読書感想文(一人称単数:村上春樹)

2020年7月23日に購入。帰りにファミレスで読破。二時間弱。

村上春樹の短編集。村上春樹は初めて読む。なんか、凄い小説家らしいがどうか。普段、文学のジャンルは手に取らない。文藝春秋社。にゃる。安心して読んでいいのかな。期待。

1500円、安い。一緒に買った学術書の三分の一以下だ。
ハードカバーは、安くても三千円位するものだとの認識だったので意外。大量に売るにはこの値段なのか、話題価格なのだろうか?

開く。奥付け。著者紹介がない。もはや説明不要なほどの大御所ということか?期待が高まる。

後ろからめくると、短編8つで、うち7つは「文学界」という雑誌に載っていた作品らしい。最後の「一人称単数」だけ書き下ろしとのこと。ふむ。

帯に「単眼が集まれば複眼」的なことが書かれていたが、全部読むと何かが明らかになる系の伏線か?それとも、どうとでも言える実のない美辞麗句か?

表紙をめくると黄色い紙におサルさん。レコードに針を落とそうとしており精密。

目次。ビートルズとか、ヤクルトとかある。
チャーリーパーカー?ジャズか。ジャズとか好きそうだし。
村上春樹についてクイズで聞いた断片的なイメージの確度を更新する。石の枕、、夏目漱石かしら?クリーム、何だろう?

折り目をつけて、準備完了。
全部で約230ページだから、1ページ最大30秒として120ページ/時間。二時間弱かぁ。始めよう。


石のまくらに。

なんか、詩がでてくる。最近、連城三紀彦の『戻り川心中』を読んだばかりであり、詩に何かの意味があるのか?と読みとこうとするが浅くしか読めない。描写された女性像から意図を推測しようと試みるが、二十代半ばの女性で詩集を出すような人物のサンプルを持ち合わせておらず、また、文章全体も「知らない、わからない、かもしれない」でふわふわしており、使えるヒントが足りない。サンプル不足が原因で、これが著者のリアリティーのない妄想なのか、現実にありうる因果の延長線上の姿なのか判別がつかない。自分の知識、読み方の武器が足りないのだろう。二十歳半ばでファミレスのバイトで生計をたて詩をつくる女性がいるとしたら、実際にもそんな感じなのかもしれない。大御所だし。


やたらと詩がでてくる。つらい、、。ミステリー的な読み方の姿勢が邪魔してるのかもと思い直して切り替える。文学の読みかた。

何だろう?文学?前にたまたま文藝春秋で芥川賞の「背高泡立草」を読んだとき、何を伝えたいの?この冗長性の意図は?意図がなくありのままを書くのが文学なの?ところどころ映像に詰まるし、、エモさ?雰囲気?ありのまま?うーん、もう無理!と匙を投げて飛ばし読みし、書評の方を楽しんでいたのだが、今回は文学の大御所だし何か文学がわかるんでないかと思い読み進める。大御所だし。うん。

「文体」なるものがあるらしい。村上春樹さんの場合は、何かの主張に予防線的にしか意味をなさない文を加えるのがそれなのか?あと、あきらめの感じ。やたらと出てくる。
読んでいる途中にパターンが何となくわかってきたので、自分で「この後どう表現するでしょうクイズ」を作ってクイズ大会を始めた。3問位で想定以上のものが出てこずに飽きたのと、なんか本来の文学的(よくわからんが)な読み方じゃなさそうで不誠実な気がしたので、文学って何だろう?ってのを考えるのに集中するようモチベを入れ替え直した。

以前、みんはやヨダレネコ杯で、「だから僕はザウワークラウトを食べたことがあるかもしれないし、そうでないかもしれない」と言ったら、「村上春樹」と返答があったので、村上春樹の文体とはそういうものなのかもしれないし、そうでないのかもしれない。
僕がみえていないだけで、予防線以上の意味やリズムを整える以上の意味があるのだろう。「僕という一人称」に村上春樹と反応したのであり、後半の表現に対して言われたのではないのかもしれない。二、三回ゆっくり読み直すと新たな気付きがあるのかもと思う。

