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【掌編】『風の記憶』

 または『きらきら(2)』


 時々、脳みそが揺さぶられて目がチカチカするような不思議な感覚を思い出す。今、目にしているものに誘導されるように、それは思いがけず不意に湧き上がってくる。

 生まれた街。そこは港のある程々の大きさの街。途中にバス停がある坂道。眩しい午後の日差し。埃っぽいコンクリート道路の白さ。

 バスの窓から身を乗り出すようにして手を振る母。泣きじゃくる幼い僕。僕を後ろから抱きかかえる叔母。従弟のコージが生まれる前のおばちゃんだった。

 走り去り見えなくなるバス。通りを吹き抜ける風。

 いつまでも薄まることのない記憶。

 しずかと同棲を始めて半年が経っていた。

「じゃあ行ってくるね。ご飯は炊いてあるし目玉焼き作ってあるから」
「ああ」

 ベッドに転がっている僕の頬を左手でさすると親指で目の下をなぞった。玄の顔が目の前まで近づいて来る。
 僕は、ちょっとふざけてキスをせがむように唇を尖らせる。それは簡単に無視される。目の下の親指は唇に移動するとそれをぐにゃぐにゃにしてもてあそんだ。

「もう行かなきゃ」

 玄は同い年。高校を出て直ぐ上京してきたのも同じだ。堅い商社に勤めているけど全くそうは見えない。顔が派手だからって言うと「何なのそれ」っていつも怒る。しょうがないから勝手に自分だけそう思うことにする。

 浪人生の一日は、怠惰に過ぎていく。言い訳などしようとは思わない。

 二度寝して起きるともう午後だった。起き上がってベッドの端に腰掛け、煙草に火を付ける。その日は初めから予備校など行く気も無かった。もう今更、受験勉強なんてする気も無かったからだ。その日に限った話ではないのだが。

 とりあえず玄が作り置いたちゃんと二つの目玉焼きで腹を満たし文庫本を読みふける。西日暮里駅から谷中に向かう通りを少し行って路地に入った所にあるワンルームマンション。ここを勝手に隠れ家にしている諜報部員に成りきって煙草に火を付ける。今、読んだばかりの小説に影響されている。
 外に出るともうTシャツ一枚ではさすがに肌寒かった。ヨレヨレのジーンズにビーチサンダル。高校時代の友達にある言葉を言われたばっかりだった。「お前それって立派なアレじゃん」アレって言うのは、物を縛ったりする細長いアレだ。

 ぶらぶらと谷中まで歩く。路地にうずくまる猫を呼んでみるが寄ってこない。こんな人間と遊んでもつまらないからそれでいい。「谷中ぎんざ」と書かれたアーチへ向かって階段を下りる。すぐ脇にあるジャズ喫茶から漏れてくるピアノトリオの音。ちょっと贅沢なBGMだ。階段の手摺に寄りかかって夕焼けまでの一時をぼんやり過ごすのは暇つぶしとしては全く悪くない。

 三本目の煙草に火を付けた頃、逆光の中から誰かが近づいてきた。ビジネススーツの女性だ。

「タカじゃん。何してんの」玄だった。
「そっちこそもう仕事終わったの?」
「うん。終わり。ちょうど地下鉄あったからこっちから来た」

 一緒に階段をまた上って日暮里駅の方へ歩く。谷中に居て心地良いのは、お寺がそこかしこに在るからだ。風が通りを吹き抜ける。

 フラッシュバックだった。その風のせいだ。
 一瞬にして悲しくて堪らない不思議な気分になる。眩暈がしてその場にしゃがみ込む。

 幼い頃、叔母の家に預けられていた。叔母は毎日のようにお寺参りをしていた。熱心な信徒だった。すぐ近くにあったそのお寺が僕の遊び場だった。小高い丘の上にあり、境内から街が見渡せた。ずっと遠くで海がきらきら光っていた。夕焼けが綺麗だった。夕焼けの歌を聴くと、決まってそのお寺で見た夕景を思い出す。

「どうしたの。気分悪いの?」
手を伸ばして玄にすがりつく。

「暫くこうしてて」
「わかった」
 西日暮里で暮らすようになって頻発するようになった。どうしてなのか、いつも玄と一緒の時に起きる。

 目眩がおさまって玄を見上げる。
「晩御飯、何食べたい?」
 玄は、料理が得意で何でも旨い。
「カレー」
 立ち上がりながら答える。中でも僕が特に好きなのはカレーだ。市販のルーを使わない手作りカレーは絶品だ。なんでも、ネパールの家庭の味らしいがいったいどこで覚えたのか。

 玄をもうこんなに好きになってしまった。
 早くしなければ……。それが頭から離れなくなっていた。
 どんなふうに別れを切り出そうか。

 振り返ると夕焼けが綺麗だった。

 ずっと遠くでビルがきらきら光っていた。


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