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【掌編】『スコーピオ』
洗面所の大きな鏡と向かい合わせにしてもう一枚の鏡を後ろの棚に置いた。
合わせ鏡ができるとその間に洋子と二人で入り込む。
画像を映して鏡の中に仮置きされた光がそれぞれの網膜に届くと同時に、それは合わせ鏡の間を光速で行き来する。そして無限に続くと思われる空間を作り出し、何組もの僕と洋子を合わせ鏡の中に発生させた。そこにいて今、僕らは、無邪気にはしゃいでいる。
ぎゅっと抱き合ってみたり洋子の鼻を摘まんでみたりする。可笑しなポーズで鏡に映るのはシンプルで楽しいものだ。子供のころにも同じようなことを感じたことがあった気がしてふと懐かしい思いが頭の中をよぎる。
今夜二時ちょうどに満月となる。それに加えて僕ら蠍座の二人にとって最善のポジションで星々が並ぶのだ。
その瞬間にキスをしたらどうなるか。合わせ鏡の中に無数に存在する僕ら。これは洋子が真剣な目でそう言ったのだが、その中の誰かが何かを起こすかもしれないし何かを言うかもしれないのだ。
二時まであと五分。
どうしてこんなことをしているのだろう。蠍座どうしで惹かれ合った宿命なのか、それとも満月の夜だからか。
二人で未来を占うのは楽しい。占いとは、すなわち調査と分析だ。僕はホロスコープで彼女はタロットカードで何時、何をすべきかを綿密に調べるのだ。
十秒前、ぴったりと抱き合い右手を洋子の頬に添えると長いキスをした。
「ミャウ」
突然の出来事だった。猫が洗面台に飛び乗った。飼い猫のピートだ。これは想定外の事態だった。合わせ鏡の中の連続する像はピートが加わると捩じれて歪んだ。まったく何がおきるのか計り知れない。猫のホロスコープなど調べていないからだ。
「俺も蠍座だ」ピートが発したメッセージだった。
結果的にそれは今起ころうとしていた事象に対する強大なブースターとなった。
長いキスだった。洋子とのキスはいつだって魔力を充填するために必要な儀式なのだ。
二時ちょうど。
合わせ鏡が砕け散る。両側から破片が飛び散り僕らの肩を直撃した。
しんとした洗面所をガラスの破片を避けて抜け出る。
全てが終わったようだった。カーテンを開けると満月が煌々と輝いていた。
不思議なことに二人とも肩に切り傷ができていた。それはお互いのイニシャルのように見えた。僕の肩にはYに見える傷があったし洋子にはTと刻まれていた。
僕らは縺れるようにどさりとベッドに倒れ込むとお互いの傷を舐め合った。滲んだ血には蠍の毒が混じっている。舌先が少し痺れた。
やがて眠りについた。
僕と洋子とピートに必要なのは、月の光とほんの少しの蠍の毒。
そしてワイン。
目覚めた時には、新たに属する世界への移動は終わっていることだろう。
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