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n角形のレーダーチャートの図形がn-1未満角形になる

システム開発という仕事をしている。プログラミングをしてシステムを開発する仕事。システム開発の過程にはさまざまな進め方があるけれど概ねは設計と製造、そして正しく動くかどうかを検査する段階に分かれる。私は10年近くこの仕事をしているけれど、検査がとても苦手だ。

国語がとても苦手だった。文中に答えがあると豪語する輩は嫌いだった。国語のテストはもっと嫌いだった。もちろんは本は読めなかった。読んでいても同じ行を読んでいた。出てくる登場人物の名前が覚えられない。レトリックなんかされたらついていけなくて怒っていた。

なんとなくする。というのができないのだろうと思う。検査をしているとこれでいいのだろうかと常に思う。検査項目が不完全だと思う。検査を正しく設定するには設計が甘いとも思う。製造の質も低いと思う。ああ、もうお手上げだ。何も手につかない。

私はこの行を正しく検査できたのだろうか。チェックシートには確かにできたと書いた。だけども本当に検査できたのか?一つずつしたはずなのにしていない気がする。前に並べた雑念が目の前の一つ一つをうまくいかせない。緻密なことができない自分に嫌気がさす。

ものを作る人として全体を見れる必要があると思う。作る人、売る人、使う人。それらも人種類じゃない。時代も変わる。そんなたくさんのものが変動する中で適切な判断が求められる。その時にそれぞれの知識がない人が全体を見ることなんてできないと思う。そんな広い視野を持つ人のレーダーチャートはきっと正n角形なんだろうと思う。

私のレーダーチャートは手を動かすこと、熱弁することに尖っている。それはそれでいいのだと好意を持ってくれる人は私に言う。だけれどもそれは近い人だから言えることなのだと思う。それでは私はいつまでも道具になってしまう。

道具は嫌だ。私が作りたい。私が作りたいのだ。システム開発という仕事は1人ではできないということが腑に落ち始めている。そしたら、私にとってシステム開発が役所仕事と並列になる。みんなで協力してしっかりすること。誰かの役に立つ大切な仕事。そこに作る私がいない。

私に残された道は正n角形を描くことなのだとわかっている。生得的なせっかちは作りたいと感じる私の目標の前に立ちはだかっている。突破する方法が思いつかない。国語のテストができなかった自分は今も小説を読めない。大学入試ができなかった。覚えればいいだけのことができない。

このせっかちさを活かしてくれる人がいればいいと思えどそれもまた道具になってしまう。

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