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【折々のギフト 令和6年1月号】チョコレート戦争

バレンタインデー商戦が近づいてきた。
バレンタインの贈り物と言えばチョコレートである、というのは日本だけだそうだ。
ことの始まりは、メリーチョコレートの創業家の原社長が1970年代に新宿伊勢丹で仕掛けたことらしい。バレンタインデーが8月だったらアイスクリームだったかも知れない。
冬だからこそ、チョコレートの品質管理が容易だった。

2006年がチョコレート戦争の関ヶ原の戦いだった。
2000年代に入って、百貨店各社がチョコレートの売上高を競い合った。西の阪急百貨店vs東の新宿伊勢丹がしのぎを削った。三越や高島屋は「和」のイメージが強かった。
洋菓子全般の売上高は梅田阪急に軍配が上がっていた。

2003年1月、新宿伊勢丹は第一回のサロン・デュ・ショコラを催事場で開催した。サロン・デュ・ショコラは1995年にフランス人のご夫妻がパリでスタートした入場料を取るチョコレートの集客イベントであった。伊勢丹では企画催事として日本の菓子メーカーの協力を得て入場無料で始まった。当初の3年間はイベントの契約料(固定と歩合)とショコラティエの招聘コストをカバー出来ていなかった。2006年の第4回は赤字催事として、開催は賛否両論であった。またフランスのイベント会社には歩合の少なさに不満があったので、他の百貨店が触手を伸ばしているとの情報もあった。

2005年6月、次年度の契約を交渉するために、伊勢丹の計画担当と食品のバイヤーがパリに行くことになった。予算を預かるMD計画担当長は社長にご意向を伺った。次年度のサロン・デュ・ショコラ展を赤字覚悟で実施するか否か。またパリのイベント会社からはより高い要求をされる可能性もありそうだった。社長の答えは『例え赤字だとしても質の高いイベントは他社に取られることなく、継続していくことこそ伊勢丹のあるべき姿である』と明快だった。

しかしながら、パリでの交渉が必ずしもうまくいくとは限らなかった。
先方は東京に限らず、上海やドバイが有力な候補に挙がっていた。契約料の交渉も不可能な予測だった。そこで現地で提案したのが、新宿伊勢丹から京都JR伊勢丹での連続開催だった。欧州の店を空けて訪日する招聘ショコラティエが多かったので、イベント会社のご夫妻にとっても京都に行けるのは日本行きにはメリットがあると考えた。新宿に一週間滞在し、京都の催事を確認して観光をして、関空から帰国できるのはビジネスと観光が出来る絶好のチャンスだった。今で言うところのインバウンドである。
おかげで2006年のチョコレートの1月下旬から2月中旬のチョコレートの売上総額は、梅田阪急を抜いて新宿伊勢丹が日本一になった。

近年、バレンタインのチョコレートの売れ方は、本命チョコや義理チョコから様変わりした。日本のスィーツのレベルは欧州と肩を並べ、一部では越えたかも知れない。
サロン・デュ・ショコラの経験が、2006年6月新宿伊勢丹の食品リモデルの方向性にも大きく寄与した。和と洋のゾーンを顧客の関心度で分けた展開分類は大冒険であった。特にジャン=ポール・エヴァンの出店は驚きと人気を博し、新宿伊勢丹の食品フロアは今に至るまで多くのお客さまの支持を受けている。

新宿伊勢丹のサロン・デュ・ショコラ展は今年で22回目を迎える。
多くのチョコレートファンには待望のイベントである。その歴史の中には戦いがあった。

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