セックシーな描写が出てきた。
作者が自分を重ねてるのか?残りの短編の題名も作者の個人色が強く出てそうな名前だし。なんか、苦手。あと、パッとしない感じなのに女性に困らない感じがすごく不思議。なんか意図があるのかな?私小説にしては創作の部分もあるし。

意図がつかめない。。こんな感じのが続くのかしら、、次に行こう。

クリーム

意図が不明。あれだろうか、「ふんわりと女性とお付き合いする→何かがおこる→思う。」みたいな、制限をかけた作文コンテストなのだろうか?型を決めて実験して楽しんでるだけの可能性も見えて怖い。
こういう不思議系も村上春樹さんの作風なのだろうか?

おちんちんおじさんのように、含蓄のある不思議なおじさん登場系は僕は好きだが、浅いと一気に覚める。話の持っていきかたも唐突だし、言わせたいだけ、言いたいだけで、キャラが言っていない感じ。無いものを有るように想像するなど容易い。哲学系のメッセージを伝えたいのなら仏教哲学で間に合っている。

あまりピンと来ないので、メタコンテンツを楽しむ小説のような気もしてきた。ポプテピピックみたいに、わからなくても見れるけど、わかってないと笑えないアレ。
僕が大爆笑してる中で、ちょこんと隣できゅとんとした母の表情、何が面白いの?という質問に対し少し苦慮したことが懐かしい。
もしかしたら、僕には文学、大御所の村上春樹は早すぎた気もしてくる。定期的に出てくる競技クイズを否定する初学者は、もしかしたらこんな立場なのかもしれないと考えた。


前の話もそうだが、常用では使わない漢字や表現をちらほら見かける。連城三紀彦の小説でも、「やがて」を「軈て」としていたのがあったので、リズムだったり読んでほしいスピードなんかのために変えるのは、文学的な表現(ようわからんが)の一種なんだろう、多分。
たしかに、クイズ問題を推敲したり、雑文を書いたりするときに、情報密度を高めるためにカナを閉じたり、逆にやわらかい雰囲気をだしたいがために表現をやわらかくすることがある。なり行きで使っている「のろ」とか「ぜよ」なんかの文末語は、文の固さにつまづいた時に確かに助けてくれることが多い。

ちょっと今思い付いたが、作った文章を脳内で一度再読するという癖は、クイズを作問するときの「声に出して変じゃないか?」をチェックする習慣がそのまま拡がってきたものなのかも。にゃる。

チャーリーパーカープレイズボサノバ

やってることは、雑文祭とおなじなのかもと思った。なんか3つ4つお題決めたら、後は技巧を駆使しつつ自分の好きなものをぶっ混み続ける。文章を作る実験をしてるのかしら?と思う。
村上春樹さんは、たしか、わりとご高齢なので、てっきり実験的な文章というのは、自分の書きたい書いても書き足りないものが二十代から三十代で見つかって、そこまでの過程でよくみるものだと思っていたから意外。もしかしたら、一周回った説、挑戦し続ける人説、それがそもそも作風説なんかも考えられるなと思った。文学ってきっと深いのだろう。大御所だし。

ウィズ・ザ・ビートルズ

途中で、あ、多分、彼女を死なせるな、この作者、と思って当たった。
どう書いてったんだろう?お決まりの女性パターンに好きなビートルズを付け加えて筆を進めた結果、何か兄が動き出したのだろうか?ううむ。だとすると、彼女を死なせないパターンの方が難しくて挑戦的なのではないか?いや、もう前に試した可能性もあるな。なぜなら、僕は村上春樹を知らないのだから。実際は紙面のページ数の都合なのかもしれない。

ヤクルトスワローズ詩集

こやつはセックスで例えるのが作風なのだろうか?
苦手。なんか、年いったおじさんが内心ニヤニヤしながら、疑いもなく、この表現いいだろう、、と机に向かう様がみえるようでキツイ。それがいいと思う人が大勢いるのもキツイ。自分の経験値の浅さからくる勘違いではない気がしたい。
おちんちんおじさんも、こんな感じに見られるのだろうか?

