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Laboratoire/ラボラトワール

"Laboratoire/ラボラトワール"
フランス語で研究室のこと。
或いは実験室、製作室。
英語なら、Laboratory/ラボラトリー

どちらも略して
"Lab/ラボ"と呼ぶこともある。

……
とある国の、とある街。
淡く黄みがかった"練色(ねりいろ)"の
石壁の外観が美しい8層から成る、
集合住宅。

建物の正面に位置する5段ほどのステップを上がった先、背の高い重厚な造りの
"鳶色"或いは"消炭色(けしずみいろ)"をした木製の両開き扉が目を引く。


重い扉のその向こう。
エントランスホールから続く、踏面の角まで滑らかに磨かれたマルブル石の階段を
反時計回りに3層分上って行く。

"ピターーン… ピターーン…………"
静かな館内に靴音がこだまする。

上り詰めた先、踊り場の開けた空間。
突き当たりには、メタリックシルバーの扉が近代的なエレベーター。
それを挟むように、その両サイドには、
天井にまで届きそうな木製の両開き扉が左右にひとつずつ、お互いに向き合うようにある。

右側の方の扉をそっと開くと、
少し遅れてどうにか反応した人感センサーのおかげで、真っ暗だった行く先の
"薄墨色"の床材を、灯りが照らしてくれると、戸惑うことなく進んで行ける。

"シン………………"として、
陽の入る隙さえ無かったその扉の奥の、
乳白色の壁に囲まれた小さく開けた空間は、やや"冷んやり"としている。

眼の前には、"無垢材の素地"そのままを生かして仕上げたような"簡素"さと、
真鍮製の把手と鍵穴、新聞受けのフラップを除いては、一切の"華美な"装飾を削ぎ落とし"ミニマルな美"だけを備えた佇まいの玄関ドアーが、まるで"一卵性"の如く全く同じ顔をして3つ並んでいる。

もしも慌ててしまっていたならば、間違えてしまいそうなほど。

その"差異"を見分けるのは、
よく目を凝らさないと見落としてしまうほどに小さな部屋番号。

"A38"

ここでは、ある一人の住人が
プロの料理人とはまた違ったベクトルでの洗練を、日日静かに深めていた。
……



" Laboratoire  A38"

そこの住人の彼女は、A38号室の台所を
"ラボラトワール"敢えてそう呼ぶ。

わたしが初めてこの場所を訪れたとき、
彼女はわたしにその理由だと言って、
彼女が以前とある媒体に投稿したという
こんな"エッセイ"を見せてくれた。



……

わたし(彼女)は、台所に立っている時間が好きなのです。

台所に立っている時間が好きだというと、大抵はイコール"料理をする事"そのものが好きなのだと捉えるほうが自然かと思う。

もちろん、それも嫌いでは無いし、好きな時間にはその作業も"必然的"に含まれることになるのだけれど、
わたしが台所に立つ時間の中で
"普通に料理をする"事以上に愉しんでいる作業がある。

ここで言う"普通に料理"……とは、
人伝てに、或いは何かしらの媒体で得たレシピを基にしてそれを忠実に、
"再現"しようとする作業のこと。

けれどもわたしが愉しみ、好んで過ごす時間は、レシピに依る忠実な料理の再現のその"一歩先"にある。
或いはそれとは別に、レシピに依らない
"再現"もその愉しみの一つ。

前者は、一度目は"基礎"としてレシピどおりに作ったものを、二度目には独自にほんの少し、……時には大胆に手を加えて
"創る"こと。

"Cook with a twist."
(ひねりを加えて調理する)

"食のアレンジ"という
"創作活動"のこと。

基礎のレシピを1だとすると、
"1+アルファ"
もしくは"1-アルファ"
その時の気分や"アリモノ"の都合で
"自分ごのみ"にアレンジすることが目的のひとつでもあるから、明確なゴールは決まっていない。

レシピに忠実に従えば、美味しいものが出来ることは分かりきっている。
けれども、それじゃあどこか物足りない。
……そう感じてしまう"ひねくれた"性分から始まる、アレンジ。

そして後者は、どこかで口にして気に入ったような味わいの料理や調味料なんかを、自身の"舌の記憶"を頼りに忠実に再現すること。

"食のリプロデュース"だとか
"食のリクリエイト"という
"製作(作成)活動"のこと。

こちらは、基礎のレシピは無いので
"0からのスタート"になることも。
或いは"瓶詰め"なんかの場合だと、そこに記されたingredientsなどから読み取れる情報が唯一のヒントとなる。

けれど、前者と違ってこちらは舌の記憶に依るゴールが予め設定してある。

"舌の記憶を頼りに再現する"
その事を始めたきっかけは幾つかある。
けれどその最たるものは、
ある日とんでもなく自分ごのみの
"トマトケチャップ"
に出会ってしまったこと。

そのケチャップは、それまでわたしがスーパーマーケットなんかで当たり前のように購入していた商品とは別物と言っても過言では無い物でした。
……いいえ、むしろ全くの別物でした。

