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【中庸思考】偏見を持たない

 偏った考え方は、自分自身を見えない十字架に規定します。思考をフラットに保つことと、決断をすることは大きな違いがあります。

思考をフラットに

 簡単に例えるなら、きのこの山と、たけのこの里のどちらも食べるということです(少し違うw)。俗世間には、「きのこの山たけのこの里論争」というものがありますが、自分がどちらに属しているかに関わらず、他人を尊重できる思考が、フラットな思考です。

 きのこの山が大好きで、毎日きのこの山を食べている人がいます。その人は、たけのこの里を敵視し、たけのこの里を好んで食べる人を非常に強く攻撃します。これは、きのこの山に思考が偏ってしまっているため、きのこの山以外が受け入れられない状態です。
 フラットであることとは、きのこの山が熱狂的に好きだとしても、その熱狂に取り憑かれることなく、たけのこの里を好んで食べる人を受け入れ、尊重することができることです。

 視野狭窄という心理状態があります。
 例えば、好きな人にフラれて、人生が終わりのように感じ、その人をストーキングするような心境のことです。周囲を見回せば、他にも異性はいます。地域を変えれば、もしかしたら良い人に出会えるかも知れません。しかし、視野狭窄に陥ると、フラれた相手しか、自分の運命の人はいないと思い込み、その人をつけ回してしまう(迷惑な話ですね)。
 思考の偏りは、視野狭窄に似ています(似ているだけでイコールではない)。

 フラれた腹いせにストーカする思考回路を持っているとしたら、人生損しそうですよね。「まぁ、縁がなかったな」と次の人を探しに行った方が、人生豊かになる可能性がある、と考えれば、思考はフラットに、なにものにも囚われない用にしておいた方が良いでしょう。

自分は馬鹿だという思い込み

 そういえば、自分はバカだとか、自分は才能がないという思考も、一種の偏りだと考えて良いでしょう。バカだと思い込む必要もなければ、才能がないと卑下する必要もない。自分は、自分でしかないのです。我思うゆえに我あり、ですかね。

 才能があろうが、バカだろうが、正直関係ないのです。人生は進んでいくだけでしかありません。自分の関心のあることがあれば、勉強して構わないし、才能がなかったとしても、楽しめるなら、それを続ければ良い。
 バカだと自分を卑下する必要はなく、わからない問題があるなら、わかるように調べて考えれば良いだけです。確かに、子供の頃から努力している人と比較した場合、理解するまでの時間に差が出るでしょう。限られた時間でテストの答えを埋めなければいけないケースの場合、もしかしたら負けてしまうかも知れません。しかし、限られた時間の中で競争することは、実生活、実社会の中ではレアケースです。
 時間がかかっても、結果として理解すれば良いだけではないでしょうか?
※他人と比較することで自分を規定するという問題もここには孕んでますね。

 自分は馬鹿だ、自分は才能がないと思い込むことで、チャンスを逃す方がよっぽど勿体無いでしょう。それゆえに、思考をフラットに(そう思わないように)調整する必要があるのです。

決断することは偏る

 思考をフラットにした結果、何も判断できない様では、フラットにした意味がありません。フラットにする理由は、チャンスを逃さないためです。チャンスが来たなら、アクセルを踏んで、決断しなければなりません。そして、決断は一種の偏りと言えるでしょう。

 先のきのこの山、たけのこの里で例えるなら、どちらのことも好きでない人間が、どちらが好きかを選ばなければならなくなった時(例えば、どちらかを1ヶ月食べ続けるとか)、どちらかを選ばなければなりません。
 選んだ瞬間、自分の思考にバイアスが入り、どちらかに加担したくなるでしょう(自然な衝動です)。

 例えが、不適切ですね。

 もう一つ別の例えをあげるなら、嫌いな人が自分の利益になることをしてくれるとしたら、嫌いという考えを置いておきつつ、利益を出してくれるようにお願いすることでしょうか。嫌いという感情に囚われ、思考にバイアスがかかってしまったら、利をとる事を選択ができないかも知れません。
 そして、利をとる選択をした場合、嫌いとは相反する思考が働き(利益を得るという偏り)、ジレンマがフラストレーションを生むでしょう。

 しかし、そうなったとしても、フラット思考なら、そのジレンマも水に流すことができます(理屈上は)。そのため、思考は常にフラット(中庸)を保った方が良いでしょう。

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