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哲学とは何か 竹田青嗣著 −社会理論編−

「哲学とは何か」のうち普遍的な認識方法としての本質学だけが存在・認識・言語の謎を解明したとは、前回説明した通りですが、特に社会理論については、項目を立てて近代以降の歴史を俯瞰した上で、本質学に基づく社会理論を展開しています。

◼️社会理論:「自由」と「暴力回避」を普遍原理とした共通了解の前提条件
本質学に則れば「社会理論」という「数値化できない本質の領域」は、数学のように誰もが納得できる普遍的理論は原理的に成立しないので、時代だとか地域ごとの何らかの共同体ごとに「共通了解できる共同的確信」つまり当該共同体のコンセンサス形成によって共通の信念に基づく社会理論を構築していくしかありません。

例えば「自由」という概念も普遍的な理論とはいえません。「自由でなくても食っていければ良い」という原始社会にいそうな人間の価値観とは一致しません。本質の領域では普遍的な理論はないのです。

また、これは「人殺し含む暴力」においても同じで、乱世の時代の日本の武士、ベドウィン等の遊牧民族など、暴力を伴う人殺しが共通了解としての「悪」ではない時代・地域もありました。むしろ「権威」という虚構に裏打ちされた権力が「善」の時代でした。

今でも国連軍と称して国連が一致すれば戦争=人殺しも国際法的に了解されています。もっと言えば死刑を認めている国家も同じ。本質の領域では普遍的な理論はないので、人殺しや戦争であっても必ずしも普遍的悪とはなりえません。

つまり「自由」や「平和」などの概念も絶対善ではなく、西洋近代社会以降創造され「善」となった概念で、数百年程度の価値観ではないかと思います。

ただし、著者の場合は「暴力原理」のみは、我々誰もが同意せざるを得ない善悪や真偽の人間秩序を破壊する唯一の普遍原理として否定的に論じています(欲望論第2巻538頁)。したがって暴力は特に回避すべき原理として社会の本質学が構成されています。これは「自由」に対する肯定的評価も同じです。


◼️「啓蒙主義」:「自由」「暴力回避」を普遍原理とした社会理論
本書によれば、神以外の信念としての西洋近代人にとって共通了解された概念「自由」や「暴力回避(特に2つの大戦やホロコースト以降の時代」を絶対善としておき、結果として「自由の相互承認」=啓蒙主義という社会理論につながっていくとなっています。

一見これは「自由」と「暴力回避」を前提にした「本体論」のように感じますが、以下の通り「自由の相互承認」という社会理論は、本質学に基づけば「これしかない」社会理論でもあります。
以下、我々が目指すべき社会理論を私なりに整理すると

①社会理論は、数値化できない領域=本質の世界の領域
②本質の世界の領域には、普遍的な理論はない
③でも何らかの社会共通の理論=信念がなければ、人間集団は維持できない
④どんな社会信念も一致しないのであれば、どんな信念でも受け入れられる1段上の社会共通の信念をおかざるを得ない(=信念対立の克服)
⑤どんな信念も認め合える信念とは「あらゆる信念を認め合う自由」
⑥あらゆる信念を自由に認め合うためには、暴力原理を排除しないと力のあるものだけに自由が享受されるということになってしまう
⑦したがって平和的な自由の相互承認が必要
⑧以上、平和的な自由の相互承認に基づく「近代市民社会の原理=啓蒙主義」という社会理論が一段上の社会共通の信念になる

ということで本来普遍的な信念はありえませんが「啓蒙主義」だけは「社会共通の信念」として共通了解しましょう、という感じ。

別の本質学視点でいえば、普遍的信念ではありませんが、地球全体を共同体として現代に生きる地球人の多数が共有している信念はあります。それは国連憲章の趣旨。

国連憲章では「平和」「人権」「自由」「社会的進歩」「生活水準の向上」という概念を全世界が共有すべき信念として宣言しています。つまり「啓蒙主義」と同じ価値観です。

このように、本質学の理論的な二つの整理の面からみれば、日本国憲法含め西洋民主主義先進国の憲法も全て「啓蒙主義」によって現実化されているのではないかと思います。

◼️格差
私は格差は是認する立場ですが、著者の場合は普遍資産という原理を根拠に否定的です。

「格差の拡大は、必ず経済と政治の癒着をもたらし、マネーの力によって政治ルールをねじ曲げ、富裕階層の特権を作り出す。これを象徴するのは、アメリカでの「ロビー活動」による政治ルールの「買い占め」という現象。格差拡大の放置は「各人の対等な権限による統治」といい市民社会の大原則を掘り崩し、民主主義それ自体を破壊する(一人1票ではなくXドル一票)(250-251頁)」

というのですが、これは「格差」が原因ではなく「民主主義制度の機能不全」が原因。

民主主義の意義を公教育等において浸透させ内面化させた上で、誰もが公平に投票できるよう選挙制度を公正に運営すれば解決します。米国において富裕層が富裕層に有利に働くというのも特殊な選挙制度(登録制と代理人による総取り制度)もあるかとは思いますが、これも制度の問題で格差の問題ではありません。

「現在進行している格差の拡大は、これを修正できなければ、近代の”自由な市民社会”のプロジェクトにとって致命的なものとなる可能性を持っているそれは資源や環境の問題を解決不能にし、暴力契機を増大させて、人間社会を普遍戦争と絶対支配の世紀へと引き戻すかもしれない(252頁)」

というのですが、これもカンボジアやロシアなど民主主義と謳いながら公正な選挙が実質崩壊している国ならともかく、少なくとも民主主義先進国では権力が暴走すれば選挙という平和的な手段によって解決可能で、格差が広がろうが縮まろうがあまり相関関係はないように感じます。

◼️普遍資産

「市民国家の富は成員全体の協働による産物(普遍資産)であり、したがってそれがいかに配分されるかはあくまで一般意志の原則、すなわち成員の相違によって決められるべき(262-263頁)」

というへーゲルの言葉を根拠に、格差拡大に反対しているのですが、一般意志であれば民主主義を公正に機能させればよいだけです。

たとえば日本であれば国民が総意として実現させたければ「より強い富の再分配」政策を掲げる日本共産党に投票すればよく、米国であればバーニー・サンダースを大統領にすれば良い。

頭からの「格差」禁止は、ある意味「本体論」的な匂いを感じます。

個人的には、格差が問題ではなく絶対貧困が問題だと思っているので、最低限の生活保障は維持しつつ、成果をあげた人が正当な報酬を得る社会が最も「自由」や「暴力回避」ができる社会だと思います。

なぜなら先進国において富裕層はある意味イノベーター。彼らを痛めつける政策は膨大な富の供給源を毀損するという事だから。行き過ぎると経済は停滞し、失業者は増えて自殺が増え、絶対貧困者が増えてしまうからです。

むしろ彼ら富裕層は、自分たちが享受する資産を遥かに超える資産を社会に還元していると考えられます。

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