駕籠に乗る人担ぐ人 そのまた草鞋を作る人
これを聞いたのは高校時代、同級生の親からだった。
入学式の日に父が他界し、灰色で始まった高校生活だった。父は厳しかったわけではないが男親がいなくなり、母も張り合いを無くすなか、自分はグレようと思えばその環境は整っていた。要素はいくらでもあった。遅く帰っても叱られることはないし、場所柄、暴走族も多かった。だが、いわゆる「不良」にはならなかった。なれなかっただけなのかも。
それでも原付免許はすぐに取った。「スクーター」なんてほぼない時代。中古バイクに乗って134号線をあてもなく何往復もした。高校では学校にプールもないのに水泳部を作って運動していた。そのなかのある部員の家が何となくたまり場になっていった。そこの家のお父さんはあまり記憶にないが、お母さんが「肝っ玉系」でいろんなことを話してくれた。どういう話の流れだったのかは覚えていない。だが「駕籠に乗る人担ぐ人 そのまた草鞋を作る人」のハナシになった。
こういう話の時、駕籠に乗る人の立場の話になることは100%無い。「担ぐ」か「草鞋を作る」のどちらかの立場の話で、いろいろな職業があり、その立場を受け入れるのは悪いことじゃない、というのがこの話の肝だ。
高校生当時、将来どんな仕事に就きたいかというようなハナシの流れだったのかもしれない。自分はアホだし金もコネもないしといった未来の展望のないハナシの時に諭してくれたのかもしれない。
「職業に貴賎なし」というが、思い切り貴賎があるからこそ、差別を戒める言葉が存在するのだ。アメリカの「自由の国」の意味するところは広いが、残念ながら差別する自由があることも2021年の現在でも思い知らされる。
さて、駕籠に乗る立場にはなれず、担ぐ体力がもはやなく、草鞋を作る技術を持たない自分はさて、ナニをどうしていこうか。
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