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意志と表象としての世界(2)ショーペンハウアー著 書評

「意志と表象としての世界」第3巻と第4巻の一部を掲載したのが本書。ショーペンハウアーの芸術論(第3巻)と世界観(第4巻の一部)で構成されています。

芸術論はイデアの世界観と芸術の世界観をテーマにペシミストたるショーペンハウアーによるペシミスティックな世界観。音楽を最高の芸術と称して芸術はイデアの世界を認識させてくれるという。

そしてこの意志というものは万物を動かすエネルギーみたいなもので、盲目なるエネルギー。こうやって考えるとR・ドーキンスの「盲目の時計職人(遺伝子のこと)」を想像させる論理で、人間が制御できないエネルギーだからこそ「人間の生は苦悩」という次巻の結論につながっていく。

(1)世界原理(=本体)としての意志の一つの世界観=第3巻
意志が時間と空間を与えられて表象として発現したのがこの世界。そして意志の発現するピュアな世界がイデア。意志という本体(=世界原理)のピュアな姿がイデアなのです。このイデアを表現したものが芸術。このイデアは無根拠・無原因の偶有的な盲目の意志のため、ペシミスティックな概念。

*世界像:表象は、意志(=主観)に時間と空間が加味された世界(=客観)

①意志[=主観=物自体]

②表象[=客観⇄芸術(美)⇄イデア(=芸術の対象であり、物自体の客体性)]

「あらゆる芸術は、イデアを描き出すという点で目的を一つにしている(第51節)」
「美とは、意志一般がその単なる空間的な現象を介して適切に表現されることにほかならない(第45節)」
「芸術の目的とは、芸術の対象を描写することであり、したがって芸術の対象をまず持って認識することが作品よりも先に萌芽として、起源として先立たなければならないが、この認識してから描写する芸術の対象とはプラトンのいうイデアであり、全くそれ以外の何者でもない(第49節)」
「イデアと物自体は、端的に同じ一つのものであるということにはならない。むしろイデアはわれわれにとっては物自体の直接的な客体性であるにすぎない。しかしこの物自体そのものは、意志であり、まだ客観化されてはいない、まだ表象にはなっていない限りにおいての意志なのである(第32節)
「イデアのみが意志の、もしくは物自体の、できる限り適切な客体性ということになろうし、表象という形式下にあることを除けば、イデアは物自体そのものでさえある(同上)」

(2)「現実界=表象と意志の世界」と「解脱界」の二つの世界観=第4巻
第4巻では、明確に意志の世界と意志の外の世界=解脱の世界を分離しています。盲目なる意志の世界から解脱することによってしか人間の苦悩は除外できない。インド哲学のように「輪廻の世界にとどまるのみ」ということ。「この輪廻の世界=意志の発現した表象の世界というのは、苦悩と退屈の世界。なぜなら盲目なる意志が発現した世界だから」という具合になる。

【世界像】
①現実界=盲目なる意志とその表象の世界=苦悩と退屈の世界=自然の王国=個と他の区別がある世界(利己的)

②解脱界=苦悩と退屈を超越した達観・救済の世界=自由と恩寵の王国=個と他の区別がない世界(無私的)

そして盲目なる意志の世界から解脱して永遠の世界(=完全なる無意志の世界)が別にあってこの世界が理想の世界だと謳うのです。解脱するには無私無欲になって他我との一体化を目指すべく聖フランチェスコ(キリスト教の聖人)やインドの行者のように修行しましょう」という結論に至ります。

我欲満載で苦悩そのものともいえる盲目なる「意志」。その意志から発言されるペシミスティックなイデアとその表出たる芸術。

竹田青嗣先生曰く(欲望論第2巻424頁)

ショーペンハウアーにとって芸術とは、世界の絶対的な意味喪失という深い真実についての鎮魂曲に他ならない。

「芸術は芸術でも鎮魂曲としての芸術」というところが私は理解できなかったのですが、竹田先生の解説でやと理解できたポイントです。

*写真:スイス連邦 ジュネーヴ市

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