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一枚の自分史:他力の風に吹かれて

 一九九八年(平成十年)四月十九日の卒業三十周年の同窓会(於:天王寺都ホテル本館)写真は天王寺の居酒屋で 三年一組の仲間だけが残って流れた三次会。
 当時は四十八歳、阪神淡路大震災の3年後、同級生の身にもいろいろ起こっていた。
 おりしも、お気に入りの作家の五木寛之氏の「大河の一滴」が出版されて話題になっていた。コロナ禍の今、また話題になっていることも不思議なめぐりあわせを感じている。
 
 みんなまだ若いつもりでいるのが可笑しい。すでに卒業して三十年の月日が流れている。人生の後半に向かっていることに気付かないでいた。確実にそれぞれの歩んできた人生が面差しに影を落としつつあるようだった。それは私も例外ではなかった。
 
 着ていく服に悩んでいた。写真でも、私の肩広のジャケットはひと際目立っている。九十年代の肩に大きなパットを入れたファッションはすでに古いデザインとなっていた。この時代は二人の子どもを私立の高校と大学に行かせていた。教育費が最も嵩む世代だった。そうか、同窓会のために服装を新調する余裕はなかったんだ。
 
 三次会になって初めて担任のA先生の欠席に話題が及んだ。これまでの同窓会には必ず出席してくださっていた。在校中は苦手な英語の先生ということでどうも先生のことまで苦手になっていた。卒業して、少し人生が進むようになってはじめて恩師としてリスペクトし近しく思うようになっていた。先生は舌癌を患われて、とても重篤な状態らしいと聞いた。しかも、いつもお世話をしてくれる同窓会クラス委員さんも不在だった。入院中だという。お酒が進むなか、みんなでお見舞いに行こうと盛り上がる。私にその世話を押し付けてくる。そう感じていた。
 その頃の私は、超が付くほど多忙で、常に仕事や雑事に追われていた。たぶん、ここに写っている中で一番多忙を極めている。そう思いこんでいたのだ。
 重篤な状態なのに、みんなで押しかけるのはいかがなものか、入院しているところに、女性にとって同級生の見舞いは迷惑でしかないだろうなどと、行かない理由を捜して断った。そして、その話は立ち消えになった。というか、もみ消した。
 
 その次の新年、必ず返信を下さった先生から年賀状の返信はなかった。そして、お世話役の彼女の訃報もほどなく届いた。後悔しかなかった。そのことが、人との係わり方を変えた。もう、苦い後悔をしたくなかった。だから、決めた。
 その頃、読んだ五木寛之氏の「他力」にあったように「他力の風」に吹かれて生きる。全てのご縁を大切にして生きていく。そう決めて、この二十年。他力の風に逆らわず、自分に回ってくるお役目はすべて引き受けてきた。
 
 そうすることで多くの人と出会った。そして私の人生は常に大きなものに守られてきた。多くの人との出会いで私の人生はできている。たくさんの係わってくださった方からいただいた恩を次の世代に送っていく、「ツナグ」ことが私のゴールのようだ。誰かと一緒なら必ずできるそんな気がしている。
 どうか、どうか、まだまだお付き合いいただけたらと、そう思っている。



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