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哲学とは何か 竹田青嗣著 ー本質学編ー


<概要>
「本質学」を提唱する竹田青嗣先生の最新作。哲学の課題を「存在の謎」「認識の謎」「言語の謎」の3つに整理し、ニーチェとフッサールの思想をベースにして、3つの謎に対する答えを誰でもわかりやすく解説した著作。

<コメント>
◼️学問の分類=哲学とは何か
そもそも学問とは全て哲学のことだったのですが、西洋が近代になってから哲学の中で数値化できる領域のみ科学と呼ぶようになりました。残った「数値化できない世界」は引き続き哲学が主に扱う学問だとしています。

整理すると以下のような感じ。

<数値化できる領域>→本書では「事実」と呼んでいる
ビジネス的には「定量情報」として扱える領域。学問的には「量的研究」の領域(194頁)で科学が扱う分野。数値化できるので「誰がみてもそうとしか思えない」領域。科学は基本「仮説」の世界なので、より正確には「地球は丸い」などの「定説となっている科学」の世界です。

数値化できる領域は、哲学専門用語的には存在と認識と言語が一致する世界で、竹田先生曰くの「3つの謎(23頁)」がない、誰もが共通理解できる「普遍的確信」の世界(78頁)

*評価方法:( )内は単位の事例
 率(%)、重さ(g)、長さ(m)、大きさ(m3)、熱さ(℃)、通貨(円)

<数値化できない領域>→本書では「本質」と呼んでいる
ビジネス的には「定性情報」として扱う領域。学問的には「質的研究」の領域(194頁)で、主に哲学が扱う領域。ここは真善美の価値観の世界で個人的にはハラリのいう認知革命の「虚構=価値観スキーム」領域のこと。

政治信条・宗教・神話などの各種信念も、数値化できない本質の領域を扱う考え方です。

本質の領域は価値観の領域なので、誰もがそうだとは思えない領域で決して一致することはありません。一部の人の間だけで共通理解できる「共同的確信」の世界があるだけです(78頁参照)。したがって様々な信念対立が起きる世界。

*評価方法
 良い・悪い、正しい・間違っている、きれい・きたない、すき・きらい

最近は心理学や脳科学などで価値観の世界もだいぶ科学が踏み込みつつありますが、傾向値として数値化できる部分はあるでしょうが、一部のみにとどまり、決して解決することはないでしょう。

なぜなら論理構成には必ず不可視領域である「心的領域」を含まざるを得ないからです(187-189頁)。心は「対象化されるもの」ではなく「対象化する主体そのもの」だから原理的に説明不可能な領域なのです。言い換えれば「心的領域」は、科学にとって最も重要な、仮説の確度を担保するための再現可能性が低い領域だからです。


これはユヴァル・ノア・ハラリ(歴史学者)やスティーブン・ピンカー(認知心理学者)、ダニエル・カーネマン(行動経済学者)、池谷裕二(脳科学者)なども同じようなことを言っています。とはいえ個人的には人工知能含め、ここのクロスオーバー的な部分に非常に興味があって勉強を進めています。

*ビジネス的には、定量情報よりも定性情報の方が重要だとしているコンサルタントもいますし、最終的に判断するという行為も「より正しい・より良い」として定量情報を活用しつつ、定性情報として最終判断していくものなんですね(詳細は以下書籍「センスメイキング」)。


◼️哲学の分類
哲学を再整理して「本体論」「相対主義」「本質学」に3分類し、「本質学」だけが普遍的な認識方法を展開できる哲学だと主張しています。

<本体論>
本体論とは、絶対真理(本体という)を大前提にして論理を展開する哲学のこと(51頁)。

カントの物自体、スピノザの汎神論としての世界、ヘーゲルの絶対精神など、生成変化する現象の背後にある、世界の絶対的な真実在=「本体」を出発点にした思考方法なので「誰もがそうとしか考えられない普遍的な認識方法」にはなりません。

広義で言えば宗教も同じ構図です。何らかの任意の前提(神、天=本体)をおいて説明する信念なので、本体論における「本体」と「神」は同じイメージ。

*最近話題のマルクス・ガブリエルやカンタン・メイヤスーなどが展開する新実在論も、思弁によって世界の存在=本体とみなす「本体論」として、第4章で批判的な解説が掲載されています。

<相対主義>
相対主義は、この世に「普遍的論理」は存在しないという思想

ギリシア時代の詭弁論者「ゴルギアス」から続く系統でポストモダンなどの主要な現代思想の考え方。以前から竹田先生は「現代思想は相対主義」だとして批判していますが、本書でも第4章に詳細が載っています。

実際に私は、デリダやフーコー、ドゥルーズなどの著作を読んだことはないので「らしい」でしか判断できませんが、本書や竹田先生の他類書によれば、ポストモダンなどの現代思想・言語哲学は、これまでの哲学批判に終始して「どんな哲学も論理破綻している。だから普遍的論理はない」とする相対主義を展開。

一方で例えばデリダなどは社会理論において「贈与」という「本体」を持ちだして本体論的展開をするという。デリダ含むポストモダン思想は難解で読むのは大変らしいですが、私も検証的意味合いで、いずれトライしてみようと思います。

<本質学>
本質学とは、普遍的な「WHAT=絶対的真理」に基づくのではなく、普遍的な「HOW=認識の方法」に基づいて論理を展開しましょうという哲学

ニーチェ、フッサールの考え方を応用して、哲学の3つの謎「存在の謎」「認識の謎」「言語の謎」は、本質学によって解明できるとしています。その解明方法は本書を読んでのお楽しみですが、本質学に基づく仮説の立て方は以下の通り。

①いったん一般論・常識から離れる
②あるテーマに対して自分の経験に基づき「誰もが納得できる仮説」を自分で考えてみる。
③その上でグループで議論して「テーマについて最も説得力のある共通の説明方法に基づく仮説」を取り出してみる。

この仮説が本質学に基づく「仮説」になるという考え方です。

科学の場合はエビデンスとしてのデータに基づいて再現可能性のある仮説を立てますが、本質学の場合は、数値がないので「各人の経験に基づく内省に基づいて最も説得力のある共通の仮説を立てる」という考え方です。

また本質学上の仮説は「誰もが参加できる開かれたテーブル」の中で不断にアップデートされていくという信念検証的思考形式をとるので「永遠性」「絶対性」はありません(170頁)。

本質学を科学的にいえば「誰もが再現可能性のある=納得できる仮説」を生み出す考え方ということ。したがって「誰も」の「誰も」が違えば結果的に複数の仮説が生まれることになり、自然科学のようにいつの時代においても通用する「何か最後の真理」が提示されるわけではありません(172頁)。

とはいえ、自分がお気に入りの「恣意的な前提」をおいてデータを集め(確証バイアスですね)、自分の信念を補強するのではなく(194ー195頁)、本質学の趣旨に則り、常に開かれた形で「積極的柔軟性(フィリップ・E・テトリック)」によって多様な視点を大切にし、説得力のある新しい仮説を取り込んでいく姿勢が大切だと私は思っています。

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