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「饗宴」プラトン著 書評

<概要>

青年愛(成人男子⇄中高生世代の男子)を題材にしているとはいえ、エロスに関する本質的な考察が、この時代において深く哲学されていることに驚きの念を感じ得ない傑作。翻訳者中澤務氏による当時の価値観を基準に理解する視点としての丁寧な解説とともに、翻訳は新しければ新しいほど、現代人の言語世界にフィットするという意味で非常に理解しやすい翻訳書。

<コメント>

ギリシア哲学の翻訳版を読み始めて2冊目ですが、2冊目にして何とも感動すべき傑作でした。

私も、当時のアテネ市民の生活環境や価値観など、塩野七生さんの作品「ギリシア人の物語」等を読みながら理解しようと努めていましたが、本書では翻訳者中澤氏が、当時の時代背景から始まり、特に本書で重要な題材となっている青年愛(パイデラスティア)について、丁寧に解説してくれているので、より深く理解することができました。

*本書では「パイデラスティア」は「少年愛」と訳していますが、成人と12歳〜18歳の男子との間の上限関係の恋愛ということですから「青年愛」とした方が感覚的にフィットするかもしれません。

さて、私が何に感動したかというと「エロス」に対する深い洞察です。

エロスとは何かのエロスであって対象そのものではありません。対象は「美しきもの」や「よきもの」。そしてエロスがはたらく先にあるものは「幸福」。

幸福になるために、普遍的な「美しきもの」や「よきもの」を対象に永遠に自分のものにしたいという「心のベクトル」=欲求そのものがエロス

そして永遠性は、世代から世代へと引き継いでいくことによる永遠性。老いて消え去りつつ次世代の青年に向けた恋愛感情に絡めて。

マンティネイア(プラトン)曰く、

死から逃れられない生き物は、神のように永遠に同一性を保つというやり方でなく、老いて消え去りながら自分に似た別の新しいものを後に残していくというやり方

成人男子は、青年の美しい身体と心に心を奪われ、徳とは何か、優れた人間とは何か、教え導こうとする。

正しい青年愛を通して、成人男子が能動的に青年を愛し、青年が成人男子の愛を受動的に愛するという上限関係になっていて、青年男子が成人男子を通じて「美しきもの」「良きもの」に出会う。

青年愛を通じた、エロスが美しいものへ問い導く道(=美の梯子)は、まるで「美のノエシス」を通じて「美のノエマ」を知るという、現象学の「確信成立の構造」のようです。

以下有名な「美の梯子」より、
”様々な美しいものから出発し(ノエシス的だな)、かの美を目指して、たゆまぬ上昇をしていくということなのだ。その姿は、さながら梯子を使って登るもののようだ。すなわち、一つの美しい体から二つの美しい体へ、二つの美しい体へ、二つの美しい体から全ての美しい体へと進んでいき、次いで美しい身体から美しい振る舞いへ、そして振る舞いからさまざまな美しい知へ、そしてついには、さまざまな知からかの知へと到達するのだ。それはまさにかの美そのものの知であり、彼はついに美それ自体(ノエマ的だな)、を知るに至るのである。

こうやってプラトンのイデア論をみてみると、イデアなるものは確信成立構造の結果としての確信像、つまり「ノエマ」であり、現象学的考え方に近いなあと思います。

最初に絶対的な「美のイデア」があるのではなく、我々が美を感じるものは何だろうと突き詰めて突き詰めて得た確信=美のノエマが「美のイデア」であって、現象学的還元方式になっているのです。

元に戻り、マンティネイア曰く

”人間の生が生きるに値するものになるとしたら、それは美そのものを見ているこの段階において”

とソクラテスに伝えます。こうやって人は美しき心と体を持った人を愛し、そして子をなし(子をなさなくても青年愛として次世代へ)、子々孫々へと伝えていくその原動力が「エロス」ともいえます。

そして中澤氏曰く

ソクラテスの対話は、徳とは何かを主題として、対話相手が子を生み出す(つまり自分の考えを提示する)ことを促し、そして生まれた子を吟味し、育てていこうとする営みにほかありません。精神に働くエロスとはまさに哲学的対話を促す力だと言えるでしょう

*写真:ギリシア サントリーニ島 ブティックホテル「カナヴェス・イア」にて

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