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なんで書くのか。

最近noteを書く頻度が少ないからか文章力が落ちたように感じる。
別に文章力を上げたくて始めたもんでもないし特に問題はないのだけれど、私ってなんでそもそもnoteを書くようになったんだろうと、ふと初期に書いた下書きのままの記事を読んでみる。

そこには明確に書いてあった。
一言で、わかりやすく。
「言葉にできなかったことを綴る」と。

あぁ、、そうだった。
私はそれを切実に思ってたな。と、当時の気持ちが湧き上がってきた。

元々、人とコミュニケーションを取ることが得意じゃなかった。
人の話を聞くことばかりで、自分のことは人に聞かれるまで話さないことが多かった。
聞くことは苦痛じゃないしむしろ好きな方。
だけどその偏りを自分で過剰に意識してしまっている時点で、心地よい関係性ではなかったのだと思う。
頭のなかでは何人もの私が脳内会議を繰り広げているというのに、自信の無さや怖さでその意見が出力されることは限りなく少なかった。

今でも、自分の意見や気持ちを話すのが苦手だ。
それが自分にとって大切であればあるほど。

でも10年前の自分と比べると、自意識過剰な部分が少しずつ薄れ、いろんな面で諦めがつき、私は私なんだと思えるようになった。

こういうと聞こえはいいし、人間的に成長したように感じるかもしれない。
けれど、その「成長」という表現は正直、いまの私にはしっくりこない。
これはただの変化であって、良い人間に近づいたとかは到底思えないのだ。

むしろ、10年前に比べて退化しているものもあるように感じる。
昔はもっと、良くも悪くも繊細だった。
いろんなものに敏感で、感受性豊かだった(?)かな。
その反面、ほんのりとした生きづらさはずっと抱えていたけれど。

今はある程度図太くなって、生きやすくなった。
幸せを感じることも多いし、いろいろと楽だ。

けれど、あの頃の自分がとてつもなく愛おしく感じることがたまにある。
昔の自分に戻りたいような戻りたくないような、まぁ戻れないんだけれど。

「言葉にできなかったことを綴る」
我ながら、いいテーマだなと思う。
当時の私はそうあるべきだったんだよな。

自分の中の感情を、良い悪いにカテゴライズする前のモヤモヤをモヤモヤのままで。
そんな風に書き出して、いろんな思いを成仏させたり供養したり昇華させたり。

何でもいいから、そこに「ある」、「存在してる」と認識したかったんだ。
無かったことにしたくなかった。

✴︎

note のなかで、数年前にある人が書いた日記が忘れられなくて、たまにそれを読みにいくことがある。

全然スキも付いてないし、フォロワーも決して多くないし、その人はもう何年も投稿していない。
正直なぜその日記に出会えたのかもいまだに謎だ。

でも、その書かれた日記が私的にはとても印象的だった。いま読んでもたまらない気持ちになる。
なぜだか毎回涙が出そうになる。
あの記事ずっと消えないで欲しいなって思ってる。

その記事もそうなんだけど、、何というか、孤独なんだよね日記って。
悩み、葛藤、ちょっとした後悔、満たされない気持ち。

知らない人のそれらが手に取るように分かって、読んでる私の気持ちも一緒に慰めてもらっているようで、何度もその日記に会いに行ってしまう。

だから誰かの孤独は、どこかの知らない人を知らない間に救ってるんだなと思う。

満たされなさは、ときにその人をその人たらしめる要素のひとつとして、他者を惹きつける魅力のひとつになるんじゃなかろうか。
本人は苦しさもあるかもしれない。
でもこの文章に触れられて良かったと思う人間もいる。

最近はnoteを更新するとき、直近で嬉しかったことや印象的だったことを書き留めることが多かった。
そこには、読んだ人が嫌な気持ちにならないか?という勝手に作り上げた配慮もあったかもしれない。
でも、別にいいんだよな。
特別なことや思い出だけを書く目的にしなくても。

✴︎

数年前に図書館で吉野弘の詩集を借りて読んでいたことがある。

その中でいまでも忘れられない作品がある。
タイトルを調べてみると『或る朝の』という詩だった。

内容はこんな感じ。

───
或る朝に妻がクシャミをした。
それにはわずかな投げやり感が漂っていて、子どもは変なクシャミだと笑う。
妻には誰かを責める意図なんてなく、それはごく自然に発せられた。
私には、日頃何かに耐え忍ぶ妻から叩きつけられたもののように感じた。

車が行き交う街中で、大八車を引いた老人が馬鹿野郎と叫んでいる。
それは私の叫びでもあり妻の叫びでもあっただろう。
私は想像する。
家族を残し、大八車で駆ける彼女を。
軽やかな白い足で解き放たれた彼女を。
───

原文はもっと削ぎ落とされた表現で想像力を掻き立てられる。

日常のひとコマで、妻の人生を顧みる視点が切ない。
彼女には別の人生があったのではないか
放たれて飛び去った彼女はきっと美しいだろう

語り手はこんなことを考えていたのだろうか。
夫が生活の中で感じた複雑な心象を、解像度高く描き出していると思う。

こんな毎日の何気ないシーンから作品を生み出せるのって、とてもすごいことだと改めて思う。
小さな心の変化を逐一書き留めていたのだろうか。

こんな繊細さを持っていたいし、それを忘れたくないと思える自分でいたいなぁ。

✴︎

世は、満たされていることに目を向けよというメッセージが多くなったように思う。
その大切さを日々痛感する。
でもそれと同時に、満たされなさが生み出す人間の魅力も、私には欠かせない。

ぶっちゃけ、満たされていない人の文章は面白い。
苦しみは一言で片付けられないことが多いのだろう。
書くことの原動力にもなるのだろう。

いろいろ書いたけど、今後も書くことのテーマは何でもいい。
ただ、ネガティブなことも臆さず出すこと、言葉選びを楽しむこと、あと正直でいることにはこだわり続けたいなとは思っている。



ここまで読んでいただいたこと、とても嬉しく思います。