今のところハルキストでもないので、人となりに興味がなく申し訳ないが自分語りの自己紹介と判断し、手早く目を通した。僕の大切な瞬間はこれ!など、そこからの展開が見えなければありふれすぎて、表現の巧拙以外みるとこはないのではないか?

読み進め、最後の方。
「申し訳ありません、今回は黒ビールじゃないんです。」
のところで、はたと思った。

もしかして、この人、小説書きたくない?いや、書きたくないわけじゃないけど、書かされている?編集から、ハルキストから、こんなセックス比喩などしたくはないが、そうせざるを得ないのかも?たしかに冒頭でセックスの比喩をとりやめているし、そういうこと?
あとは、人物が動くというか、筆が勝手に進む的な意味でかかされているのでは?とも思った。そうすると、先の4つの文章の投げやりに見える感じも理解できる。そうなのか?大御所?

謝肉祭(Carnaval)

ブス論の誘惑で繋ぎ止めている感じ。

繋ぎ止められているうちに、あれ?そんな事件あったっけ、あった気もするし、なかった気もするし、不思議になる。

私小説ならば起こった事実を基に脚色してるんだろうなぁと思うと、確かに大型詐欺事件がおこり村上春樹も関係ないが関係してたと話題になった気もしてくる。ヤバい、怖い。人は割と初期負荷が高い処理の裏の裏の裏をかかれると、案外コロッと信じてしまうのでは?せん妄と洗脳に近い怖さを感じた。

品川猿の告白

ショートショート?途中から何を読んでいるのかしら?となった。やっぱ、奇妙なお話が作風なのだろうか?

だけど、話の持っていきかたが必然性を伴わない、まるでその場でサイコロを振って出た目で進めたような、いや、それよりも無秩序な感じがする。
似非社会学のように結論が先にあり、それに合わせた事実モドキを見つけてくる感じ。どうとでも言えるものをどうとでも言ってしまうあの感じ。

私小説っぽい雰囲気で、それが実際に起きたことならば実際の出来事であるが故に、事実は小説より奇なりのノンフィクションを理由とした重み付けで納得できそうなんだが、技術で現実味を帯びているが、明らかにフィクションである。

この感じを狙って出しているのか?それとも、それ創作やんと言われるのが嫌で、ノンフィクションっぽく見せる技術を磨いた結果、サイコロを振る作家が生み出した副産物なのか、それはわからない。

ここらへんは、作者インタビューを別の機会にみて判断しよう。


あと、あれかな?夢から着想得てるのかな?って感じがした。他の作品も。
昔、チラ読みした、筒井康隆さんの着想の技術という本に、タバコとかアブナイあれとかでトリップし着想を得る話があった気がするが、全体に出てくるダウナーな感じといい、それなのか?それなのか?
夢を基にしたのならばノンフィクションっぽいフィクションも納得。だって、作り物だなと思えば夢から覚めるし。目覚めずに一通り上映しきられる夢しか、ノンフィクション性を持たない。そういうカラクリなのではないか?

一人称単数
わざわざ短編を選りすぐって集め、わざわざ書き下ろしを書いたのだから、前の七作品を受けての内容なんだろうなぁ、大御所だし。と思って読み進めた。

文中で謎が提示され答えが出されないまま終わったが、多分、もう一回読み返すと、答えみたいなのが出てくるのだろうか?

