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「私とは何か」平野啓一郎著 書評

<概要>
「私とは何か?」「私とは、複数の分人によって形成された単位=個人である」とし、複数の分人(=キャラ)が、保有する「私」の生き方や解釈の仕方について指南した著作。

<コメント>
「私」をこうやって解釈すれば「よりラクに楽しく生きられるよ」という作家 平野啓一郎さんの提言。なるほど「私」って複数の大小様々な分人が同居している存在だと思えばいいんだな、と思わず納得してしまいました。

これは哲学者千葉雅也の「コード」という概念にも通じるし、わたし的には「虚構」という概念にも通じるので、読んでいて違和感なくスッと自分の脳に浸透していく感じでした。

複数のコミュニティに参画するという、分人的生活をしている人は内集団バイアスにもかかりにくい(以下参考)。

■「私」は「複数の分人」の集合体

興味深いのは常に分人は、他者の分人とのコミュニティ形成によって成立している、という考え方。常に私を形成する分人は、多くは他者の分人とのコミュニケーションによって成り立っている(一部はパーソナルなものはあるかもしれません)。そして「個性とは分人の構成比率(88頁)」で流動的なものなのでどんどん変わっていく、といいます。

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したがって「本当の自分」というのは実体のない幻想みたいなものだといいます。いくら本当の自分を探しても自分は分人の集合体にしか過ぎないので、決して見つかることはない。

ただし分人で気をつけなければならないのは、一つの分人が「私」のなかで寡占化してしまうこと。寡占化して、しまいには一つの分人が独占状態になってしまうと「私」の逃げ場がなくなり、メンタルヘルスに異常をきたす場合があるのではといいます。

育児ノイローゼや仕事の人間関係に生き詰まってうつ病になったりするのは、そのせいだといいますが、本当にそうだな、と思います。

一つの分人に固執せず、様々な自分=分人を使い分けることで一つの分人の行き詰まりをヘッジすることが可能です。

■分断を超えるためには

分人という考えにもとづけば、分断を超える可能性もあるといいます。異なった思想のコミュニティにそれぞれ分人として参画して私の中で共存させ「私」の内部で共存→融合させればよいのでは、といいます(173頁あたり)。

(ただし、著者のTwitterのコメントをみるに、自分の考え方と異なる信条の人たちに対するバッシングが多く、個人的にはみていられません。せっかく本書でいいこと言っているんだから、もうちょっと実践してよ、という感じです。どっかの右翼系の団体にでも加入してみたらどうでしょうか?そうしたら新しい分人が取り込まれて、融合する要素が出てくるかもしれません)

ちなみに私の考えでは、人の価値観には「融合できる領域」「融合できない領域」があり、「融合できない領域」については「お互いの違いを認め合う」ということが必要。具体的には哲学者ヘーゲルのいう「自由の相互承認」。お互いの立場を立場として尊重しあい、自分の立場を相手に強制しないことが肝要です(理解を求めるのはOKです)。

例えば「お互いを認め合う」というのはカトリックが「諸宗教対話」という形で実践しています。

個人的には、山門をくぐれば仏教徒になったつもりで参拝しますし、鳥居をくぐればその神社の神々に祈るつもりで参拝しますし、教会に入ればキリスト教徒になったつもりで祈っています。そして何事も教条的・原理主義的にならないよう努力しています(実際できているかどうかは?マークですが)。

ちなみに融合できる領域とは「自然科学の領域」であり、「生存にかかわる領域」。

■「個人」という概念

個人という概念は、近代的な概念で「individual」。indivijual= in + divijual だから「分ける」という動詞に由来する dividual に 否定の接頭辞 in がついた単語(なので文人とは divisual になるという見方)。

そもそも西洋における個人という概念のルーツは、キリスト教における「神と自分」という「1対1」の関係からだといいます。

全知全能の神を前にして、人間はうそ偽りのない「本当の自分」でなければならなかった(184頁)

からです。しかし、近代のデカルトなどの近代哲学の登場によって、個人は神から独立し、はじめて理性を備えた「個人」としての独立した立ち位置を獲得。

フランスの著名な政治哲学者トクヴィルは『アメリカのデモクラシー』という本の第二巻(1840年刊)でこう記している「個人主義は新しい思想が生んだ最近のことばである。われわれの父祖は利己主義しか知らなかった」(187頁)

と紹介しているように「個人=indivijual」という概念は「近代」が発明した新たな概念だったのです。

本書でも紹介しているように、最近は、進化生物学者リチャード・ドーキンス主張の「利己的な遺伝子」が本来のindivisual的存在ではないか、という考えも普及していますが、生物学的な見方からみるとそれも納得はします。

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