それまで口にしていた、よくあるチューブタイプのそれは、滑らかではあるものの
"べったり"とした質感で、合わせる食材の風味も消し去ってしまうほどに味も濃く、口の中にも舌の上にもその濃い酸味が強く残ってしまうような印象のものでした。

それだけに、まさか
『ケチャップだけをスプーンでひと掬いして食べてみよう』
……だなんて思わないのは当然のこと。

それまでは、特にケチャップが好きなわけでも嫌いだったわけでも無く、
『この食べ物にはケチャップを使うのが当然なんだ』
そう、思っていたオムレツやフライドポテトだなんていう食べ物には、何の迷いも持たず、当たり前のようにしてケチャップをただ絞る。
……それだけのこと。

ところが、新たに出会う事になったそのケチャップは、わたしにそれまでとは全く違った感情を抱かせることになったわけです。

『ケチャップをスプーンでひと掬いして口に運びたい』
……そんな衝動に駆られてしまう。

それまで食べ慣れていた"それ"とは違って、そのニューヒーローは、
やや"ザラっ"とした感じの質感ではあるものの、逆にその質感こそが本当に
"トマトの果肉由来"なのだと思わせてくれる。
ベタッとした濃い酸味だけが舌の上に残ることも無く、ザラリとしつつも軽い口当たりの後に残るのは、トマトの旨味と鼻腔を抜けるスパイスの仄かな香り。

そしてそのケチャップに出会ってからというもの、わたしの中で、それまでとは全く逆の発想が芽生えることになっていたのです。

『あのケチャップを食べるために何を作ろうか?』

何も、賞味期限がぎりぎりで早急に消費しなければ勿体ない……という時の"焦り"から来るあれとは違う。
『あのケチャップが食べたくて仕方がない』
……という感情のほう。

メインは"ケチャップ様"なのだから、
それが引き立てばいいわけで、
作るものはシンプルな物でいい。
いいえ……、むしろシンプルな方が
"ケチャップ様"をよりダイレクトに感じられるというもの。

そこで最初に作ったのは
"プレーンオムレツ"
おそらく、ご想像のとおり。

けれども、オムレツを食べるためにケチャップをかけるわけではありません。

"ケチャップを食べる為にプレーンオムレツを焼く"のです。
わたしにとっては初めての逆転の行動でした。

それほどまでに、わたしはそのケチャップの"虜"になってしまったわけです。

ところが残念なことに、その商品はいつ何処ででも簡単に手に入れることが出来る、というわけでは無かったのです。

年に3回ほど、"とある場所"にわざわざ出掛ける用事を作っては、ケチャップの買い溜めをしていたりもしたのだけれど、
そこは片道数時間の距離。
交通費だけでも随分と嵩んでしまう。
それにそのケチャップは、ひと瓶がたしか800円を超える、ケチャップにしては高額なお値段。

自分で作れてしまえば、片道分の交通費だけでも相当な量のケチャップを作る事が出来るのは明らかなわけです。

お気に入りのケチャップの空き瓶も山ほど貯まってしまった。
ケチャップ作りの経験は無いけれど、究極に美味しいトマトソースの作り方ならば、師匠によるレクチャーで既に習得済み。
季節は夏。
庭では収穫を待ち侘びている鈴なりのトマトたちが、真っ赤な顔をしてその時を待っている。

そんな幾つかの好条件に背中を押してもらった恰好で、舌の記憶や、空き瓶に僅かに記されていた情報をヒントに自作するという、わたしの初めての"リクリエイト"作業は始まったわけです。

きっかけともなったケチャップの試作が、始めから、意外なほどあまりにも上手くいってしまったものだから、
ついうっかりと調子に乗って、のちの
『他の物にも挑戦してみたい』
……という"欲"にも繋がっていくことになったのかもしれません。

結局それは、わたしの愉しみの一つに加わることになったのです。

その製作過程では、それまで
『人生において、何の役にも立ちそうにもない』とばかり思い込んでいた、
自身の"無駄に敏感な味覚"と、
『前世は"犬"だったに違いない』
とさえ思えるほどの"鋭い嗅覚"が大いに生かされ、それまで無駄に思えていた能力が、いい具合に発揮されたことが嬉しく思えたことも、わたしがレシピに依らない再現に、その後も没頭していくことになる要因として、深く関係していたように思う。

そしてアレンジとリクリエイト、その両方に共通するのが手探りで模索していく事だという意味では、これも一種の"研究"と呼べるのかも、とも思う。

この二つのことに関しては、
それらの作業は単純に"料理"というより"研究"や"実験"であり、調理と呼ぶより"製作"するといった趣きの感覚に近い。

その為には素材そのものについての情報は勿論のこと、その加工方法、科学的変化……その他いろいろな知識を持っている事が必要になると思っている。
その為に色々と調べ物をして、試作をし、経験を積み重ねて知識を身につける事も重要で、今ではその過程もひとつの愉しみになっていたりもする。

少し大袈裟に聞こえるかもしれないけれど、それらの工程は研究でもあり、実験でもあるのだけれど、わたしの中で、
より"実験"と表現したいのは、調理の過程で起こる"科学的な変化"を伴う試行錯誤のほう。