例えば、バラバラに提示された僕の物語は、実はすべて同じ人物の話であり、それらを統合すると最後の「一人称単数」の答えが見えてくるとか。いや、そんな意図などないのだろうか。

うーん。完全な嘘よりも、少し事実を交えて作った虚構のほうが厄介なように、自分独自の知識・経験、あるいは実際に起きたノンフィクションを基に、「お題」という縛りを加えてランダム性を加えて書き上げた、さも意図や答えがありそうに見える虚構小説というのは、なんというか、いくらでもできるし卑怯な感じがする(まぁ、実際にはいくらでもはできないんだが)。大御所という要素も、その装置の部品になっている。答えのない迷路を作り出し、合法に不法投機する感じ。バンクシー?いや、少し違うか。戦争で相手の兵士を殺しきらず、わざと瀕死、後遺症を遺した状態にして相手の戦略を削ぐような、そんな卑劣さがあるかもしれず、怖い。無責任な文章ではないと、大御所を信じたい。

察してもらうという経路でしか現実問題わかってもらえない考えというのもあるのかも知れないが、フェルマーの最終予想を解いている気分でなんだか怖い。

あと、モテないがなぜか女には困らないジャズやクラシック、(モルト)ウイスキーを嗜み、ちぐはぐなスーツを着てバーでミステリーを読むというカッコつけぶり見方によっては嫌な感じがする人が描かれており不思議な感じがした。もしかしたら、書きたくないが・そうありたくはないが、ハルキストからそんなイメージを求められて答えざるを得ない作者自身だとしたら、これは結構危ういんじゃないか?SOS?とも思った。

全体の感想

文学とは何かを知りたいと思い読み始めたが、正直モチベを保つのにきつかった。多分、文学的な問いかけ方があるんだなぁと、それがわかれば、つまり、文学界隈特有の考え方・読み方の型が持てれば一気に楽しくなるのかなぁと思って読み進め、手探り状態だった。

その結果、なんというか、必然性の薄さなど考えずに只只表現の可能性を求めるのが文学なのかもと思った。
あるものごとを表現する方法は無数に存在するが、それらをただひたすらに見つけ出す試みが文学なのかなぁ。馴染みのない必然性の薄い文章にあてられ輪郭がみえてきて少し進んだ感がある。

例えば、シューマンの楽曲の素晴らしさを表現する方法は無数にある。その無数の方法をこれでもかと探求し、披露しあうのを楽しむのが、文学なのではないか?

そうだとすると、自分が少し文学が合わないなとうっすらと思っていたことも合点がいく。

自分は経済学徒・経営学徒だったこともあり、文章表現とは目的ではなく、いかに効率的に正確に相手に伝え、行動変容をもたらし、問題解決をはかるか?の手段と考えており、意図がなく問題解決に至らない見方・考え方は総じてクズだとさえ思う界隈にいる。仕事の書類で、色々な文章表現を使おうものなら非効率きわまりない。
ある事実には、誤解のなく皆が使う表現を、馴染みのある分かりやすい型で認知コスト、探索コストの負荷がないように使用する。表現の幅は必要最小限を知っていればよい。

一方で、文学は文章表現の可能性追及を目的としている。だから、アハハ、ウフフとどうとでも言える言葉遊びを嗜む。どうとでも言えるようになるのも大変だと感情的に食ってかかられたら、論点はそこではないと冷静に返す。
それ自体は否定もしないが、ビジネスの場では言葉遊びをしている暇などない、問題解決につながらない表現が出来なければ死活問題だ。案件が取れなければ路頭に迷うし、顧客に商品の良さを感じ取ってくれ、わかる人にだけわかって貰えればなどという殿様商売は潰れて然るべしだし、福祉の場であれば問題解決につながる表現が出来なければ、冗談でなく人が死ぬ。ビジネスの視点で同じ「文章表現」をとらえれば、文学徒は生き死にを考えずに済む高等遊民と見えてしまうのも無理もなかろうと思う。

文学とは何か?を知りたいと思った動機は、

ある方が、
文学というものはなく文学というジャンルがあるという表現を借りると、競技クイズというものはなく競技クイズというジャンルがあるのみ
という趣旨のお話をしていたので、深く理解をしたいと思ったのが元々の動機である、

それを踏まえて考えると、何か少し違う部分、違和感。アナロジーで新しく見えてきそうな部分がありそうな気がする。
先ずは、ここまで。ふぅ。(終)

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