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映画「梅切らぬバカ」を見て

11月に、テスト勉強をしなければ!と自分で自分を苦しめて、趣味や娯楽をお預けにする生活を送っていた。

そんな時に息抜きに見ていたSNSのタイムラインに出てきたのが、この映画「梅切らぬバカ」の紹介だった。非常に興味を持てる内容で、一人で見に行こうと思った。その時調べると、近場の映画館で上映中だった。

「テストが終わったら見に行こう」とそれを目標に踏ん張ったが、終わってみたら、その映画館での上映も終わっていた。

調べると、現在は少し離れた街の映画館でしか上映していないことがわかった。一人で見に行くつもりだったが、試しに母に話してみた。

私「自閉症の子どもとお母さんが2人で暮らしとるんじゃけど、子どもも50になって、お母さんも先のことを心配して…」

母「殺したん?」

私「いやいや、殺しはせんけど、施設(グループホーム)に入れようって」

随分、野蛮な会話だと思われるだろう。みなさん聞き流しているだろうが、ニュースを見ていると、毎年必ず、自分の老い先と子どもの将来を悲観して、親が子どもを殺める、という事件が起きている。

私自身、生まれた時から「親亡き後」のことを心配しながら生きてきた。親も私も年齢を重ねてきて、心配していたその時が近づいているのかもしれない。でも、昔のように心配ではなくなった。何とかなるだろう。

母「私、塚地(さん)、好きよ」

私「あ、そう?じゃあ一緒に見に行く?」

きっと、内容的に嫌がるだろうと思った母が興味を持ってくれたので、ドライブがてら映画鑑賞に行くことにした。

古びた映画館。フロアに降り立つと、懐かしい雰囲気!昔の映画館って、こんな感じだったよね。受付があって、券を買って、ロビーで待って。赤いフカフカの椅子、広い劇場。私たちを合わせて観客は4人しかいない。

塚地さんの演技が素晴らしい。自閉症の人の特徴を自然に表現している。

道路に飛び出た梅の枝を切らない理由もそれとなく明かされる。

一般的な社会生活を不自由、不都合なく当然の如く送ることができている大多数の「普通の健常者」は、梅の枝と同じく、何らかの障害を持つ人を「迷惑がかかる存在」だから近くにいないでほしいと思っている。

障害のある人が奇声を発したり、突飛な行動に出たり、何かに特別興味を持って近づいて行くと、「迷惑」で「気持ち悪い」存在だと感じる。

それなりの理由があって、多くの場合、他人に危害を加えようなどという悪意などはなく、純粋な気持ちからの「迷惑」なのに。

「普通の健常者」も、社会生活で得た「常識」のヴェールを一枚一枚剥ぎ取って行けば、中身にはきっとそういう「迷惑をかける」部分があるはずだ。例えなかったとしても、いつ、どこで「迷惑をかける」存在になるかわからない。多くの人は人生の一時期を誰かの世話になって終えるはずだ。

私は、幼い頃に施設に入所した知的障害者の姉がいるため、塚地さん側の気持ちもよく理解できる環境で育ってきた。

映画では、さりげなく、慎ましく話が流れていく。決して涙を誘わず、決して強く訴えかけず、ありのままの自然の、「何も不自由ない健常者」「障害者」「障害者の家族」「障害者の近くにいる健常者」の心の動きを描くことで、見る人に考えてもらいたい、感じてもらいたい、そんな雰囲気だった。

まだ偏見や先入観の少ない子どもがフラットな気持ちで塚地さん演じる「忠さん」に接している姿がうれしかった。

この映画を、何の関心もない人が見てどう思うかが知りたい。むしろそういう人に見てほしい。

「関係者が見に行くんじゃないん?誰が見る?私はおもしろくなかった。あんな子いっぱい知っとるもん。」と母は独特の言い回しで感想を述べた。

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