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一枚の自分史:珈琲とブランコ

一九六八年三月、十八歳、高校を卒業して大学生になる春休みに初めて一ケ月ほどアルバイトをしたのが大阪城公園の入口森ノ宮にあった大阪東労働基準監督署だった。
級友の父が、こちらの監督署の所長さんだということで級友を通じてアルバイトしないかと声をかけられた。
私大の入試が終わって合格発表があったのが二月、四月の入学式まではずいぶんと時間があった。どんな仕事をするのかもわからずに憧れの仕事経験に一つ返事で応じた。

いざなぎ景気と呼ばれる戦後最長の高度成長時代の好景気が続いていた。日本文学の代表者として川端康成がノーベル賞を受賞して、「竜馬が行く」、「どくとるマンボウ青春期」がベストセラーになった。
 
世の中の仕組みも知らず、労働基準局というのがどういう役割をしているのか全く知らない、高校を出たばかりの私にどんな仕事ができたのだろうか。労働災害という言葉も知らない私に与えられたのは労働災害があった事業所から送られてきた療養補償給付請求書類の確認をする作業だった。重箱の隅をつつくような作業を要求された。

なぜ、何十年も昔の書類のことまで覚えているのかというと、私は、定年退職するまで総務、人事部で実際に労災関係の仕事もしていたからだった。
生まれて初めてのアルバイトが労働局の管轄のお役所だったことは不思議なご縁を感じている。
すべての書類が私の退職時にはPC仕様になっていたが、そうなって10年そこそこだった。それまではすべて手書きだった。

さすがに大阪市東区といえば、大きな事業所が林立する地域で、毎日のように山積みされた書類を正職員の女性と一緒にチェックした。
特に労災の原因と発生状況は誤字や脱字があったり、捺印漏れや不明瞭な部分や理屈に合わないことがあれば確認が必要になった。
間違いや漏れを見つけると
「事業所に電話をかけなさい。訂正印をもらって修正し、捺印漏れは捺印しに来るように、来れない場合は突き返していいです」
私がおどおどと恐縮して電話をしていると、必ず言われた。
「もっと、偉そうに言いなさい。遠慮はいらないから」
そう言われてもできなかった。
彼女は係長で責任者だったが、とにかく上から目線の言葉使いが嫌だった。
働いていて違和感があった。

時々、昼休みに弁当を食べ終わると署長に大阪城の見える珈琲館に連れて行ってもらった。私一人では話が続かなかった。関学生のアルバイトの先輩がいた。賢くて綺麗で大人の雰囲気を持っていて憧れの存在だった。その人も一緒だった。
BGMで映画音楽がかかった。署長と先輩はその曲の話をしていた。私にも聞いたことのある曲だったが話には入れなかった。毎回、苦いコーヒーを無理して飲んだ。

国公立大の入試が終わって、級友はすぐ近くにある労働局でアルバイトを始めた。監督署ではアルバイトは足りていて同じ職場とはいかなかった。
昼休みになると、監督署の裏の公園ににやってきて桜の下でブランコを漕いだ。私も出て行って一緒にブランコを漕いだ。はらはらと桜が降る中をギリギリまで話してから午後の仕事に戻っていった。
彼は父親のことが好きなんだなと思った。署長は私が入学する大学の先輩だった。父親の角帽でマントで下駄ばきの学生時代のことをいろいろと話してくれた。それ以外にどんな話をしたのかは全く覚えていない。
私は桜の吹雪く中を駆けていく級友の後ろ姿をしばらく見てから持ち場に戻った。


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