例えば、パン、お菓子、フレッシュチーズやバターを作ったりする時。
これらの調理の過程では、起こる科学変化を実感することも多い。

初めは、粉末状の小麦粉や糖類、牛乳などの液体状のもの、固形状や液体状の油脂類……などと、その形状も性質もてんでばらばらだったものが、
混ざり合いさまざまな工程を経て、
膨らんだり、分離したり、発酵したり、熟成されたり……して、その最終形は、はじめにそこに存在した姿からは想像も出来ないような"変身"を遂げている。

香ばしい香りが、わたしたちを惹きつけてやまないパンやお菓子。
そのミルキーな風味が多くの人間を虜にする魅惑的なチーズやバター。

その制作過程においては、配合、温度や湿度、時間設定……その他幾つかの条件をほんの僅かに変化させただけでも、それはその完成度を大きく左右してしまったりもする。

『さらに美味しく』を追求すればするほどに、試行錯誤を繰り返すそのさまは、料理というより、もはや実験のよう。

それだけに、
買えば簡単なこれらの物を敢えて手作りして、その変化に一喜一憂しては愉しむ。
その時間は尊い。

あとはスパイスの調合もそう。
味だけではなく、その変化は効能にも現れるといった意味でも、それは自作する
"薬"のようで、その調合の過程は実験と呼ぶのに相応しいと思っている。

それからもう一つ、単純に"製作(作成)する"という作業に関しては、主に季節毎に、その時の旬の物を加工して保存する
"保存食作り"も愉しみの一つ。

保存食作りに関しては、その守備範囲は広く、梅干しや果実酒、味噌のような一般的なものから、肉類や魚介類のコンフィのようなちょっと変わり種の物まで。
長期保存を目的とする物もあれば、
日々の調理を簡略化させる目的、
或いは"アリモノ"を無駄無く保存する目的で作る短期保存の物もある。

これらの製作過程においては、先人たちから受け継がれてきた食べ物をいかに常温で長期に保存するか、さらには『より美味しく』"育てる"ということにも配慮し、時間の経過が作ってくれる美味しさなども考慮して編み出された保存の知恵には驚かされ、学ぶことも多い。

冷蔵庫などの保存設備が整った現代においては、その技術が進歩した分、健康に配慮して、その美味しさは保ったまま、或いは更なる美味しさを追求した上で、どこまで塩分や糖分を抑えることが出来るのか追求する事も、その作業の面白さに繋がっている。

パンやお菓子はほぼ自家製、麺を打つことだってある。

ハンバーガーが食べたくなったら朝からパンを捏ねるところから始まる。
そんな日もある。
もちろん毎回必ずしもそうでは無いけれど。
そんなものをわざわざ……と思われる人の方が大多数だと分かっている。
けれどもわたしの場合、
その"手間暇"の時間を過ごすことそのものが、どうやら好きなようです。

そして結果的に、自分ごのみの仕上がりになるのだから、わたしにしてみればそれは"一石二鳥"でも"三鳥"でもある。
もちろん、それを売ろうだとかそんな事の為にしている訳では無いのだから、全ては完全なる"自己満足"に過ぎないけれど。

最初に参考とさせて頂いたレシピや商品以上の満足感を得られるひと品が完成した暁には、ひとり"小躍り"してしまう。

そう言った意味で、
わたしにとって台所という場所は、日々いただく"食べ物を拵える場所"であり、
食のアレンジの為の"研究室"であり、
製菓や製パン、その他の食べ物の変化を愉しむ為の"実験室"であり、
保存食作りの為の"製作室"である。

つまり、わたしにとっての台所は
"Kitchen"だとか"Cuisine"という表現よりも、まさに
『Laboratoire/ラボラトワール』
と呼ぶのに相応しい場所なのです。




…………と。

たしかに、わたしの知る彼女は、
"料理を作る人"というよりも
"食を研究している人"と呼ぶ方が
しっくりと来る、そんな人。

……

わたしが初めて彼女のラボラトワールを訪ねた日から10年。

いつしかわたしは彼女の"助手"の役割りを務めるようになり、多くを学んだ。

そしてひとり立ちした今も
春の"ちりめんじゃこ"が美味しい時期になると、いつも作る

『食べるオリーブオイル』
"生姜とじゃこのオリーブオイル漬け"

そのレシピは、わたしが初めて
あの"A38"号室のラボラトワールで
彼女から教わったもの。

遠い海の向こうで暮らしていた彼女は、
日本の味が恋しくなると、
"じゃこ"を探し回って買い求めては、
これを作ったのだとか。

彼女にこれを教えられた時には、
ホクホクの"新じゃが"と"キャベツのグリルステーキ"に添えられた。

同じく春が旬である"筍"の、
グリルした穂先にかけて戴くと、
『また今年もこの季節が巡って来たのだな』
……と思う。

そんなふうに、
今ではわたしも、自分なりのアレンジやリクリエイトを愉しみ、彼女の言うところの"小躍り"する発見をしては、メモに走り書きを繰り返している。

小さな紙切れの束を整理したのを機に、次は"わたしのラボラトワール"での研究の成果を、少しずつこの場所に綴っていこうかと思う。

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