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朝の風景

その日の運勢は玄関で決まる。
それはニュース番組の占いなどではなく、朝、仕事に出掛けるその瞬間、玄関を開けてお向かいさんに出くわすかそうでないかでその日の命運が分けられるのだ。そしてそれは0か、10でしかない。

お向かいの奥さんはどういうわけかいつも不機嫌で、目を合わせなくてもその姿、気配を感じるだけでこちらを落ち込ませるだけの空気を持っている。奥さんに罪はないのだが、その不機嫌さ加減がまた尋常ではなく、こちらを不快にさせるのに充分なほどの負のオーラを放っているのだ。だから、彼女に出くわせば0、出会わなければ10となるというわけだ。

うまいことやり過ごせた朝は、その日の空が曇っていようが雨だろうが心は晴れ晴れとして気分がいい。だが、運悪く目撃してしまった朝はどんなに気持ちのいい空だろうが会議のない日だろうが気分は沈み、仕事を終えて帰るまで憂鬱で仕方がない。だから我が家の玄関は天国と地獄の扉を兼ね備えているといっても過言ではない。

あまり彼女の話をするのも気分が悪いので、そろそろ出掛けるとしよう。

車に乗り込みエンジンをかける。いつも通りきっかり8時15分、軽快な音楽と共にお気に入りのラジオ番組が始まる。ラジオのパーソナリティは曜日で変わるが、その日の声がはつらつと聞こえるか否かは前述の通りである。
朝の挨拶から始まり、まずはベテランの女性アナウンサーが道路状況を伝えてくれる。そして気の抜けたような声の青年が午前中の天気を告げ、次にその日のパーソナリティが前日にあった出来事をまじえながらその日一日快適に過ごすためのアドバイスと豆知識を与えてくれるのだ。

家を出て狭い坂道を下ると大通りにぶつかる。だがここは侮れない。なにせ信号機のない脇道ゆえ、突然右折してくる車がある場所であり、通勤通学途中の自転車も容赦なく行きかう。だからやや左寄りできちんと停止線前で止まってから3つ数えることにしている。

そこを右折して出ていく車がいると若干のロスを生じるが、自分が先頭で且つスムーズに左折できた場合は幸先がいい。
100mほど進むと最初の信号機だ。近くに公立高校があるため、制服の生徒や朝練のジャージ姿の子どもを横目にその日のドライブがスタートする。

大通りは2車線。ぼくは比較的右側を走る傾向にある。たとえ目的地が左側にあってもだ。それは過去に左側の駐車場から出て来た車に追突された経験があるために、こちらを向いている車体に対していくらかのトラウマがあるからなのだが、何年経っても慣れないものだ。

しかしながら朝の道路はどちらかが空いているとか、どちらがスムーズだということはない。急がない朝は左車線に移動し、バスを回避しながら車を走らせる。
しばらく行くと次の信号機の左手に、赤い屋根のかわいらしいパン屋が見えてくる。パン屋は朝が早い。パン屋はガラス張りでそこに並ぶ焼きたてであろうパンは、同時に「おはよう」と言っているかのように爽やかに出迎えてくれる。そしてなにより、毎朝明るい笑顔で挨拶をするかわいいあの子が駐車場の掃除をしている。運よく信号機が赤であればしばらく目の保養になるし、青であっても必ず視界には入ってくるという寸法だ。その頃にはもうラジオの音など耳には入ってこない。

そこからはしばらくゆるやかな直線が続く。
いつも見掛ける赤い外車の紳士は、ひげを撫でつけ今日も満足そうだ。父親に送られているのか、ワゴンの助手席に座る彼女は揺れる車の中でいつも通り器用にまゆ毛を描いている。時折見掛けるピンク色の軽自動車は、電車に送れそうな旦那さんだろうか。隣の奥さんは、そのあとパートにでも出掛けて行くのか、前髪にカーラーがついている。日によってひとつだったりふたつだったり…今日も無事にラッシュの常連の顔ぶれを見ながら国道方面に向かう。

国道の手前には24時間営業のコンビニエンスストアがある。駐車場は広いが、必ずトラックが止まっているし、朝はタイミングが合わなければスムーズに駐車できない。運よく駐車できたとしても、今度は道路に出るまでに時間を要するため、用があってもぼくはここをスルーする。

