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「ハイファに戻って」を読んで

・以前大学の授業レポートで書いたものを供養しにきました。
・パレスチナの地名の1つであるハイファ。イスラエルに占領され、2023年現在もイスラエルという国家の土地とされています。
・パレスチナ文学、ひいては中東の文学は日本にあまり紹介されていないように思うので、こちらをきっかけにご自身でも読んでみたり、パレスチナ情勢に目を向けてみたりしてほしいなと思って、置いておきます。

・あらすじ、著者についても少し。本の表紙と同じく出版社のサイトより。
ガッサーン・カナファーニー (カナファーニー,G)
1936年パレスチナ生まれ。12歳のときデイルヤーシン村虐殺事件が起こり難民となる。パレスチナ解放運動で重要な役割を果たすかたわら、小説、戯曲を執筆。72年、自動車に仕掛けられた爆弾により暗殺される。

あらすじ
二十年ぶりに再会した息子は別の家族に育てられていた――時代の苦悩を凝縮させた「ハイファに戻って」、密入国を試みる難民たちのおそるべき末路を描いた「太陽の男たち」など、不滅の光を放つ名作群。

ガッサーン・カナファーニー(黒田寿郎、奴田原睦明 訳)
『ハイファに戻って/太陽の男たち』河出書房新社、2017年
https://www.kawade.co.jp/np/isbn/9784309464466/(最終閲覧:2023年9月9日)

1.       はじめに

 本レポートでは、今回の課題図書、ガッサーン・カナファーニーによる「ハイファに戻って」と「太陽の男たち」のうち特に「ハイファに戻って」を取り上げ、考えたことをまとめてみようと思う。本著作はサイード・Sが妻のソフィアと「祖国」パレスチナのかつて住んでいた場所、ハイファに帰り、元の家を訪れるという話である。家に置き去りにしてしまった息子ハルドゥンのことがずっと心にのしかかっていたのである。しかしながら家にはミリアムという老女が住んでおり、帰ってきたハルドゥンはイスラエルの兵士となっていた。ミリアムたち夫婦に20年間育てられて生きてきた彼と、20年間悲しみを抱えてきたサイードとソフィアの間の溝は深かった。サイードたちが生きてきて、また、言葉を交わすうちにありありと立ちはだかってきたものたちをここでは1つずつ取り上げ、明確な答えは出ずとも考えてみたい。

