CHAPTER1: 2,000人をこえる住民との対話を軸にした震災復興。東松島市のまちづくり[東松島市オフサイト研修]
「GREEN BUSINESS PRODUCERS(GBP)」は、気候変動というグローバルな問題をローカルに落とし込み、ビジネスの力で解決する”グローカルリーダー”を目指す約3ヶ月のプログラム。
フィールドワークを通じた実践的な学びも、多く用意されています。
最初のフィールドワーク先は香川県三豊市でした。続いてプログラム受講生が訪れたのは「宮城県東松島市」。日本屈指のエコタウンとも言われるまちです。
今回のフィールドワークをコーディネートした、自然電力の南井駿(東松島市在住)が「可能性の塊」と呼ぶ、東松島市。
この記事では、そんな東松島市でどんなことを体験してきたのか、プログラムの詳細についてお届けします。
可能性にあふれるまち、東松島市を学ぶ
宮城で松島と言えば、日本三景「松島」を連想する人も多いと思います。そんなあの「松島」は、東松島市のお隣の松島町。
東松島市は人口39,098人(令和2年10月現在)のまちです。仙台と、宮城県人口第2位の都市・石巻の間に位置し、JRの駅が8駅・高速道路のインターチェンジは3箇所・都市圏へのアクセスがよい、というベッドタウン。
市の産業の中心は一次産業と三次産業です。特に養殖海苔は皇室に献上されるほど上質で、牡蠣もその質の高さから、日本全国に種牡蠣として出荷されています。
優れたSDGsの取組を提案する地方自治体である「SDGs未来都市」には、初回の2018年度に選定。環境省主導の「脱炭素先行地域」には、第1回で選定され、世界的に求められている取組を実践する自治体です。
そんな住んでよし、訪れてよしの東松島市を、2011年3月11日に東北地方太平洋沖地震と巨大津波が襲います。
想定をはるかに超える規模の津波によって、東松島市では1,110名の人命が失われ(2021年3月現在、23名の方が行方不明)、11,000棟を超える家屋被害、浸水域は市街地の約65%に。
農地や漁港をはじめとする産業施設や社会基盤施設にも、壊滅的な被害が発生しました。
2011年3月11日、東北地方太平洋沖地震と巨大津波が東松島市を襲いました。1,110名の人命が失われ(2021年3月現在、23名の方が行方不明)、11,000棟を超える家屋被害、浸水域は市街地の約65%に。
農地や漁港をはじめとする産業施設や社会基盤施設にも、壊滅的な被害が発生しました。
東松島市は、この甚大な被害からどのようにして復興を果たしたのか?
震災当時、復興政策班として復興に向けたプランニング/調整/実行役を担っていた、元東松島市役所職員の高橋さんと、現役の東松島市役所職員の石垣さん。
自然電力の瀧口がモデレーターを務めながら、お二人にお話しいただきました。
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ーー震災当時、高橋さんと石垣さんは、復興政策班として復興に向けたプランニング、調整、実行役を担っていました。当時は、どんな思いで仕事に取り組んでいましたか。
高 橋:大震災の直後のまちは悲しみに溢れていました。家族を失い、家を失った、たくさんの被災した方々。瓦礫の山。…役所の人間も遺族であり被災者で気持ちは同じ。信じられない状況のなかで、しっかりと現実を受け止めるのに1か月かかりました。
ただ、行方不明者の捜索をしている時に市民から「何とか助けてくれ」「あなたたちしか頼る人はいない」と言われて。「この人たちのために役に立つ。逃げると後悔する」と思いました。
それに、市内で3万人が被災している状況で、前に進む以外に他の選択肢がなかった。復興政策班の3人は指示を待っている余裕がないから、それぞれの守備範囲の中で出来ることを、自分の意志で進めていきました。
ーー震災直後の対応が大事だったのだと想像します。
高 橋:阿部市長(当時)が「責任持つから」とそれぞれの現場に任せてくれました。集団移転先の山の用地買収も、スピード重視で。各々が判断して動ける体制だったから、早く動けた部分はあったのかも知れません。
石 垣:当初、市役所内部も優先順位を付けられなくて。本部とはいうものの、被害状況の共有で一日が終わる状況でした。
そんな中、古山復興政策課長(当時)が、実務的なスケジュールを決める実行部隊を別に作ったんですよ。仮設住宅をどこに作るか、震災がれき処理をいつから、どう始めるか。そういったことを動かしていきました。
市長は復旧本部を仕切る必要があったので、「最後は責任取るから」と、かじ取りは古山さん以下実行部隊に委ねてくれたんです。
ーー震災1か月後には、東松島市「東日本大震災」復旧・復興指針が示されましたよね。
石 垣:避難所に行くと、「仮設住宅にはいつ入れるんだ」「震災がれきの処理はいつ始まるんだ」と問い詰められる状況でした。