国道の入り口付近の信号機は必ず2回は見送ることになる。右折の信号が短いためだ。ぼくは国道を跨いで直進するから関係ないのだが、ここで必ず駅に向かうバスの乗降に遭うのだ。
さらに5、10日は比較的トラックが多く、トラックの運転手というのは実に様々な姿を見せてくれる。先ほどのコンビニエンスストアで購入したか、または自宅から持ってきたのか、朝食を取りながら信号待ちをしている運転手をよく見掛ける。たまにハンドルの上で携帯電話をいじる者、それならまだいいが、週間雑誌を広げている者もいる。だがそれらも、交差点に近づくにつれそわそわとハンドルを握ることになる。

平日の交差点は四隅に警察官が立っていて、歩行者の移動に合わせて交通整理をしている。時々婦人警官がいたりするのだが、滅多にお目にかかれないのが残念だ。どうもぼくは制服の女性に弱いようだ。

ここへ来るまで15分から20分。おそらく9時になったら警官たちは撤退してその日の業務に向かうのだろう。

国道を跨ぐと駅前通りに面した道に入り、ここで必ず渋滞にはまる。なぜなら小刻みに信号機が設置してあるのと、左右でバスの乗降が必須だからだ。通常の路線バスのほか、そこから郊外の工業地帯に向かう会社員の群れと、スクールバスのバス停に向かう大学生でごった返しているのだが、若者は絶えずさえずり、大人は皆無口だ。あのにこやかに笑い合う大学生も、あと数年もすると無口になっていくのだろうか。

そうこうするうち、渋滞で停車中の横を幼稚園の送り迎えをしているママさん自転車が通り過ぎていく。今どきのママさん自転車はデコチャリなみに装備がすごい。余計なお世話だろうが前方に設置されたチャイルドシートは、背の低いお母さんには前が見えないのではないかと心配になる。後方に設置されるチャイルドシートはちょっとしたバイクのサイドカーのようだ。それが両方ついている自転車は、もはやママさん自転車などではなく、出前のバイクのようにさえ見えてくる。それを見る限り、昨今のママさんたちはタフだと思う。

タイミングがいいと、バスに乗り込む奇抜なファッションの老婆に出会う。彼女もまた、仕事に出掛けるのだろうかといつも考える。それにしたってあのファッションは、一体なにをしているひとなのか。
そういえば学生時代「トレンディマーケット」という原色ばかりの服や小物を売る店があった。一度入るとなにかを買わずには出てこれないような、異様な雰囲気の店だった。ただの真っ赤なTシャツが7000円で売っていたのを見たことがある。ぼくの彼女は唇型の使い勝手のないバッグを21000円で買った。使うことなく姉に譲ったようだが、その姉も仕様に困ったことだろう。あの老婆を見掛けると、3年で潰れたあの店を思い出す。

ようやっと渋滞を抜けたあとは再び田舎道にそれる。そこには会社までの道のりで一番季節を感じられる田んぼの風景が広がる。春には田植え、夏の夜の帰り道では窓を閉めていてもカエルの鳴き声が聞こえ、秋になると黄金色の絨毯が敷かれる。この辺りは雪が降らないのが残念だと思うほどに、ここの田んぼは広大で、別世界を感じさせてくれるのだ。

田んぼの風景が切れるといよいよ工業団地内に入り、社名の描かれた社用車が前に横にと並んで見える。ここに辿り着くと空気がピリピリしているように感じるのは、目的地は違えど、だれもかれもが職場に向かっているからだろう。
ぼくの会社は山のてっぺん。冬に雪が降る場所であったなら、坂道で難儀するような山道だ。

車が少なくなってくると再びラジオの音が耳に戻ってくる。最近はテレビを見ることも少なくなり、その曲がアイドルなのかシンガ―なのか、日本人なのか外国人なのか判別はつかないが、おそらく流行りの音楽なのだろう。昔はラジオ番組ではなく好きなアーティストの音楽がかかっていた自分のオーディオも時代に伴い変わってきている。
「年を取ったな」など窓の外に目を向ければ、社用車はそれぞれの目的地に吸い込まれるように消えて行き、ぼくの会社も目の前だ。駐車場は決まっているので焦る必要もない。

さて、そろそろ無駄話はお終いにして、仕事モードに切り替えるとしよう。


これがぼくの朝の風景である。




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