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NPB発・神戸経由・天皇杯サッカー着

昭和38年(1963年)生まれ。子供のころは、「巨人、大鵬、卵焼き」と当たり前に言われたころに育った。テレビ地上波も、民放は2チャンネルしかなくて、スポーツ中継と言えば、読売ジャイアンツか大相撲くらいしかなかった。それが、当たり前だった。

大学は、昭和の最後の5年間を関西で過ごす。卒業の年度が1988年。同世代の方なら思い出すことができるだろう。パ・リーグの一番長い日と言われた10月19日、ロッテ・近鉄ダブルヘッダーがあった年だ。そんな学生時代、少ない休みを利用して観戦したのは、西宮、甲子園。南海ホークス・ホーム最終戦となる近鉄戦も足を運んだ。感動的な試合だった。

就職して地元に帰り、車を走らせ観戦したのは、グリーンスタジアム神戸。
眺望が良く、ウグイス嬢ではなくスタジアムDJが盛り上げていたのも新鮮だった。もちろん後にレーザービームと呼ばれるイチロー選手の肩は、素晴らしいものだった。

そして、就職して10年経った頃、はたと気づいた。「プロ野球がオフになると、ほとんど引きこもりになっている。何とかしないと……」と。職業柄多忙な毎日を過ごし、わずかながらの休暇とオリックス・ブルーウェーブの日程を合わせ、わずかなデーゲームを楽しむのが精一杯で、冬には、何の楽しみもなかったのだ。「よし、動いてみよう」

白羽の矢が当たったのは、「天皇杯サッカー」1998年当時は、Jリーグが閉幕し、11月下旬から元日決勝に向けて駆け足で開催されるトーナメントのオーブン大会だった。当然、それまで観戦経験はなかったし、観戦知識をもっている知り合いもいない。さて、どうする?初めて日本代表がワールドカップに出場し、盛り上がっているサッカー界ではあったが、どうするべきか?


それでトーナメント表を一望し、一つの試合が目に留まる。「3回戦・神戸ユニバー」がそれ。そうだ、よく通ったグリーンスタジアム神戸のお隣の陸上競技場か。あそこなら、雰囲気もよくわかっているし、交通アクセスの心配もない。2回戦も開催される前ではあったが、迷わず近所のコンビニへ行って、その試合のチケットを購入した。

そのチケットは、「ジュビロ磐田・横浜フリューゲルス」の試合となった。
全日空があっさり手を引き、日産と合併を発表し、揺れているチームの試合。対する磐田は、当時代表に何人も送り込む強豪。どんな試合になるのか当日新幹線、地下鉄を乗り継いで、会場入りした。

バックスタンド中央に席を取った。となりには磐田ファンであろう親子が座った。お目当ては、ゴンちゃんなのだろう。向かいのメインに目をやると左側は真っ白。完全にそこは神戸ではなく横浜。今でも横浜フリューゲルスのチャントが耳に残っている。曇り空の中、キックオフ。

戦術とか、監督の采配とか、見どころとか全くわからないまま、黙って見ていた。しかし、観戦初心者でもわかったことが一つ浮上しした。それは、横浜の選手だ。中山、藤田、名波等攻撃の選手が、多彩な攻撃を見せるも、そんな選手たちから、ボールを簡単そうに奪い、味方選手を落ち着かせ、攻撃のスイッチを入れているのがわかるのだ。

ブラジル代表・サンパイオだ。

もちろん、魂のこもった中山のシュート、名波のノールックパスの正確性にも目を惹かれたが、サンパイオが未然に防いでいく。彼がボールを持てば、攻守交代となる。それだけは、私でもわかった。ブラジル代表の選手が、すごいとは聞いていたけれども、こういうことだったのか、と。

結局、その試合は、2-1で横浜の勝利。準決勝に進出。試合終了後の感想は、「この続きを観に行こう。」即決だった。翌日、横浜の試合のチケットを購入した。「横浜フリューゲルス・鹿島アントラーズ」だった。しかし、長居陸上競技場って、どこ?どうやって見に行くんだ……それで、当時はやりのインターネットで検索。ふ~ん、新大阪から御堂筋線で一本か…。当日は、迷子になることもなく、スタジアムに到着した。

