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世界があるのではなく、自分が世界を作っている

歴史学者ユヴァル・ノア・ハラリの「21Lessons」を読んであらためて思ったのは「世界があるのではなく自分が世界を作っている」ということ。

科学的思考に慣れている我々は、どうしても「モノ=この世界」ありきで何事もイメージしてしまいます。

ところが、よくよく考えてみると我々の世界像は、自分が生まれ育っていく環境(主に人間関係)の中で自分の関心や欲望に応じて世界像が形作られ大人になっていきます。大人になってからも出会いと別れの中で、SNSなども含めて自分の世界像をアップデートしていく。

そもそも自分に関心のないものは、見たり聞いたりしても「感じない」ので自分の世界像には取り込まれません

 科学的思考が世界像だった私は、昔から「なぜ神がいると信じる人がいるのか」がどうしても理解できずにいましたが、科学的思考も宗教も実はみな、それぞれの関心と欲望に応じて作られた世界であって、育った環境やその人がそもそも持っている特性に応じて世界像が異なってきます。たまたま私は科学的思考の世界像だっただけでどっちが「正しい」ということはない。

科学的思考は「事実」として全て世の中が理屈で説明できるような「幻想」を私たちに与えますが、例えば「意識」「未来」「価値(真善美)」などは、科学的思考では説明することはできません。

あえて先に「ものありき」で冷静に考えれば、世界はほとんどが「不可知」であって「偶然」で成り立っています。無限大の偶然の中から必然を科学者が発見して科学的世界像を構築しているのです(心理学者&行動経済学者:ダニエル・カーネマン「ファスト&スロー」より)。

「意識」でいえば、自分のこの意識は自分の外に出ることはできないし、他人の意識も自分の意識からみた意識になるので他人の意識そのものを科学的に解明するのは原理的に無理です。実際我々は、自分の意識の外に出るわけにはいかないので、外の世界は「ほんとうは」どうなっているか?を知ることはできません。自分の世界像はあらゆる人間関係に応じて全て自分の欲望や関心にしたがった自分の感覚器官でピックアップされたもののみによって構成されているのです。

「未来」も、科学的事実だけで世界が成り立っていれば将来は誰でも予測可能のはずですが、誰にも予測できませんしこれからも永遠に予測不可能でしょう。

親と子にはじまった自分の世界像の構築は、例えば私の場合は親→兄弟→親戚→近所の友達→学校の友達・先生→仕事仲間→妻、といったように様々なコミュニケーションを通じてその共通の世界像を見出し、その「コミュニケーションの場」ごとに世界像を切り替えています(欲望論第2巻を参考)。この自分の世界像は、ダニエル・カーネマンのいう「システム1(反射的思考)」や、ハラリのいう「自由意志」のベースになるものなのかもしれません。

例えば目の見えない人であれば、目の見えない人なりの世界像を構築しており、目の見える人とは違った世界像を作り上げています(「目の見えない人は世界をどう見ているか」伊藤亜紗著)。


目の見える人に比べて圧倒的に情報量が少ないために、コンビニで何か買うにしても、ウインドウショッピングでついで買いはできず、あらかじめ何を買いたいか決めておく必要があるという(=目的買いしかできない)。

個人レベルでもその世界像は違うし、健常者や障害者、性的嗜好、文化や民族、あるいは世代によってもその世界像は大きく異なるだろう。

そんな感覚を身につけるというのが、実は現象学的ものの見方ということで「現代思想の冒険」を改めて読み直してみて今感じています。

*写真:トルコ共和国 エフェソス博物館

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