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「これからの正義の話をしよう」M・サンデル著 書評

<概要>
正義に関する具体的思考実験を読者とともに考えながら、これまでの既存の思想(功利主義、リバタリアニズム、カント、ロールズなど)を紹介し評価しつつ、最後にコミュニタリアニズムの正当性を主張した著作。

<コメント>
本当はプラトン関連著作を読みすすめるスケジュールだったのですが、西研著「哲学は対話する」にいたく感動してしまったので、その流れでコミュニタリアンの主張を勉強すべく、親戚が私にくれたベストセラーをさっそく読んでみました。

が、コミュニタリアニズムに触れているのは最後の2章だけ。

その前の膨大な過去の正義論とその正義論にまつわる思考実験を読むハメになってしまいました。でもさすがのベストセラーで内容自体は非常に面白くどんどん引き込まれる感じで、サンデル先生の主張以外の正義論も具体的な思考実験を自分でも考えながら読み進めるという、読書自体はピュアに楽しめました。

以下、印象的な内容をメモる。

■エマニュエル・カント

動物と同じように快楽を求め、苦痛を避けようとしている時の人間は、本当の意味では自由に行動していない。生理的要求と欲望の奴隷として行動しているだけだ。欲望を満たそうとしている時の行動は全て、外部から与えられたものを目的としている。この道を行くのは空腹を満たすため、あの道を行くのは渇きを癒すためだ。

やっぱりカントで面白いのは、一義的な理由としての理性に基づくピュアな考えや行動以外は邪道だという見解。いわゆる「打算」や「俗な欲望」はだめなんです。

自分の欲望を取っ払って取っ払って、ただただ自分の感性→悟性→理性によって得られたものによってのみ生きる=自律的存在が本来の人間の生きるべき道である

というように、まさに日本の修験道者・禅僧、あるいはインド哲学の解脱のための修行に基づく行動こそ正義だみたいなイメージ。

だからこそ、何らかの行動は一体どのような動機によってその行動を起こしたのか、都度都度自省し、誰もがそうとしか思えないようなあるべき法則(=普遍的立法)に則ってこそ自由な(自律的な)行動といえる、という。

それにしても、なんて疲れる生き方なんでしょう。

*ちなみにプラトンは「肉体から魂を切り離すべき」として似たようなことを「パイドン」でいってますので、カントがプラトン的思考をベースに自ら哲学したのでしょう。

もし私たちが何かを正常に知ろうとしたら肉体から切り離されるべきであり、魂それ自体によって物事それ自体を見なければならない(「パイドン」納富信留訳)

■ジョン・ロールズ

本書だけを読む限りロールズは、まるで極端な結果平等思想のように思ってしまいますが、一般には、まず自由があって、その後に結果不平等を「ある程度」是正するようなルール(マクシミン原理)を持っておきましょう、という考えではなかったかと思います。

しかし本書では、生まれた国や親の経済的・社会的地位、先天的能力はもちろん本人の努力(努力も本人の先天的能力)さえも格差がある限り、正義とはいえないとし、結果平等を徹底することこそ公正だと主張。

以下のような自由を担保するための機会平等(=実力主義)についても「本人の才能」という道徳的偶然性が働いている、といいます。

アメリカは階級や家庭環境を問わず、誰もが同じ場所からスタートするための施策を次々と導入した。具体的にはヘッドスタートプログラム(低所得者の未就学児童を対象とした就学援助制度)、子供のための栄養・保健プログラム、教育・職業訓練プログラムなどだ。実力主義の考えに従えば、自由市場は富の公正な分配を実現するが、それには才能を伸ばす機会が全ての人に平等に与えられていることが前提となる。レースの勝者が報酬を得る資格があるのは、全員が同じ地点からスタートした時だけだ(200頁)。

そして格差の原理とは

格差原理とは、いわば個人に分配された天賦の才を全体の資産とみなし、それらの才能が生み出した利益を分かち合うことに関する同意だ(203頁)

サンデルも指摘しているように、あまりにも極端な結論ですが、サンデルの解釈が他者のロールズ解釈と「極端に」違う以上、これは実際に「正義論」を読んでみないとわかりません。

■アファーマティブアクション

この章は個人的に新たな気づきがあった。アファーマティブアクションの一環として黒人に一定の率で大学入学させる制度の影響で不合格になってしまった白人受験生に関して、法哲学者ロナルド・ドゥウォーキン曰く

大学の使命を定義し、選考方針を定めるのは大学自身であって、出願者ではない。学業成績であれ、運動能力であれ、どの資質を重視するかを決めるのは大学だ。大学が自らの使命を定義し、選考基準を定めることではじめて他の出願者よりもその基準を満たしている出願者に、入学を許される正当な見込みが生じる(225頁)。

つまり、

大学の入学許可が正当化されるのは、それが大学の目指す社会的目的に資する限りにおいてであって、学生の能力や徳に報いるためではない(226頁)。

と、アファーマティブアクションの正当性についての見解を紹介。確かにその通りです。

■アリストテレス

正義は目的に関わる。正しさを定義するためには、問題となる社会的営みの「テロス=目的因」を知らなけらばならない(241頁)

この原則に従えば、

ものの正しい分配を決めるのは、分配されるもののテロスすなわち目的を調べなければならないというのがアリストテレスの言い分である(244頁)

とし、最も優れた笛は、最も優れた演奏者に与えるべき、となります。なぜなら優れた笛は「優れた演奏という目的」のために存在するからです。

■コミュニタリアニズム

やっと本題です。個別にみればコミュニタリアンの主張はとても真っ当で納得です。

コミュニタリアンのマッキンタイヤ曰く

自己についての物語的見解との対照ははっきりしている。私の人生の物語はつねに、私のアイデンティティの源であるコミュニティの物語の中に埋め込まれているからだ。私は過去をもって生まれる。だから、個人主義の流儀で自己を過去から切り離そうとするのは、自分の現在の関係を歪めることだ(289頁)

われわれは時間を生きる存在(西研)である以上、必ず自分の物語を持っています。そして物語が紡ぐ自分の属性はアイデンティティとなって内面化されている。したがってその物語から切り離すのは自己の存在を否定することになります。

例えば、サンデルのいう「忠誠のジレンマ」。今に生きる日本人は、自分が犯した罪でもないのに過去の日本人が犯した戦争の過ちに謝罪する必要があるのでしょうか?

コミュニタリアンの考えにしたがえば、当然「謝罪する必要がある」ということになります。サンデル曰く

帰属には責任が伴う。もしも自国の物語を現在まで引き継ぎ、それに伴う道徳的重荷を取り除く責任を認める気がないならば、国とその過去に誇りを持つことはできない(304頁)

我々は、自分の物語を背負って生きている以上、その物語の恩恵(例えば日本なら、豊かで治安の良い社会)を享受する正当性があれば、一方でその罪を引き継ぐ義務もあるのではないか、ということです。

以上、コミュニタリアニズムも「なるほどな」と思わせる理論ですが、だからといって近代市民社会の原理を否定することはありません。西研がいうように対話の関係でそれぞれの物語をアップデートしていけば良い。問題は相手の物語を排除し否定すること。対話しつつ違いを受け入れることも大切なことだと思います。

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