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或いは闇鍋

最近、気が付くことがあって、記録のためにここに記しておく。

百合、または神について

このところ作業量は大したことがなくても精神的に気を張らなければならない場面が多く、その所為か神経が摩耗している感じがある。日頃より神経細胞の集合体を扱っている身として「神経が摩耗」という表現を使うとどうにも痒い感じがして(i.e. 誤用とされている慣用句の使い方を敢えてしたときのような違和感)気持ち悪いのだが、他に上手く言い充てることができないので仕方ない。

そんな折、近年合衆国の属州となった日本に本国から提供され始めた次世代型インフラであるところの”Amazon Prime Video”にて、『ゆるゆり』を視聴することが日課となっている[1]。勤勉なる同胞に対し今更基礎的な講釈を垂れる余地は無いと思われるが、念のため説明しておくと、女子中学生が有機的に結合する様を延々と眺め続ける動画である[2]。原作は”なもり神[3]”というメソポタミアを起始として発展した宗派の唯一神によって紡がれた聖書の一遍であり、聖書をアニメ化するという前代未聞の取り組みによって当時の制作会社は大きなリスクとリターンを背負ったとされている[4]

何故ゆるゆりなのか。ゆるゆりは百合漫画界において入口であり且つ頂きでもあると言われている。さながら百合漫画界の富士山といったところだ。百合漫画の歴史の中でも、ゆるゆり以前 / ゆるゆり以降 が語られるほど後発の漫画に影響を与えており(by Wikipedia: ダ・ヴィンチ2018年2月号)、今なおその歩みを止めていない。百合初心者に間口を広げつつも、百合のトップジャーナルの1つであるところの『コミック百合姫』にてダントツの人気を得るなど、素人から玄人まで幅広く愛される作品である。そんな作品を毎日視聴すべき理由は健康に良いからとも寿命を延ばすからとも言われている。

ゆるゆりの「ゆる」さは、その箸休め的な作風もさることながら、「カップリングを固定しない」という方針の”ゆるさ”も一つの特徴として作品を形作っている。百合漫画に限らず、世の漫画の多くはキャラが1対1対応、乃至は複数対複数でのある種固定化したカップリングを組みがちである。登場人物を印象付けるためには単純化はある意味必要なことではあるが、実際の人間関係はそうカッチリとは決まらないものだ。AがBを好きだとして、いつもAとBが絡む話だけでは広がりに欠けてしまうし、リアリティがない。Aが気まぐれでCにちょっかいを出すかもしれないし、BはDの友達のEと距離を縮めたがっているかもしれない。自然の摂理を考慮するならば、登場人物が増えるごとにカップリングパターンも増加して然るべきなのである。ゆるゆりにおいては、ごらく部の4名と生徒会の4名を軸として実質全員のカップリングを想定できるため、8C2=28通りの組み合わせ(+その周囲の人物でさらに複数通りの組み合わせ)を生み出している計算になる。これがなもり神による宇宙の開闢である。

さて宇宙も始まったことだしそろそろ別件について触れていきたい。

闇鍋、または有機的な結合

最近、スッポンを捌くイベントがあり、それに参加してスッポン鍋を食す機会に恵まれた。スッポンは近隣の川で先輩方が釣り上げたものであり、甲羅は実にA4コピー用紙程度の大きさの立派なカメだった。基本的に釣ったものはなんでも食べる方針の先輩に捕まった彼(捌いていく過程で精巣らしき部位がみつかったため雄であることが判明した)は、研究所内の一室で丁重に飼育(泥抜き)され、来るべき日に鍋にされることが決まった。

これも自明な事柄であるが、スッポンはかわいい。愛らしい鼻、つぶらな瞳、そして何より柔らかく平たい甲羅、、およそカメ類の中でも抜きんでたキャラ立ちである。キャラ立ちの神が造形したとしか思えない。私は職業柄、対象への愛着や感情を切り離して屠殺を実行できるが、多くの人間はそうではないことを理解している[5]。スッポンを美味しく食べるには泥抜きが必要なのは理解しながらも、1週間も共に過ごしては「危険」ではないかと思っていた。

スッポンの飼育が開始されて数日経ってから、彼が幽閉されている居室に様子を見に行った。彼は餌こそ与えられていなかったが、同室の女性の先輩に名前を付けられていて、これは「時間の問題」だろうと思われた。釣り上げた当人の先輩まで「カメ太郎」と呼ぶのでとうとう堕ちたかと驚いたが、「食べるカメは皆同じく”カメ太郎”と呼ぶ」とのことだったので安心した[6]

1週間ほど過ぎて、とうとうXデーが来た。

スッポン鍋会は、単なるスッポン鍋会には終わらなかった。スッポンを釣った先輩は「ブルーギルの泳がせ釣りで釣った」という大きなブラックバスを持ってきていた。さらには、1年間冷凍庫で寝かしていたというミシシッピアカミミガメの肉まで持ちだしてきて、もう何かよく分からない狩猟採集民族の宴のようなものが始まった。