そんな中、「市民みんなで復興プランを作るぞ」と高橋さんが仰って。市民がいる避難所を周って、復興まちづくり計画をつくっていきました。結果的に、市民2000人に復興政策策定に携わってもらったんです。
ーー後に「奇跡」と呼ばれる、東松島方式のがれき処理についても教えてください。
高 橋:あれは、宮城県北部連続地震(2003年)が教訓となっています。
2003年当時、東松島市合併前の鳴瀬町と矢本町で、がれきの処理方法が違って処理が滞ったことがあったんです。その経験を踏まえて、次の災害では効率化させようと、東松島市建設業協会と事前に協定を結んでいました。地元の協力と事前の準備がなければ、出来ていなかったですね。
ーー避難所運営も住民に任せたことで、市役所が復興業務に早期に着手できたんですね。
石 垣:避難所の数は、118箇所ありました。市役所職員は、新卒から部長まで入れて約340人。避難所の運営には、1箇所につき職員3人が必要ですが、そうすると復興業務に従事する職員がいなくなります。
始めは職員も避難所の運営に入りましたが、地域住民の方々を中心にリーダーや衛生係を担っていただいたことで、市役所職員は復興業務に着手できました。
ーー集団移転の合意形成には、苦労したのではないかと思うのですが。
高 橋:そうですね…。当初はヒリヒリするような雰囲気もあり、復興の最前線は辛い状況でしたが、復興に向けて進まないといけなかった。集団移転先を行政が決めて説明するのではなく、住民の意見を聴きながら進めた方が逆に最短距離だと考えました。一緒に考えた方がぶれないし、後で変更することもなくなります。
逃げずにやってきたおかげで、目標としていた集団移転の合意率も当初の時点で8割を超えました。集団移転には物理的に4,5年かかりましたが、住民とは街路や公園整備、災害公営のプランなどを並行して話し合いながら進めていきました。
また、用地買収は、一時、市の基金等も活用して先行買収するなど、工夫はしてきたところがあります。当時、そのような思い切ったことをする自治体は少なかったと、後になって聞きました。
ーー市役所と住民で、丁寧に意見交換を重ねてきたんですね。お互いの理解が進んだきっかけは、なんだったんでしょうか?
石 垣:集団移転のエリアごとにワークショップを行いました。地区によっては、調整完了までに120回。区画の位置、ごみ回収所の場所なども、ディスカッションで決めました。
前半は住民の歯がゆい思いを受け止めるだけでした。集団移転には、予算、法律、時間等制約が多く、市役所側はネガティブな回答しか出来ないことが多いんです。
何度も対話する中で、「故郷を震災前よりもいい地域にしよう」という思いが双方に芽生えていきました。その思いが共有できた時に、行政と市民が1つになっていたように思います。
ーー復興の鍵となったのは、JR仙石線の完全復旧なのではないでしょうか。震災から5年で仙石線を復旧できたのはなぜですか?
高 橋:仙石線は東松島市だけでなく、県北部全体にとってヘビーレールで、市民が通勤、通学が出来て初めて生活が戻ってきたと言える部分です。東松島市内の線路を復旧させないと、石巻を含め県全体の被災地の復興にも影響がありました。
ただ、JR東日本エリアでは新幹線以外で新たな線路の敷設は予定になく、専門の用地買収部隊が東北にはいませんでした。そこで、用地買収は東松島市で協力することに。
スピード重視で、用地買収も大胆に行いました。JRも一緒にやりましょうと言ってくれた。
仙石線は駅の数が多くて仙台まで時間がかかります。これが、東北本線と相互乗り入れすると、10-20分短縮できる。これは東松島市民の夢でもありました。ただ、電気の系統が異なるので、電車自体を作り変える必要があった。
大ピンチの状況でしたが、逆に従来からの課題を解決するチャンスにつながったのかも知れません。JRが当時最先端のハイブリッド型の列車を、新たに用意してくれました。当時のJRの社長が「JRは復興に協力し、貢献する」とおっしゃってくれた時は、現場担当の一人として、本当に感激したことを今も覚えています。
ーー奥松島の「絆」ソーラーパークもみてきました。
石 垣:「絆」ソーラーパークは、電気だけでなく希望も生み出す発電所だと考えています。
震災当時、私たちは命とエネルギーが近い関係にあることを体験しました。分散型電源の必要性を感じたのは、復興指針を作る際に上がった「住んでいた場所に、メガソーラーを作ってほしい」という声です。
地域の望む未来を実現するのが公務員の仕事。民間企業と連携して、メガソーラー施設をつくれたのは、エネルギーだけでなく、地域の希望をも生み出すプロジェクトだったと感じています。
ーーBuild Back Better(よりよい復興)から突き抜けて、飛躍の話へと進めていきたいと思います。
