ、頼りにされるこの御前様は、父親と芸者との間に生まれた寅さんの境遇をあわれみ、なにより文句ひとつ言わず彼を育てる育ての母親に同情する、酸いも甘いもかみ分けた人物だ。九鬼の次の言葉は御前様のためにあるようなものである。
一般に「いき」は知見を含むもので、したがって「年の功」を前提としている。「いき」の所有者は、「垢のぬけたる苦労人」でなければならない。
ちなみに映画ではなぜかほとんど話題にならないが、帝釈天で有名なのは大正時代に法華教説話を浮き彫りにした見事な彫刻群でもあり、また本堂裏手の邃渓園(すいけいえん)である。
 
佛教の「諦念」
 寅さんは柴又に戻るたびにここへの参拝を欠かさない。彼は御前様に仏の道をしばしば説かれ、時には神妙に我が身を振り返ることもあったが、仏教の影響を特に強いようにも見受けられない。先に「いき」の要素のうち張りのある「意気地」は武士道から来たと述べたが、九鬼によるともう一つの要素「諦め」は仏教から来たという。
要するに、「いき」という存在様態において、「媚態」は、武士道の理想主義に基づく「意気地」と、仏教の非現実性を背景とする「諦め」とによって、存在完成にまで限定されるのである。それ故に、「いき」は媚態の「粋」である。
 仏教には「苦集滅道」からなる「四諦(したい)」という概念があることを思いだした。これはかいつまんで言うと、①この世は苦界である。②それは妄想や煩悩から来る。③そんなこだわりは捨てて悟れ。④そのためには物事の本質を正しくつかめ。ということだ。「あきらめる」のは根性なしのように思える。そのような消極的なあきらめではなく、仏教でいう「諦」というコンセプトは真理に到達し、悟りを開くためにすべて捨て去れという積極的な態度なのだ。
 「男はつらいよ」で、なぜ寅さんは積極的に愛をつかもうとしないのか。それは吉原の遊女ほどではなくともこの世は苦界であり、それは女性に対する妄想や煩悩から来ることを、寅さんは悟っているからではなかろうか。オープニングで寅さんの妄想のような夢物語から始まり、女性のことが頭から離れないシーンが何度も出てくることがその証拠である。しかしマドンナに良い相手がいることが分かれば身を引くのは、寅さんなりの「悟り」であるため、「悟りの証明」が柴又駅から新たな旅に出ていくことなのではなかろうか。
 
若いころは意気地、年を重ねると諦め
 住宅街を歩きながら、寅さん記念館に向かった。映画に毎回出てくる団子屋の再現や町のジオラマなど、懐かしい雰囲気の中で、ようやく「いき」が見えてきつつあった。もっと言うなら、なぜ「意気地」と「諦め」という正反対にも見えることが「いき」の要素となっているかが見えてきたのだ。
 記念館内には前作が写真付きで紹介されている。昭和四十年代の寅さんは当然ながら若い。それが五十年代、六十年代、平成になるにつれて老けてくる。「昭和の寅さん」は血の気が多く、喧嘩っ早い。特に権威や権力に対して突っ張るのを見ると、「意気地」の寅さんだ。一方、「平成の寅さん」は丸くなり、甥の満男をたしなめたりする、第一線から退いたアドバイザー的存在に代わる。いわば「諦め」の寅さんだ。しかしそれらに通底するのは「媚態」、つまりフェロモンに他ならない。この構図は結局私がもう若くはなくなったから見えてきたのに違いない。
 つまり、フェロモンを基礎におき、若いころは突っ張り、年を取るにしたがって丸くなると同時に、御前様のように酸いも甘いもかみ分けるようになるのだ。これを九鬼は
「いき」すなわち粋の味は酸いのである。 
 としゃれている。「男はつらいよ」というのは、言い換えれば「世の中は酸いよ」となるのだろう。
 記念館の裏で、寅さんがいつも帰郷の時に歩いている江戸川の広い土手を眺め、なにか晴々した気持ちで柴又駅にもどった。
 
