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自己肯定感、自己評価、他人からの評価

 こんにちは、自分大好きで困りものです。

自分大好きで何が悪い

 いきなり攻撃的ですが、特に攻撃の意図はありません。単純に自分大好き、というだけの話です。そして、実際に、自分のことを大好きかと問われれば、別に何も感じていません。嫌いでもありませんし、好きでもありません。自分を自分から切り離して客観的に見ていないため、わざわざ好き嫌いという基準で自分を評価していないのですね。

 例えば、これはできそうあれはできなさそう苦手、得意よくやれた、よくやれなかったと評価することはあります。これは自分ではなく、事象に対しての評価です。簡単に言えば結果に対して、点数をつけていたり、見通しに対して予測を立てているため、評価することができます。しかし、自分を感情な意味で、好き、嫌いと評価することはあまり意味がありません

 なぜでしょう? そりゃそうです。仮に自分を嫌いと評価していたとしましょう。嫌いという感情は、本人の中から現れてくるものです。そのため、感情の沸き立つ源泉本人が、嫌いという水を流していることになります。本人から嫌いと言う水が湧き出ているのだから、もはやどうしようもないですよね。嫌いという水が出てるんだから、しょうがない。好きという感情も同じです。好きという水が滲み出ているんだから、しょうがない。出ちゃってるんですもの。

 自然と自分の中に沸き立ってしまっているものは、もはやそういうものだと受け入れるほかないでしょう。つまり、嫌いという感情の水が出ているなら、その川は、嫌いという水が流れるしかないのです。軟水が湧き出る源泉を硬水に変えることはできませんよね? それと同じです。嫌いというなら、受け入れるしかないのです。

 受け入れるしかないために、好き、嫌いという感情を、わざわざ自分自身が評価する必要はありません。何が出てきていても、受け入れるしかないのです。嫌いなら、ええどうぞ。好きなら、それもどうぞご勝手に。なにせ、自分の中で湧き出て、自分しか飲まない川の水です。他人にゃ関係ないはなしですから、個人の中で自己完結してしまったほうが良いでしょう。

 話がそれてしまいましたので、軌道修正しましょう。

 では自分を好き、嫌いと評価することが無意味であるなら、なぜタイトルに記したとおり、自分が大好きで何が悪いと言えるのでしょうか?
 
それはひとえに、自分大好きという評価は、他人が下しているからです。そうです。自分を好き嫌いと評価するのは、自分だけの場合と、他人が評価する場合があります。厄介ですね。自分だけで自己完結できるケースなら、好きにしたら良いのですが、他人が「あなた自分大好きだよね」「あなた自分のこと嫌いでしょ」などと評価してくるのです。鬱陶しい。これは、ひじょーに鬱陶しい。


 一番最初に記したとおり、私は自分が大好きなのですが、それは私自身の評価ではなく、他人が私に下した評価なのです。つまり、私は私のやりたいように判断し、行動するわけですが、それが他者から見ると、自分大好きに評されるわけです。


自分の評価は自分で決める

 人間は社会性のある生物ですので、他者の目には非常に敏感です。のけものになりたくない。変わり者と思われたくない。平均点よりも上にいたい。バカとは思われたくない。仕事ができないとは思われたくない。悪い評価をくだされれば、それだけで悩みのタネが生まれて、人生がお先真っ暗。絶望して、もーだめだーなどと苦悩してしまうわけです。

 人間という生物の反応としては、比較的正常です。その苦悩があるから、ある意味、社会が浄化され、うまく機能していくわけですからね。
 しかし、時としてその苦悩は、自分自身を傷つけるようになります。ストレスですね。ストレスを長期間受け続けると、心身に不調が及びます。それはそうです。ストレスがある状態とは、すなわち体の中で害のある物質が放出されて、体の中のバランスが著しく狂ってしまっている状態です。体に不調が及ばないはずがありません。心身の心の部分も、脳内で発生する神経伝達物質の需給量の狂いが原因で、不調をきたします。一刻も早く、ストレスのもとを退治しなければならないでしょう。

 さて、今回のお話で、ストレスの原因となっているのは、どこでしょう?

 1.自分が下した自分の評価
 2.他人が下した自分の評価

 1は最初に記したとおり、受け入れるしかありませんので、最初ストレスに感じていても、長期間ストレス状態を作ることはないでしょう。なにせ、源泉そのものですからね。自分のこと、嫌いだと評価したとしても、それはストレスにはならず、単にその状態を認知しているだけの状態になります。変えようがないものですので、嫌いだからといって、苦悩することは殆ど無いでしょう。多くの人は、開き直るという選択を取るはずです(多分)。

 答えは、2。他人が下した自分の評価のせいで、ストレスが発生しています。これは社会コミュニティに敏感な人間という生物だからこそ仕方ない部分もありますが、ちょっとまってください。自分を評価している他人は、どれだけ、自分のことを知っているのでしょう? よく考えてください。自分のことを50%以上理解できるのは、自分だけです。他人は、一側面だけしか見ることはできません。夫婦だとしても、心の中まで完全に理解することはできません。もしかしたら、尻にホクロが3つあって、そのどれからも尻毛がでているという珍しいケースだって、知らないかもしれません。

 他者が知れる自分など10%にも満たないのです。この割合は、適当に書いているだけなので、統計をとって正確な数字を出してもよいかもしれませんが、それも難しいでしょう。なぜなら、他者の評価を答え合わせする際の自分の答えも、実は間違っている可能性があるのです。つまり、自分自身も認知の錯覚を起こしていて、本当はAであることを、Bだと誤認している。仮に他者がCと評価したものは、本人的にはBだったが、さらに本質をつくとAだったというケースもあるはずです。
 端的に言えば、自分だって自分のことをわからない場合があるでしょう、ということです。

 自分でもわからない自分を、なぜ他人が正しく評価できると思えますか? 他者(上司)が「こいつはプレゼンが駄目」という評価を下した際、ほとんど本人(部下)は、「自分は駄目」と認知し、それをずっと引きずります。実は、会社でのプレゼンだけ駄目で、課外活動でのプレゼンは非常に優秀かもしれません。つまり、何かしらきっかけがあれば上手にできる。または何かしらうまく行かない原因となる何かが存在しており、会社ではプレゼンが上手く行かないだけなのです。原因を解決すれば、うまくいく可能性がある。
 うまくいく可能性があるのに、他者が駄目といったから、その可能性の芽をつむのでしょうか? もったいないですね。原因を解決したら、別の可能性が切り開かれるのに・・・。

まとめ

 取りとめもなくなってきたので、まとめていきますと、自分が下した自分の評価は受け入れる。他人が下した自分の評価は、ほっとけ

 仮に自分を変わりものだと称するなら、それでいいんじゃないでしょうか? 何も問題はありません。他人に変わりものだと評されても、それも何も問題はありません。どちらの評価も、真に受けるだけ、無意味です。なんで自分の中から出てくる感情を否定する必要がありますか? なんで自分のことをろくに知らない他人の評価を信じる必要がありますか? 他人の評価など、参考程度にとどめておいて、自分のことは自分で決めていけばよいだけだと思います。

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