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『快楽としての動物保護』信岡朝子著 書評

<概要>

動物保護に関してシートンを主とする動物文学、アラスカを主に扱った写真家でありエッセイスト星野道夫、「ザ・コーヴ」を中心とするクジラ・イルカに特化した愛護運動を題材に動物保護という快楽を比較文化的に扱った著作。

<コメント>

わたし自身、動物は大好きで南アフリカ・ボツワナやスリランカまでいって野生動物を見に行ったぐらいで、国内でも旭山動物園ふくめ、動物園も水族館も大好きな人間。なのでフランス・ドゥ・ヴァール氏の著作を中心に動物行動学なども勉強中。小中学生の頃はシートン動物記はもちろん、戸川幸夫の動物文学も片っ端から読ませていただき、動物と人間の関係について子供の頃から興味深く追っかけてきました。

南アフリカにてバンクボック(2008年撮影)

■動物愛護という快楽

とはいえ、どうも極端な、というか原理主義的な動物愛護運動家に対しては、なんとなく胡散臭さを感じており、その「胡散臭さ」とはなんなんだろう、という問いに一つの答えをくれたのが本書。

以前、和歌山県大知町のクジラ博物館もくじらの生態含め詳細に紹介しましたが、

やはり著者の言う「動物愛護という快楽」とうことばがキーワードかなと思います。例えば、映画「ザ・コーヴ」に関しては「救済に対する願望」という視点では

『ザ・コーヴ』という作品も、動物の映像表彰において長年再生産され続けてきた動物の救済・解放物語の系譜の一環として位置付けることがができる。・・・今度は映像や文章の世界で展開される「救済」の物語に自分も実際に参加したいという新たな欲望が、一般の観衆や読者の間で潜在的に蓄積されていったことは創造に難くない。

本書(第3章:救済という快楽)

とし「何かを助けたい」「何かの役に立ちたい」という人間が根源的に持っている欲望を充足させる一つのツールとして見事にマッチした作品だと紹介。これは環境保護団体も同様で、シー・シェパードのような環境保護団体は、まるで映画のような救済物語に参加したいという大衆的な欲望を満たすための社会的装置だと解説しています。

一方で物語としてのシンプルな観念懲悪のストーリー性の視点として

『ザ・コーヴ』は、イルカ殺戮という日本人の「悪事」を欧米人が暴く、という明確な対立図式を殊更にパフォームすることで、動物愛護をめぐる異文化間での軋轢が容易に解消されないことに対する欧米側のフラストレーションを一時的に解消するために求められた表現形態。

(同上)

として解説。

結局のところ「何が快楽をもたらすか」は人それぞれであり、極端な動物愛護家は、動物愛護という「正義の遂行」に快楽を見出しているのです。

ただし我々人間には「共有できる正義」と「共有できない正義」があり、動物愛護はどこまでいっても普遍的ではあり得ず、すべての人が共有できる正義にはなり得ません。

そもそも人間は、生物学的には直立二足歩行を契機に狩猟によって効率的にタンパク質を摂取することで脳が肥大化し、いまのホモ・サピエンスに進化したわけで、狩猟を禁止するというのは人間としての本来的な活動を禁止するということ。

ただし、この考え方もだからと言って狩猟を推奨するわけでもなく、動物愛護同様、共有できる正義ではありませんが、わたし自身はこっちの方に愛着を感じます。

つまり誰もが納得できる正義ではないのに、極端な動物愛護運動家は、あたかも誰もが共有できる正義と誤解して他者に押し付けるというその熱心な行動力に「胡散臭さ」を感じてしまうのかもしれません。

以下記事は、最近の事例ですが、今に生きる生物種は約175万種いる一方、なぜイルカ・クジラだけがこんなにも大事にされるのかというと、その歴史的・文化的背景含めた詳細も本書で紹介されていますが、わたし自身は「単純にイルカ・クジラは可愛いから」ではないか、と思ってます。

一方で人間からみて可愛くない動物もいっぱいいるわけで、人間の勝手で「可愛いから大切にする」「可愛くないから大切にしない」という「可愛い」基準で生物種に序列を作るのもいかがなものかと思ってしまいます。

