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#親ガチャ より #子ガチャ だろう

定義の話で、「親ガチャが悪い」「子ガチャがどうの」と中身についていうことはしません。

存在する順番

 ガチャとは何でしょう? お金を払って、レバーを回すとおもちゃが出てくる仕組みですね。ソーシャルゲームでは、お金を払うと、特定の確率でキャラクターが出てくる仕組みを指します。

 つまり、ガチャをする場合、する人されるものに分けることができます。これを親ガチャ、子ガチャに当てはめてみましょう。

 親ガチャの場合、子供が引いて、親を当てることになります。
 対して子ガチャは、親が引いて、子を当てることになります。

 まず本来のガチャと比較して、類推・アナロジーになっているのはどちらでしょう。アナロジーとは、図形で考えるとわかりやすいのですが、相似=大きさが違うけれど同じ形の図形のことを指します。論理学では類似する特徴を指します。つまり、大きさの違う正三角形が二つある場合は、相似。正三角形と直角二等辺三角形の二つは、相似ではありません。

 つまり、同じ仕組みといえるのはどちらかという話です。

 子ガチャは、本来のガチャとアナロジーになっています。親が生殖行動を行い、無数の精子と、そのタイミングで設置されている卵子が合わさり細胞分裂することで、子供は誕生します。親は、こんな子供が欲しいと願っても、思う通りにはできません。特定の精子・卵子を利用したとしても、細胞分裂の過程で、やはりずれが生じてしまいますので、完全な思い通りにはならないでしょう。クローンを作るように子供は作れませんからねぇ。

 では親ガチャはどうでしょう? これは子供の視点から見て、親を選べないという意味の皮肉です。皮肉にまっとうな返答を返すのも無粋ですが、あえて切り込めば、やはり、本来のガチャの仕組みと相似ではありませんから、ガチャと定義するのは難しいでしょう。
 親は、既に存在しています。子供が生まれるということは、その親からしか存在しうることはないのです。例えば、親を変えてみたとしましょう。母親を変えて生まれてくる子供は、親ガチャと言っている子供とは違う存在になります(遺伝子がそもそも違いますからねw)。もっと言えば、同じ両親だとしても、完全に同じ子供が生まれることはありません。例えば、親ガチャだという子供を授かった日ではない日付に生殖行動をとり、受精したとしましょう。そこで生まれる子供は、あなた(親ガチャという子供)とは違う存在が生まれるのです。人格そのものが違うのです。

 親を変えたら、結果が変わってしまう場合、それは式として根本からひっくり返しているわけですから、ガチャとは言いにくいですよね。つまり、親ガチャといっている子供が、どんな親からでも作り出されるなら、それは逆算して親ガチャと定義することは可能です。しかし、それはどう考えても不可能ですw 子ガチャの場合は、親は変わることはない。生殖行動を繰り返し、子供が増えていくとしましょう。その際、親の存在は(厳密には時間の経過により同一ではないが)、変わっていません。

 子供の存在自体が揺るがされる親ガチャという定義は、本来のガチャの仕組みとズレが生じますから、やはり言葉としては間違いでしょう。皮肉としてはありですがね

虐待する親からの逃げ道としての親ガチャ

 ツイッターでこの話題を見ていると、虐待されている子供が、自分を慰めるための言葉としてもともと利用していたというような記載がありました。
 親を皮肉るという意味では、慰められるかもしれませんね。しかし、どちらかというと、その定義づけよりも、慰められるだけでよいのかと思ってしまいます。

 とは言え、児童相談所の不祥事などのニュースや、旭川のいじめで死んだ子のニュースに登場する学校関係者の話を見ると、子供が信頼して相談できる先が少ないのかなというのもわかるように思います。毒親からどのようにして逃げればいいのか? 毒親だとわかっていても、子は親を捨てられないというのは、ときどき聞く話です。

 定義の話をうんぬんかんぬんしてきましたが、親ガチャの言葉の裏に隠れている子供の気持ちというものは、汲み取ってあげてもよいのではないかというのが、今の気持ちですね


産まなければいい

 そうそう、親ガチャと言われるのが嫌なら産まなければいいと言うツイートを見ましたが、それは暴論でしょう。親ガチャ・子ガチャと罵り合う事自体止めたほうが良いと思いますが、そもそも単純な気持ち「子供がほしい」というものを否定するのはどうかと思います。

 別に色んな人の考え方があって良いわけで、例えばできちゃった婚的なケースもあれば、望んで作ったケースもあるでしょう。言われるのが嫌だと言うなら、産むなというのは、問題のすり替えです
 そもそも、言葉として、相手を傷つける言葉を使ってよいのか? と言う話からすべきではないでしょうか? 子供が存在することを否定しているわけではありません。ただ言われるのが嫌だと思っているだけです。産む産まないと言う話と、相手を傷つける言葉を使ってよいのかと言う話をごっちゃにしてはだめだと思います。

 自分が使った言葉を否定されたからといって、「じゃあ、産むなよ!」は反証として破綻していますね。親としては「その言葉を否定しているだけで、何もあなた本人を否定していませんよ」と言う気分ではないでしょうか?

育て方が悪いーー子ガチャへの反論

「親ガチャの反論として、子ガチャもある」というが、それは育て方の問題だろ! と批判している人がいましたが、それも違います。残念ながら、親の100%の影響下で子供は育ちませんw 親、親族、友人、町内、街・・・、広くは日本という国。スマホ、テレビなどいくつもの影響を受けて子供は育ちます。残念ながら、親の育て方が悪かったからというのは、ケースバイケースで存在しうる可能性ではあるものの、それが全てではないのです


 一番わかりやすい例を上げましょう。

 子供がLGBTに属するのは、親の育て方が影響していますか? 


 今の所、遺伝なのか、環境なのか理由はわかっていませんが、育て方でLGBTになるというのはなかなかファジー(不確か)です。
※ここでLGBTを上げると、それになることがガチャのハズレに捉えられるかもしれませんが、あくまで不確かの例として上げているだけで他意はありません。

 親と子の関係が健全だったとしましょう。しかし、悪い友人にそそのかされて、不良・グレてしまったら、それは育て方が悪かったと厳密に言うことができますか?
 当然、言えませんねw


言葉の裏側

 途中にも書きましたが、親ガチャという子供の気持ちは汲んでもよいのではないかと思います。親本人が汲んでも良いですし、周りが汲んであげてもよいのです。ただそれだけの話しだと思いますね。

 その言葉を使うには、理由がある。その理由を聞いてあげるのが良いのではないかと思います

 定義としてはおかしいですし、子ガチャのほうが仕組み上は正しいと思います。親ガチャと言われるのが嫌なら産むなという意見も、論点のすり替えですし、育て方の問題だと親に全て責任を押し付けるのは(ケースバイケースですから)間違っています。

 とはいえ、その言葉を子供が使ったということは、何かしら理由があるわけですから、向き合って話を聞くことくらいはしてもよいのではないかというふうに思います。「言うな」「子ガチャだ!」と喧嘩せずに・・・。

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