語らずも饒舌。
雨上がりに水溜まりをジャンプする。
大股で行けるか行けないかくらいのやつ。
まだまだ軽やかなステップでいけるじゃんとか、今日リュックでよかったなぁとか思いながら。
いや別にリュックでなくてもいいんだけどちょっとアクティブ感出る気がして。
雨上がりでいい感じに晴れたとき、
その世界観を閉じ込めてしまいたいと思ったりする。
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最近、あるサイトで短歌を読むのが好きだ。
もともと興味はあったのだけど、短い文字数で表現する楽しさを
noteの『旅する日本語』と言う企画で味わって以来かなり影響を受けている。
「言葉を探す」とか「削る」という作業はある種の制限として感じるものの、熟考すると何枚もの原稿用紙よりずっと自由になれるのかもしれない。
最近はそんな風にも思える。
昨年映画化もされて話題になった
歌集『滑走路』/ 萩原慎一郎
の中で、
「ぼくたちは三十一文字で鳥になるのだ」
という言葉を著者が残している。
センセーショナルな部分に話題を持っていかれることも多いが、彼の恋する視線を切り取ったみずみずしい歌が好きだ。
大空へ羽ばたくには、たくさんの荷物を持っていけない。
だから今自分が必要な分だけをリュックに詰め込む。
いうなれば、リュックに荷物を詰める作業が
『短歌』なんじゃないかと、そう思ったりする。
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旅行前夜。
お気に入りの旅行カバンに何を詰めていこうかと夢想する。
これは必要だろうか
これはあったほうが便利だ
これがあると困らない、助かる、云々。
最初はあれこれ持って行きたくなる。
ところが予想たがわず、すぐに重量オーバーだ。
限られたスペースにはめられたそのときの言葉は、今の等身大の自分を映すのだろう。
言葉を探る過程で染み付いた詠み手の熱が、分かりやすく表には出ずともほんのり香ってくる。
ああ、そんな魅力があるのかぁと新しい感覚を得た今日この頃なのです。
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読売新聞一面のコラムで必ず登場する『◆』マークがある。
記事で何度か書いたが、2017年まで執筆されていたコラムニスト竹内政明さんの文章を崇拝している。
特徴的なのは、段落として用いられる◆の位置が横一列できれいに揃っていること。
竹内さんが言うに
新聞の記事は「俳句」、コラムは「短歌」だという。
コラムは事実に加えて自分はどう思うのかを述べなければならない。
わずか460字という条件の中、そこから更に制限をかけた状態で書き続けるというのは名手の成せる業だ。
「◆マークを揃えるのはなぜですか?」
記者の問いに竹内さんが答えた内容が印象的で忘れられない。
当初は、匿名コラムの言わば署名代わりとしてはじめたもので、特段意味はなかったという。
しかし、文字に制限を課すことで
例えば『失敗』の意味を3文字、あるいは4文字で表現する必要が出てくる。
そこで『手落ち』や『手抜かり』など
都度別の言い回しを考えるのだそうだ。
そうやってひとつひとつの言葉と向き合ってきた時間が今の自分に繋がっていると。
言葉遊びのような側面も感じられて聞く分には興味をそそるが、言葉を知り、選び、都度熟考しなければ成し得ない文章術だ。
そこで選び抜かれた言葉たちは、多くを語らずとも読み手へと深く届いてしまう。
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より広く伝わるように、とか
誤解を与えないために、と考えだすと途端に言葉の数は増える。
それは他者への配慮、優しさとも言える。
必要なことだ。
けれども、本当に言いたかったことはそんな言葉たちに埋もれてしまわないか。
分かりやすさが真意を覆ってしまわないかと、ときに頭をよぎらなくもない。
手を伸ばして、言葉を広げて
いろんな人と手を繋いでいくことは素晴らしい。
ただ自分の足元を見て
その足取りは軽いか、行きたい場所へと羽ばたけているかと問う私でもいたいと思う。
内容はどうであれ、言葉と向き合った時間を感じさせる文章は読み手に揺さぶりをかける。
そんな言葉の連なりになんだか憧れを抱いてしまうのだ。
言葉を知り、楽しみ、もっと磨いていけると思うと私の中のときめきが止まらない。
短歌で遊ぶとき、なぜか不思議と足取りは軽いのだ。
共鳴する誰かのもとへ
びゅんと飛んでいける切符のような。
ここまで読んでいただいたこと、とても嬉しく思います。