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「推し、燃ゆ」宇佐美りん著 書評
<概要>
軽度の精神障害を持つ少女が、推し(アイドル?)に人生の全てを捧げることで、生きる実感を得ようとする生き様を、文学的表現によって描写した第164回芥川賞受賞作。
<コメント> *以下「ネタバレ」含みます。
先日読んだ「<普遍性>をつくる哲学」
で「推し、燃ゆ」が引用されていたので、半年前の文藝春秋2021年3月号を電子書籍で再度ダウンロードして、改めて通読。
以下印象的な言葉をメモる。
勝手に与えられた動物としての役割みたいなものが重くのし掛かった
寝起きするだけでシーツに皺が寄るように、生きているだけで皺寄せがくる
人間が人間でいることの面倒くささって確かにあるかもしれません。生きるのが面倒くさくて死にたいっていう人もいます。人間は生き物である以上、簡単に死ねません。本当に死ぬためには相当な行動力が必要です。
なので生きるのが面倒くさい人は、なかなか死ねません。死ぬための行動(=自殺)は、ただ生きるよりもはるかに面倒くさいので。。。
それはさておき、文藝春秋誌上の選評で平野啓一郎氏が
正直に言うと、寄る辺なき実存の依存先という主題は、今更と言っていいほど新味がなく、
と述べているように、存在不安はいつの時代にもあるわけで、今の世の中は推しにシフトするということなのでしょうか。
主人公「あかり」の場合は
推しを推すときだけあたしは重さから逃れられる
ということで、推しを推すことによって生きる意味を見出そうとします。そして推しが少年時代に演じたピーターパンの舞台をDVD鑑賞し、
重さを背負って大人になることを、つらいと思ってもいいのだと、誰かに強く言われている気がする。
またブログでは
推しが感じている世界、見ている世界をわたしも見たい。何年かかるかわかんないし、もしかしたら一生、わからないかもしれないけど。そう思わせるだけの力が彼にはあるのだと思います。
として、推しと深くつながることによって彼女は生きる意味を見出だそうとする。
推しを推す意味は
常に平等で相互的な関係を目指している人たちは、そのバランスが崩れた一方的な関係性を不健康だと言う。脈ないのに想い続けても無駄だよとかどうしてあんな友達の面倒見てるのとか。見返りを求めているわけでもないのに、勝手にみじめだと言われるとうんざりする。あたしは推しの存在を愛でること自体が幸せなわけで、それはそれで成立するんだからとやかく言わないでほしい。
ということであり、
一定のへだたりのある場所で誰かの存在を感じ続けられることが、安らぎを与えてくれるということがあるように思う。何より、推しを推すとき、あたしというすべてを賭けてのめり込むとき、一方的ではあるけれどもあたしはいつになく満ち足りている。
のである。この感覚は
体力やお金や時間、自分の持つものを切り捨てて何かに打ち込む。そのことが、自分自身を浄化するような気がすることがある。つらさと引き換えに何かに注ぎ込み続けるうち、そこに自分の存在価値があるという気がしてくる。
という感覚。そして
推しに囲まれていないと不安だった。ここ数日、この四角い端末が自分の四角い部屋そのものであるような気さえしている。
という心境まで深く没頭する。
結局主人公は、推しが引退することで現実に放り出されてしまうのですが、推しを推すという「ソロ充の快楽」はどんな形であれ、ソロとしての「私」が「生きる意味」を感じられればいいわけで、主人公の場合は、また新たな推しを見つければよいと思うしかない。
*写真:2020年12月 私の推し、井岡一翔WBOスーパーフライ級チャンピオン。
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