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不思議なキリスト教 橋爪大三郎著 書評

ユダヤ教もキリスト教もイスラム教も同じ神様を信仰していて、その神様の信じ方が違うだけというのは知っていましたが、更に一神教のユダヤ教からキリスト教に至るまでの流れを、対話方式で解説していてこれでやっと「キリスト教とはなんぞや」というのがなんとなく理解できました。キリスト教関連の本を読んでも「すっと」頭に入ってこなかったのですが本書はその根本を理解するのにちょうど良い本だと思います。

面白かったのは、ユダヤ教・イスラム教とキリスト教の決定的な違いで、それは何と言ってもユダヤ教にはユダヤ法、イスラム教にはイスラム法があって守るべき規範が存在するのに対し「キリスト教には法がないということ」。

つまりキリスト教社会では「自由に法律がつくれる」。

福音書は、どこまでいっても(コーランのように)、厳格な法典ではなく、出所も4種類ぐらいあって(ヨハネ、マルコ、マタイ、ルカ)、相互に矛盾するところもあるし、そもそもイエス・キリストの言動を複数の後世の人が取りまとめただけ。

なので詳細については公会議等で話し合いつつ教義を決めていくのですが、ローマ帝国の分裂に合わせてキリスト教団体も東西に分裂してしまう。特に東の方のギリシャ正教は、言語をそれぞれの土地に合わせて複数了解してしまうので、言葉の数だけ正教会が存在してしまう。正教会が複数あれば複数の教義が生まれるのは当然だ(西の方はラテン語のみ)。

一方で西の方は、プロテスタントのような運動も起きてプロテスタントの信仰団体は百花繚乱状態。信仰団体は教会のように上下関係ではなく、進行する個人個人がよりあってつくる団体。だからプロテスタントは牧師で、彼らは指導はするがカトリックのような上下関係ではない仲間としての位置付け(カトリックは神父)。

以上「法がない」というこの曖昧さが時代に合わせて教義を変えていくことにつながるので、その時代時代やその土地土地にマッチしたキリスト教に柔軟に対応することが可能になるということなのです。

例えば、科学的思考は、神が創りたもうたこの世界=神の計画を明らかにしようと、自然の解明の結果生まれたもの、つまりキリスト教の副産物なんであって、キリスト教があったからこそ生まれた思考方法。

「ふしぎなキリスト教」とはよく言ったものです。

*写真:スペイン マドリード 王宮

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