何はともあれスッポンを〆なければならない。麻酔は使えないので、首をガッと掴んで伸ばしたところをバツッとひと思いにやらなければならない。スッポン氏も異常に勘づいているようでやられまいとばかりに首を伸ばしたり縮めたりして抵抗するので、介錯は容易でない。最終的に、私がフィッシュグリップを噛ませて頭を引っ張り出したところを先輩が一太刀…いや三、四太刀いった後に鋏で頸椎を折ることで何とか〆ることができた。〆るだけでも大仕事だったので、そのあと種々の調理やら解体やらが待ち受けていることを考えると頭痛がした。

断頭後も首はしばらく動いていた。それを見ながら、「もっと上手く〆れたのではないか」という考えがずっと巡っていた。見る人が見れば凄惨極まりない現場で、とてもこれから食事をするような雰囲気ではないのかもしれないが、私の内部では死んだものはすっかり”モノ”のカテゴリーに入ってしまっていて、格別それに対する感傷は沸かず、それよりも死の直前の生きている状態に対してもっとマシな死を与えられた可能性を模索してしまう。

皆で首を見ていると、首が落ちて動いているこの状態は死んでいるのか、それともまだ生きているのか、という話になった。ヘビは首だけになっても噛みつくらしい、ということを同期が言っていて、それは反射で噛みつくのか対象を見分したうえで意思を伴って噛みつくのか気になったが特に問い質さなかった。水中で生活するような、筋肉中に酸素を蓄えることができる生き物は血の循環が停止してもしばらく細胞が生き続けるのではないか、と別の先輩が話していた。ヒトの場合はどうなんだろう、とまた別の先輩が言った。意識が失われた瞬間が死なのだろうか、だが神経細胞が死んでいっても他の細胞はしばらく生き続けているだろう。スッポンの心臓も、取り出された後ずいぶん長いこと動き続けていた。カメは心臓が強くてなかなか止まらないんだよ、とさらに別の先輩が教えてくれた。この心臓が止まったときがスッポンの”本当の死”なのだろうか。死を決めるにあたって”生きている細胞(或いは器官)が何割死んだか”を閾値に定めることは意味ある行為だろうか。生がなだらかに引き延ばされた死であるのと同じように、死という瞬間も同じように引き延ばされていて、いつか完全な死が訪れるまで生き続けている(=死に続けている)、ということなのかもしれない。我々は死について何も理解していないのに、やがてみんな死ぬというのはどうにも据わりが悪い、と思った。言わなかったが。

食卓にはスッポンの鍋と、バスのフィッシュアンドチップスと、アカミミガメのから揚げが並んだ。見事なものでどれもそれなりに美味かった[7]。調理時間が長かったのでその間いろいろな話をしたが、私の周りの人間関係というものもそれなりに有機的なのだと思われた[8]。背景の違う人間がそれぞれ違った知識を持ち寄って、一つの大きな目標(=スッポンを鍋にする)に向かって取り組むと、想像を超えたものが出てくることがある。言葉にすると陳腐だが、実際目の当たりにしてみると人間が群れを為すことで発展した理由が実感できて面白い。スッポンに名前をつけていた先輩が問題なく鍋を賞味している様など、実に意外で興味深かった。人間は、互いに組み合わされることで新奇なるものを発現するようにできている。人類総カップリング計画、或いはカップリングの闇鍋、ホモサピのごった煮、そうして組合せ爆発を起こした世界はまた新たな宇宙を生み出すわけである。

めでたし。


[1] Amazonは日本における法人税の納税義務から逃れているという話があるが、これは誤解であり、寧ろPrime会員から徴収した年会費を本国における税金として代わりに上納してくださっているのである。NHKのようなものなので正当な理由なく支払わなければ次は法廷で会うことになる。

[2] 何か難しい関係について述べたい際には有機的と表現しておくと角が立たない。五輪のシンボルが有機的に繋がっているのはそのためである。

[3] 唯一神の宗教では珍しく、ヒト型ではなく多足・球形という異形の神である。手足が多いことでホモサピの限界を超えた速筆を成し遂げているとされている。クラゲに似ている。

[4] これまでも聖書の映像化に挑戦したものはいたが、捻じられた死体となって発見されたり、不死の病に罹患したり、快楽と命の等価交換をさせられたりして失敗に終わった。ゆるゆりの映像化は、それでも人類を未知の新大陸の挑戦へと駆り立てたのである。

[5] 完璧な仕事こそが生命に対する最大限の手向けである、という先輩の教え(意訳)をタトゥーにして心臓に彫っているので、感情を押し殺しているのではなく真心を込めて実行しているから堪えられるのだということをここにはっきりと断っておきたい。この点を勘違いされると意味が違ってきてしまう。

[6] 安心などしていない。こんなに怖かったことは初めてでした。

[7] ??「スッポンうめぇ!」

[8] 有機的、という言葉も、有機化学をやっている人間からすると得も言われぬむず痒さを生じたりするのだろうか。するのだろうな。

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