向島百花園のいきな草花
 東京には名園が多い。名園といえば京都だが、禅寺の庭園を中心とした京都とは異なり、東京は江戸時代に藩邸が集中していたため、信州高遠藩の新宿御苑や水戸藩の小石川後楽園、側用人柳沢吉保による六義園等、大名庭園が多い。あるいは三菱財閥の清澄庭園や三井財閥の岩崎庭園、古河財閥による古河庭園等の「財閥系庭園」が多いのも特徴だ。
 こうした大規模な庭園群のなかで、特異なのが下町の名園、向島百花園である。ここが特異なのは、他の庭にみられる豪勢な岩や樹木、滝あるいは仕掛けなど、目を引くものがとても少ないことだろう。九鬼はいう。
一般に複雑な模様は「いき」ではない。(中略)要するに、「いき」な色とはいわば 華やかな体験に伴う消極的残像である。「いき」は過去を擁して未来に生きている。個人的または社会的体験に基づいた 冷やかな知見が可能性としての「いき」を支配している。
 「消極的残像」。どこかにおいてきた思い出のかけらをこっそりと温めることだろうか。そうであるならばここは最高に「いき」である。骨董商が開いたこの庭は、風流を愛する江戸の文人墨客たちが隅田川の東、いわゆる「墨東」につくりあげた草花を中心とする庭園だ。山の手周辺の大名庭園、大名庭園にある名石や銘木は極めて少なく、滝などもない。また明治時代の洪水で破壊され、東京大空襲でも灰燼に帰したが、その都度復興してきたこの庭は、小ぢんまりと四季の草花が楽しめる隠れた名所だ。
 奥に小さな竹林がある。そして九鬼によると竹はいきなものだという。
 およそ竹材には「竹の色 許由がひさご まだ青し」とか「埋られたおのが涙やまだら竹」というように、それ自身に情趣の深い色っぽさがある。しかし「いき」の表現としての竹材の使用は、主として木材との二元的対立に意味をもっている。なお竹のほかには杉皮も二元的対立の一方の項を成すものとして「いき」な建築が好んで用いる。「直な柱も杉皮附、つくろはねどもおのづから、土地に合ひたる 洒落造り」
 杉皮つきの建物こそないが、「御成屋敷」という上品な古民家風建築がある。座敷と縁側があり、腰かけて眺めると実に落ち着く。何のけれんみもない家屋だが、これぞ九鬼の考えるいきな家屋なのかもしれない。
 
「いき」を諦めるのもまた「いき」
「いき」な建築にあってはこれら二元性の主張はもとより煩雑に陥ってはならない。(中略)なるべく曲線を避けようとする傾向がある。「いき」な建築として円形の室または円天井を想像することはできない。「いき」な建築は火灯窓や木瓜窓の曲線を好まない。欄間 としても櫛形よりも角切を択ぶ。しかしこの点において建築は独立な抽象的な模様よりはやや寛大である。「いき」な建築は円窓と半月窓を許し、また床柱の曲線と下地窓の竹に纏う藤蔓の彎曲とを咎めない。
 この家屋は確かに直線だけである。釣り鐘型の火灯窓はもちろん、彼が許容している円窓さえない。逆に私が利根川沿いの取手に建てた書斎は円窓であり、外は竹林と木の皮も美しい杉が数本立っている。DIYでいきな書斎にしたいとは思うものの、なかなか手が回らない上に、そもそも手が不器用なのでどうしようもない。ただ、九鬼はこうも言っている。
「いき」の第三の徴表は「諦め」である。運命に対する知見に基づいて執着を離脱した無関心である。「いき」は 垢抜 がしていなくてはならぬ。あっさり、すっきり、 瀟洒 たる心持でなくてはならない。
 いきな書斎にしたいという、執着から離脱し、「諦める」のもいきなのだろうか。そもそもいきな江戸っ子を目指したり、気取ったりする時点でいきではない。小学校時代よりテレビや漫画の中の江戸っ子たちが匂わす「いき」に憧れつつも、結局どうしても「いき」ではいられない自分を認めざるを得ない。ただ九鬼はそんな私のような人間をも、こう言って救ってくれる。
もとより、「私は野暮です」というときには、多くの場合に野暮であることに対する自負が裏面に言表されている。異性的特殊性の公共圏内の洗練を経ていないことに関する誇りが主張されている。そこには自負に価する何らかのものが存している。「いき」を好むか、野暮を択ぶかは趣味の相違である。
 異性にモテることもなく、「意気地なし」で、ただすぐ「諦める」だけの私が、いきを気取るのはもちろん、憧れるのすらやめよう。野暮でいいじゃないか。それは趣味の問題だ。そんな思いをいだきながら、いきな下町を去り、常磐線で「野暮な」茨城県取手の自宅にむかった。
 