石 垣:復興交付金が2011年12月、復興庁が出来たのが2013年12月です。東松島にとってもターニングポイントでした。市民2000人を巻き込んだ復興まちづくり計画が完成したのも、2013年12月。
希望を実現するプロジェクトをかき集めて、プロジェクトベースで落としなおしたのが、環境未来都市構想につながっています。環境未来都市に選ばれたことで、様々な関係が出来ました。それがSDGs未来都市につながっています。
高 橋:災害当初の時期は、被災地に情報が届かず、大変な状況でした。我々現場の人間は、なかなかテレビを見る時間もなかった。そんな中で、あるシンクタンクの方は何度も来てくださって、環境未来都市の追加募集が始まるよと教えてくれました。
復興計画だけでなく、もう一歩前に進めるプランが欲しかったんです。幸い国にモデル都市の認証をしてもらって、国際フォーラムを東松島市で開催するなど、デンマークや同じような被災国、被災地域、国内の先進的な知恵を頂けた。
ーー自然電力としても、去年6月から、ここで何が出来るか考え始めました。もう一度農業に立ち返り、農業法人の方々がより安心して、安定的な収入を確保できるようなソーラーの開発に挑戦したい。農業への期待はどうですか?
石 垣:何人か農家さんもいるようですが、米よりも芝生の方が儲かります。農業所得をどう上げるか。東松島のような産業構造にとっては、非常に重要なミッションです。
食べ物は、オーガニック、減農薬を取り入れた政策誘導を仕様としていますが、儲からないと後継者が付きません。後継者が付かないと土地が廃れて、コミュニティも崩壊してしまう。そういう意味でも、(農業を支える)ソーラーには期待しています。
ーー災害からの復興で、他の地域との差はでてきたのではないかと思います。他の自治体と比べて、どういう違いが出てきているのか、その要因は何なのかを教えてください。
高 橋:地形や被災状況によって復興の状況はそれぞれ異なっています。
我々は、市民との合意形成を最重要視してきました。また、あとあとまで重要になってくると当時から考えていました。たとえば、東松島の災害公営住宅は、住民の意見をできるだけかなえるよう、市民意向の聴き取りと調整に時間をかけました。
当初から、市民からは、戸建ての要望が多かったんです。他地域では、マンションタイプが主流でしたが、東松島市は圧倒的に戸建が多い。お庭には、花も野菜も植えられるし、バリアフリー型にもしやすい、コミュニティにもメリットがあります。将来は払い下げも可能になる。
自分たちがつくった街、考えた住宅には、愛着があり、シビックプライドにもつながると思います。
ーーこれからの東松島を、どういうまちにしたいと思っていますか?
石 垣:まだまだやりたいプロジェクトがたくさんあります。農村コミュニティの維持も含めて、地域福祉が必要。仕組みとして、地域福祉の成立と個人の尊厳の尊重を両立できる地域にしていきたい。人づくりとコミュニティづくりが、次のミッションですね。
高 橋:人間の幸せは、美味しいものを食べて、自然の中で暮らし、できたら人の役に立つことだと思います。東松島市はどれも揃っていると思う。その3つを伸ばしていきたいと考えています。
ーー 若い世代には、何を求めていますか?
石 垣:求めているというよりも…主観的な考え方ですが、若い世代の考え方が今の世の中のスタンダードだと思っています。若い世代の考えを主にして、彼らの考えを取り入れていっている。10代の意見が時代にあった意見だと思って、コミュニケーションをとっていますね。
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市の復興計画をたてるために、2000人を超える市民とコミュニケーションを交わした東松島市役所。
時間もかかる、手間もかかるかもしれません。それでも、行政と市民が一緒の方向に向かって走る基礎、一枚岩になれたことは、東松島市が未来に向けて先進的な取組にまい進できている理由だと思います。
高橋さん、石垣さんのお話の中には、ローカルビジネスを進めるうえで、大切なかけらがたくさん散りばめられていました。
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最後に、GBP運営責任者でモデレーターを務めた瀧口から「何といっても、この二人はかっこいいんだ」という言葉がありました。
途方もない大災害に直面しながらも、覚悟を決めて一歩ずつ歩みを進めていったお二人。諦めずに挑戦してきた方たちの生き様は、かっこいい。
そして、そんな死ぬ気でまちづくりに取り組む皆さんと、ローカルビジネスを通じて歩みをともにするためには、強い決意が必要だと感じました。
【CHAPTER2に続きます!】
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