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ヒトラーのための虐殺会議

様々な観点で見ることができる映画。
個人的には、人は状況や周りの環境によって思想も行動も大きく変わると思っている。
この会議の出席者と同じ立場なら、戦争という大きな流れを変えるために異なった意見を言えるのか?同じように効率と数字だけで物事を見てしまわないか?を考えてしまった。

ナチスがした事は決して許されない、極悪非道の極み。
けれど、第一次世界大戦から続く戦の流れと、世の中の雰囲気がメディアなども通じて、排他的差別的になっていく中で、もし当時のドイツやポーランドなど新ナチスの地域に住んでいたら、自分も大きな流れの一コマになってしまったのではないか、否定できる自信はない。

そして、会議の中で数字と効率だけが指標となり物事が決断されていく姿は、今勤めている会社の米国本社やアジアのヘッドクォーターで起きている事とかぶってしまった。
映画で議論されているのは、ユダヤ人の命、仕事で議論されているのは売り上げとそれに伴う人員削減、つまり社員。効率と数字、上の決定がきたら従うだけの下部組織。人の命や存在は、いつの時代も大きな力の前にはあまりにも非力。
権利と権力を求めるがあまり、形を変えてこのような出来事は繰り返しているのではないか。

映画に登場するアイヒマンが、終戦後イスラエルの裁判で語った行動の理由はあまりにも有名。
「戦争中には、たった1つしか責任は問われません。命令に従う責任ということです。もし命令に背けば軍法会議にかけられます。そういう中で命令に従う以外には何もできなかったし、自らの誓いによっても縛られていたのです。」
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/アドルフ・アイヒマン

賛否両論はあるものの、アイヒマンの意思決定プロセスを戦後考察したミルグラム実験でも、6割以上の被験者が、倫理的におかしいと感じつつ、命令だからという理由で実験を中止することはなかった。被験者はアメリカ国民。自由平等を謳い、ある程度リベラルに思考できる市民でもこのような結果が出た。
また命令による業務は、倫理的におかしいと感じた場合でも、責任の所在をうやむやにできることで当事者の心理的負担を減らしてくれるらしい。
意思決定者と手を下す人を分けることで、心理的負担を減らす。企業でもよくあることだろう。

世の中から戦争や虐殺、大企業の搾取まで不条理な事は絶え間なく続く。
しかし、人の本質的に、権利や権力、利益を求める事もとどまることはなく、構造的な暴力は一般の市民も巻き込んだ形で今後も続いていくのだろう。巻き込まれる立場が、被害者なのか加害者なのか、ただそれだけの違いなのだ。

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