寅さんの背広 
 家に着いた。部屋には寅さんが映画の中で着ていた、あの茶色い格子模様の背広の上下がかけてある。私が買ったものではない。実は以前から欲しかったのだが、寅さんのようないきな生き方に憧れつつも、「あの」背広はおいそれとは着られなかった。私のような半端者が着れば、中身より服のほうが目立ってしまう。服を着るのでなく、「服に着られて」は寅さん以上のパロディだ。人を笑わせるのはいきでも、人に嗤われるのはいきではない
 しかし2022年の春先に、私はふとしたことからそれを入手することになった。師匠松本道弘が亡くなり、形見分けとしてご子息から送っていただいたものだ。師匠は2010年代にインターネット番組で英語とディベートと日本のこころを伝えようと奮起していた。その際、知的にロジックを通すときにはカメラの前でシャーロックホームズのあの帽子をかぶり、パイプをくわえてルーペで見ながら分析して見せた。一方、情に訴えるときには寅さんの服装で登場した。「知」と「情」と「理」のバランスが崩れては人に何事も訴えることはできない、という師の教えである。
 ある時、師匠はみんなの前で「妬ましいことに、私よりも寅さんの背広が似合う男がいる。」と笑いながら私にいった。そうした経緯もあってか、私が先生の寅さんの背広と腹巻をあずかることになった。
 思うに師は自由自在かつ融通無碍の人だった。宮本武蔵に私淑し、武士道に生きるかと思いきや、色即是空の禅を実践したりもした。そして表面だけの「英語術」ではなく、心を磨く「英語道」を提唱した。
 武士道と禅で、ようやく気付いた。これはそのまま「いき」の要素の「意気地」と「諦め」ではないか。さらに思い当たることがある。師匠の周りにはなぜか常に女性からの支えがあった。先生にはそうした「媚態」があったのだ。つまり「いき」だった。
 
意気地の一生
 ある夜、師匠に呼び出されていったのは、浅草だった。渥美清やビートたけし、萩本欽一など、昭和の芸人を数多く輩出してきた浅草は、いきな芸人気質を大切にする師匠が愛した町だった。捕鯨舩というクジラ料理の店でごちそうになった。そして長年主催してきた私塾、紘道館の塾頭になるように打診され、一年だけ務めさせてもらうことになった。
 とはいえ、師匠のそばにはつかず離れず、というよりなるべく距離を置き、マイペースを保っていた。不肖の弟子である。ただ師匠に近づきすぎて「やけど」をし、離れていく人がほとんどだったため、細く長く学んでいこうと思ったのだ。が、結局英語もディベートも中途半端に学んだまま、先立たれた。
 ただ、形見の寅さんの背広にそでを通すと、師匠の追ってきたものごとを背負い、歩いてきた道を歩もうと思うようになった。背負うものは語学でもディベートでもなく、「いき」、特に「意気地」である。若いころから小手先の英語術を求める社会的風潮に対し、「英語道」を叫んできた意気地である。迫りよる老いにたいして、Grow younger!と喝破した意気地である。そしてウクライナ侵攻に対して瀕死の病床で「プーチンと話をさせろ」と言い続けて亡くなっていった意気地である。
 最近は何かするとき、しばしば師匠ならどういうだろうか、と考えるようになった。九鬼も「意気」についてこう述べている。
換言すれば、「意気」が原本的意味において「生きる」ことである。 
 一時は開き直って野暮に生きよう、と思っていたのだが、考えが変わった。とりあえず、師匠の分まで抗いながらいきに生きていこうと思う。ただどうやら私の「いき」にはムラがある。「いき」バロメーターが低下したその時には、再び形見の背広にそでを通して「いき」をチャージしていこうとおもう。(了)

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