以下、最近の事例ですが、これも一つの正義であって、個人的に否定するわけではありません。

■星野道夫が恐れた「狩猟は野蛮」というレッテル

わたしの地元出身の写真家「星野道夫」のエッセイは非常に面白くて何冊か読みましたが、アラスカを舞台に、極北に住む動物たちに関して、あるいはエスキモーなどのアラスカに住む狩猟採集民に対して、動物愛護とはまた違った、動物や自然に対する視点を私たちに紹介してくれます。

市川市での星野道夫写真展(2022年9月撮影)

彼は、アラスカを舞台にした狩猟採集民文化への魅力に取り憑かれたわけで、それが「星野道夫の快楽」だったのだと思います。狩猟採集民が育んだ宗教的な側面から狩猟を中心とした生活の側面まで、その文化全般に包括的な魅力を感じていたわけで、これも共有できる正義ではありませんが、否定されるものでもありません。

本書によれば、西洋的視点では先住民の狩猟生活は「野蛮」だとして、むしろ「スポーツとしての狩猟こそが高尚な文化だ」みたいな言説も過去のアメリカにはあったそうですが。、これもアメリカに移民したアングロ・サクソン特有の当時の正義。

それぞれに正義があって、どれに序列があるわけではありません。

アングロ・サクソンからすれば、スポーツ狩猟が文化的で生活のための狩猟は野蛮。動物愛護からすれば、どっちも野蛮。アラスカの先住民からみれば、動物愛護だとかスポーツ狩猟などというものは、彼ら彼女らの世界には存在すらしていない。

星野道夫視点でみれば、アラスカの狩猟採集民の文化に快楽を見出しているわけだから、動物愛護もスポーツ狩猟も当然ネガティブということです。

■欧米列強による文化遺産の略奪?

本書でアラスカ先住民のトーテムポールという文化遺産のエピソードが登場しますが、そもそも「文化遺産」という概念は、西洋に啓蒙主義が誕生して近代化が浸透して以降、その一環としてはじめて創造された概念で、近代以前の西洋はもちろん、その他地域では、まさか「過去に生きた人々が遺したモノ・コトに価値がある」などという考えは毛頭なかったはずです。

そもそもハイダ族のトーテムポールを人類の「文化遺産」とみなすような視点自体が、ハイダ族の視点から見れば、西洋の「誰か」によって決められた見知らぬ価値観であり、ハイダ族がその価値観を共有しなくてはならない理由はどこにも存在しない。

本書「三 星野がみたアラスカ:文化遺産という西欧的概念」

なので「過去の遺物には価値がある」と創造した欧米諸国が、エジプトなどの世界各地の文化遺産を収集し、アラスカ先住民のトーテムポールを収集し、自分たちの博物館や美術館、コンコルド広場などの公共の場で保管・展示することを発明しただけのこと。

当時の当地に住む人々にとっては、なんら過去の遺物に価値のあるものではなかったはずです。

日本でも同様で、江戸時代の大衆文化だった浮世絵も、今の週刊誌みたいな位置付けだったでしょうから、見終わったらそのまま廃棄されていたと思います(当時はリサイクルの概念はなかった)。

一方で、欧米列強から見れば「浮世絵」は、立派な文化遺産だったわけで、それが後々に欧米の美術館に保管されたというわけです。

なので個人的には、エジプトなどが西欧各国に対して「文化遺産を返せ」というのは、そもそも当時彼ら彼女らにとって「価値のないもの」が、のちのち彼ら彼女らが西洋発祥の近代文化に染まったことで「価値あるもの」に転換しただけで、だからといって「返却する」というのもおかしな話ではないかと思ってしまうのです(ここは著者と異なる意見)。

以上、それぞれ皆自分の価値観を主語にして他の価値観を「攻撃する」「序列化する」「排除する」というのは歴史的に、いや今でも数多ある現象ですが、基本的にこれらはみな「共有できる正義」ではないので「お互いが共存していくほかない」という「共有できる正義」を受け入れるしかないのでは、ということです。

*写真:南アフリカ、ボルダーズビーチにてケープペンギン(2008年撮影)

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