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許すこと、とは何なのかを考えさせられたこと ~後編~

親しき中にも礼儀あり


「何を言っても許される気の置けない関係」は理想的で実在するけれど、

「何を言われても許さなければならない関係」というのは心の世界に存在しない。


許すか許さないかを決めるのは自分の心であり、誰かに強要されるものではない。


大人になるほど人は、それぞれ抱えているものが様々だ。


気の置けない関係というのはそれまでに積み上げている信頼関係によるし、許容範囲も人により色々違うのが自然だと思う。


自由な関係性の中で放つ言葉には本心が出やすい。


親しくなるほど、他人行儀でなくなり緊張感もなくなる分、時に言いすぎてしまったり、うっかり口が滑ったり。


でも、そんな事も許し合いながらやっていけるのは日々の信用の積み重ねがあるからだ。


「お互い様」は相手への気遣いや配慮があってこそ成り立つ。


そこを勘違いして「許してくれるのが当然」でお互い様を単なる自分への甘さの言い訳に利用する人はご免だ。


慣れ合いになるほどやってしまいがちかもしれないが、受け取る相手の気持ちや感情まではコントロールできない。


人の気持ちって分からないな、と思っているくらいがちょうどいい。


許してくれない気持ちを抱えたまま生きていく事も辛い事だけど、

許したくても許せない気持ちを抱えたまま生きていく事もまた同じく辛い事だ。




許すことは付き合い続けることとは限らない


当時は許したい気持ちと、許す事が出来ない気持ち、失う事の辛さにも苦しんだ。


何でも話せると思っていた友達を失うというのは精神的にもけっこうダメージが大きくて、元に戻れるかな、と考えたこともあった。


でも「覆水盆に返らず」という言葉は残酷だけど現実をうまく表現している言葉だと思う。


一度ヒビが入ってしまった関係を修復するのは困難だ。


もちろん修復できる事もあるだろうけれど、大人になるほど難しい。


苦しい思いをしてまで付き合い続ける事だけが正解ではない。


「許すこと=受け入れること、付き合い続ける事」ばかりではないんだと、自分と人の弱さも強さも、優しさも厳しさも含めて許せなかったことを癒してくれたのは時間薬だ。


許す=相手を受け入れる、を一緒にしてしまうと苦しいけれど、許すことはまずは「相手のため」ではなく「自分の心を健全に保つため」になる。


許すというのはそれに囚われる事をやめる事であり、あくまでも自分のため。


相手を受け入れ無理やり付き合い続ける事が許す事ではないから。


囚われなくなることは自由になることだ。


自分も、相手も、解放して楽になる。


お互いの自由が尊重される。


自分のため、が回りまわって、相手のためにもなる。


結局いきつくのは「お互いのため」だ。



くれぐれも、とっ捕まえて自分と相手を牢獄に閉じ込めて苦しめないようにしたい。


そのためには、お互いが対等に自由である必要がある。


優しい人ほど、許せない自分を責めてしまいがちだと思う。


思いやりのある人ほど、許すことを勘違いしている人の言葉を真に受けて自分を責めないでほしい。


世の中には平気で無神経に傷に塩を塗り込んでくるヤツもいたりする。


人の捉え方は、自分も他人も同じくコントロールできない。


だから、自分だけは自分の味方であるべきだ。


そして、自分の気持ちを唯一敏感に感じてあげられるのは、他人ではなく自分だ。


自分の気持ちに無理してまで「相手のため」「だけ」に許そうとしない方が、結果的にすべてを許せることになるのかもしれない。


その上でその許した相手と付き合えるか付き合えないかは、時の流れが自然とその時々で教えてくれるのだろう。




終わり


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