試合は、前半途中、かなり早い時間帯に、横浜、鹿島の選手が1対1でもつれ、横浜の選手が黄紙、鹿島の選手には赤紙が提示され、鹿島が一人少なくなった。そこからかなり膠着状態が続き、1-0で横浜が勝利。横浜は敗戦が決まれば、チームとしてラストの公式戦になりえるし、サンパイオだけの試合ではなくなった。「よし、決勝も行こう」と張り切ったものの、翌日の新聞ではチケットは完売が発表され、早々と東京行きをあきらめた。

サッカーを知っている方は、よくご存じだろう。この後、横浜フリューゲルスは、国立決勝で清水エスパルスに勝利し、クラブ最後の試合を勝利で締めくくり、優勝と言う形で有終の美を飾ることになる。

翌年から地元にJクラブがないにもかかわらず、足を運べそうな試合を見つけては観戦するようになった。そう、私にとってのスポーツ観戦は、全くと言っても良いほどにサッカーに変化していった。とりわけ、プロ・アマが直接対決する天皇杯2回戦が、最も興味深いものとなった。それ以降、地元にJクラブも発足し観戦数は飛躍的に伸びていった。有り難いことに2002年の日韓WCの、「日本・チュニジア戦」も、生で観戦させてもらったのは良い思い出である。

タイトルにした天皇杯サッカーでの思い出を一つあげてみる。
2013年8月31日・土曜日に香川県生島サッカー場で開催された試合だ。
1回戦「カマタマーレ讃岐 対 高松商業高校サッカー部」だ。
香川県予選決勝戦ではない。れっきとした天皇杯1回戦である。
カマタマーレ讃岐は、JFLでの成績からアマチュアシードされていて、
県予選を勝ち抜いた高松商業高校サッカー部との一戦である。

そして、この試合ではエピソードがある。高松商業の方だ。この日、実は同日午前、生島のサブグラウンドにて公式戦を消化しているのである。その試合は、プリンスリーグ四国リーグ戦、ボルティス徳島Uー18との試合である。
いや、高松商業のカテゴリーが讃岐より上なら、この天皇杯の試合を動かすところだろうが、この試合はそういう配慮は全くされなかったようだ。日付も同じながら、午前・午後と別時間帯。試合会場も同じ生島のメインとサブ。会場がかなり遠いところだったら、どうなっていたのだろう。そして、そのリーグ戦、残念ながら高松商業は徳島U-18に敗戦したことをスタッフさんから伺い、観戦を始めた。

その試合、非常に見ごたえがあった。活発に動く高松商業高校が先制し、2-1のリードで前半を終える。後半に入るとカマタマーレ讃岐のスイッチが入る。そりゃそうだ、讃岐が高松商業へコーチに入ることもある間柄。讃岐は、みっともない試合はできない。完全にボールを支配し、都合6点を奪い試合を決める。しかし、観戦しているこちらとしては非常に素晴らしいものを見せていただいたと言う気分になれた。ひたむきな高校生の姿も、あくまでプロへの通過点として次の試合に進み、意地を見せたいプロ直前のクラブの姿も見て取れた。以降、天皇杯では二種登録のクラブ参加はできなくなった。2003年にテレビ観戦した、三ツ沢の横浜Fマリノス対市立船橋高校サッカー部と言ったような名勝負はもう生まれないのが残念である。

2020年にパンデミックが起こり、生観戦は行けてない。早く、行けるようになったら良いなぁと思っている。それは、私が教育公務員だから、と言うことが大きい。観戦に行って、私がもらってきたらシャレにならないから。もちろん、主催の皆さんはそんなことが起きないよう万全の注意を払って開催していることは承知しています。だから、観戦に行ける方々には、しっかり楽しんでいただきたいなと思っている。

誤字脱字等、また別のエピソードや記憶違いなどがあったら加筆修正いたします。なお、トップの写真は、初めて観戦した大会のプログラムです。

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