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世界があるのではなく、自分が世界を作っている(ユクスキュル)動物学編

動物学的視点でも「世界があるのではなく、自分が世界を作っている」

本書「生物から見た世界」は、ハイデガーの「気遣い」相関図式(竹田青嗣先生命名)のネタ元とも言われています。

ハイデガーの世界観は、世界は存在者の気遣いに応じて構成された実存的な世界。つまり自分の関心と欲望によって自分の世界が生成されるので、これを動物に例えれば、イルカにはイルカの、マダニにはマダニの気遣い(関心のベクトル)とその結果としての用在(道具)で構成された世界像がある、という感じ。

ユクスキュルは動物の見ている世界像を「環世界」と呼び、動物が知覚する世界はその動物にとって何の作用(ハイデガーでいう「用在」のイメージ)があるのか、とリンクして知覚され生成される世界

13章で柏の木の事例がありますが、柏の木は、キコリにとっては「木材」、童話好きな少女にとってはその幹の文様から想像できる「森の主」。キツネにとっては「寝ぐら」、というように主体の享受する作用、つまり関心に応じて柏の木が「何」なのかが変わっています。

NHK「チコちゃんに叱られる」でも、同じような事例があり、人間の環世界の解釈では鳥が卵を温めるのは「自分の子供が健康に生まれてきて欲しいから」となります。

ところが実際には鳥は子供が健康に生まれてきて欲しいから卵を温めるのではなく「卵が冷たくて気持ちがいいから」温めるらしい。鳥にとって「卵は冷たくて気持ちが良い」という「作用像」であって「大切な子供だからではない」。遺伝的にそのような特性を持つことが種の保存につながったということでしょう。

他に本書ではコクマルガラスは動く物体しか見えないから餌であるキリギリスは「じっとしていれば捕食されない」というのもこ人間の見える世界とは違ってコクマルガラスの環世界(第5章)。

などなど、マダニに始まって人間まで、あらゆる生き物の環世界を紹介することにより、動物学的な世界像を提示しているのが面白い。

ただ、その先には「永遠に認識され得ないままに隠されている自然という主体がある(14章結び)」としているのは科学者らしいが哲学者らしくない。

永遠に認識されないままの「自然」はカントのいう「物自体」に通じる概念ですが、そもそも「物自体」はなく「それぞれの欲望と関心に応じた世界像が個別にあり、その間主観的世界像が客観としてあるのみ」と言った方(現象学的世界像)が説得力があると思います。


*写真:那須どうぶつ王国

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