2.       ぶつかった問題、考えたこと

 サイードの観点からぶつかった問題をまとめていくこととする。1つ目に、パレスチナから突如追い出されたことである。このことについて、サイードたちに罪はなかったと考えられる。一方、ユダヤ人部隊、イギリス軍のやり方には問題があったと思う。強引に土地を奪ったとしてもその土地を追われた人が困り、敵対感情が高まり、紛争になることは明らかである。イギリスがユダヤの国を建てると言った責任をもってパレスチナの人間との対話の場を設けるかパレスチナの人間が路頭に困らない施策を考えるべきだっただろう。
 2つ目に、ハルドゥンがイスラエルの兵士になっていたことである。サイードにとっては敵の兵士であり、息子のハーリドがパレスチナの兵士となって戦おうとしていた相手である。ユダヤの子として育てられたことに対してはまだ耐えられたかもしれないが、自分たちが打ちのめされた「武力」、対話の余地なく戦わなければならない「兵士」となるとそれは酷い挫折感を感じただろうと思った。しかしながら、ハルドゥンが言った通り自分たちは彼を置いて行ってしまったのであり、卑怯と言われても受け止めることしかできず、20年間の悲しみがなおさらひどいものになる結果になっている。
 3つ目に、「父と子」とは何かという問題にぶつかったことである。ハルドゥンと血のつながりはあるが、親とは全く思ってもらえなかった。一方、ハーリドに対しては「父と子」という関係を利用して自分の言うことを聞かせていた。このことから、「父と子」とはなんなのかという疑問にぶつかった。ハルドゥンにとってはやはり育てられた親が親になるのだと思う。ただ、親同士の立場が対立するものでなければ、実親との再会の後育て親と実親のどちらもとも交流を持つということも出来ただろう。「父と子」の関係というのはその環境によるが、育て親と実親のどちらが父か、という問いであればどちらも、と言える場合もあるだろう。少なからずこの場合よりはその方が良い関係だろうと思った。ここにおいては、1つ目の問題がこの問題の原因にもなっていると思う。ハーリドに対しての言動に関しては、もっとその関係は大切にした方がいいのではないかと思った。ハーリドが大切だからこその言動であるのは分かるが、ハルドゥンへの姿勢としてもイスラエルへの姿勢としても「対話が欠けてしまった」ことがこの話全体を貫いているように感じ、この場面はサイードが自分の息子に対しても対話が欠けていたと実感してしまう場面だと位置づけられる。すると、ほかよりも他の要因を受けずに対話を欠いてしまったことであったので、サイードはその欠けを実感してしまったものと思う。結局は「武力」の力の強さにそれも押し切られてしまったが、読者に対しては「対話」を強く印象付けたのではないだろうか。
 4つ目に、ハルドゥンへのぼんやりとした幻想を抱えながら20年間が過ぎてしまったことだ。置いて来てしまったハルドゥンに囚われながら、20年が経つうちにソフィアは衰え、ハルドゥンは全く知らないうちに全く違う文化、しかも敵対している側の人に育てられ、ハーリドは未来を望む場所として全く知らないパレスチナの地を捉え、そのために武力で戦おうとしていた。20年のうちに悲しみと衰えばかりが増し、生活の中に武力が入り込んできたのであった。ハルドゥンもなぜ戦わなかったと問い、ここからサイードが息子に対して兵士になるのを止めようとしたのとは違う考え方で生きていることが窺われる。この場面は過去の中に生きてきたサイードが実質、武力がものを言っている現実を、現在の潮流を思い知らされ飲み込んだ場面だったと感じた。そして、最後には武力で取り返さなくてはという思いを見せている。果たしてこの変化は良いものだったのだろうか。私は、良いものだったとは言えないと思う。武力で戦い続けてもかつてのサイードがそうだったように傷つくものが増え、対立が解消されることは無いと思うからである。しかしながら、戦いに出るしか道はないと思うようになってしまう気持ちもありありと伝わってきた。今現在、現実のイスラエル、パレスチナで戦っている人々はこのような葛藤を抱えているのだろうということを強く感じた。それでもやはり、サイードがぶつかったこれらの問題にぶつからなくて済むほうがずっと良いはずだ。そのためにこの葛藤たちを伝えるため書かれたのがこの話なのだと思う。

3.       まとめ

 サイードがぶつかった問題として4つの点を挙げたが、常に欠けてしまったものとしての「対話」、20年間ハルドゥンの状況が分からなかった、またそれに対して対話へも武力へも動かなかったという「沈黙」、パレスチナへの攻撃に始まり、子供たちが当たり前の手段として考えるようになった「武力」というものがこの物語のキーワードとして挙げられると思う。ここで描かれていたのは「沈黙」から「武力」に進んでいく姿だったが、筆者は欠けてしまった方の「対話」に進んでいくことが必要ではないかと伝えているように思われる。なぜなら、この物語でその欠けが浮き彫りにされ、そこで生じた問題が提示され、必要性が問われていたからだ。最後、サイードが武力に踏み切ったのも、強く読者に疑問を残す表現であっただろう。筆者は読者に、サイードとは違う方に進んでほしいのだと、読み取った。

4.       参考文献

ガッサーン・カナファーニー(黒田寿郎、奴田原睦明 訳)『ハイファに戻って/太陽の男たち』河出書房新社、2017年。

臼杵陽『世界史の中のパレスチナ問題』講談社、2013年。

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