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演劇の可能性、変わらない人間の性(さが)(『メディア/イアソン』感想)

好きな俳優さんが出ているからといって初日も千秋楽も絶対に行くぞと義務化することは苦しくなるのでもう卒業することに決めたけど(ただしムーランルージュ以外)、今回運良く初日のチケットが取れたので観劇して参りました。苦しくなるというのは、身体が辛いとかではなく、初日や楽ってみんなが行きたいものだから、取れなかった時が辛いのだ。

休憩なし2時間

そして一昨日のソワレも観劇し、一旦立ち止まって噛み締めたり考えたくなった。ストプレ初心者ながら抱いた感銘や、この作品が『メディア』ではなく『メディア/イアソン』である意義など。
⚠️以下、ネタバレあります。


ど素人のストプレ観劇 度肝を抜かれた「全員野球」

ミュージカルでの舞台姿を一年追わせてもらった俳優さんのストレートプレイ作品を初めて劇場で観劇し、普段音楽や歌から得られていた情報量の多さを思い知った。もはやライフワークと言いたいほど自分の毎日を埋め尽くし彩ってくれている“観劇”だけど、観る作品のジャンルとして圧倒的に多いのはミュージカルで、果たして「2時間休憩なし」の公演、しかもストレートプレイについて行けるのか?集中力を保てるのか?と不安があったストプレ初心者であるものの、面白くて引き込まれてあっという間に展開が進んでいた。
言葉の一つ一つが難しい、というか、この言葉は2024年の今だと何を指すの?もっと簡単な言葉に言い換えるとどういう意味?とか、少しでも考え込んでしまえば、舞台の上の人達はあっという間に自分よりも数秒先の未来を生きている。自分の語彙の乏しさゆえに置いてかれそうになった瞬間があったことは否めないので、これからあと数回観劇できる中で補っていきたい。あとは、プログラムの中の人物相関図をもっと頭に入れておけば良かったかなと反省。ただ、2回目の観劇となった昨日はこれらの点をクリアでき、より一層深いところまで沈み込んで観劇できた。
とはいえ、出演者は5名だけという状況下で、タイトルロールの井上芳雄さんと南沢奈央さん以外の3名が、老若男女問わず複数の人物を演じ分けるのだ。その中で、誰が何を演じてるのかを迷う余地などこちらにはない。それほど鮮烈な印象を残す演じ分けだった。プログラムには出演者5名+プロンプター/スウィングの方々の名前しかないのに、役名はその何倍も記載され、三浦宏規さん、水野貴以さん、加茂智里さんの名前が何度も登場するのだから。メディアの3人の子供の中で末っ子を演じていた水野さんが子守唄を歌う冒頭、しかし芳雄さんの登場とともに一歩踏み出せば彼女はイアソンの叔父役になったところで、この芸達者な皆さんが見せてくれるこれからの展開を思い、ぞくぞくと身震いした。加茂さんの王も、月光から外れた子供も、表現力の引き出しを存分に披露してくださり、心を持って行かれた。芳雄さんがプログラムの中の座談会で「全員野球」と称していたけど、その通りだなぁ。特にこの3名は、舞台から捌けてすぐ戻ってきたかと思えば、性別も年代も超えて何者かに変身しているし、捌けなくても、前述した水野さんのように一歩踏み出せば別の何者かへと遂げている。
今まで観劇した作品で、ストプレにジャンル分けされる『千と千尋の神隠し』『キングダム』にも出演されていた三浦宏規さんだが、メディアの可愛らしい弟も演じ、メディアの子供も演じ、子守唄も歌い、イアソンと雄牛との闘いのシーンではその持ち前のバレエで培われたキレのよい舞を惜しみなく見せながら“炎”まで演じ、その闘いの後にはイアソンが雄牛を手なづけ次の目的地へと進む時間を表すかのような“昇り、やがて落ちる陽”まで演じていた。先に述べたようなこれまで観劇した作品や、ミュージカル『レ・ミゼラブル』の中でも舞台の真ん中に立つ求心力やスター性を存分に発揮されていた中で、今回のような場面毎に何にでもなれるカメレオン性を発揮されていて、その技量の豊かさに唸る。

演劇は豊かで自由 照明の効果など

どうしてもミュージカルと比較してしまうけど、音楽がないからこその「余白」をとても感じて、音楽があるからこそ心臓を釣り上げられるような感動の相乗効果を感じていた今までと比べ、余白があるからこその自由を感じた。普段私は観劇前にほぼ予習をしない怠惰な人間で、それは複数回観劇する演目の場合は初見の感想を楽しみたいのと、1回きりの観劇でも予習なしで楽しめる界隈に居たいという甘えもある。勿論、突き詰めて勉強されてる方は素晴らしいし、作品と真摯に向き合う姿勢として本来それが望ましいし、作品へのリスペクトの最たるものなんだと思う。これは自分自身の怠惰を認めざるを得ないが、お恥ずかしながら、私は初日観劇時にこのギリシャ悲劇の結末だけは知っていたものの、「きんようもう」って何だろう?後で調べよう、って考えたりして、集中力を切らしていた。(「金羊毛」に脳内変換できず)
でも、演劇は豊かで自由だからこそ、どんな感想を抱いたって許されると信じてる。だから私も感想をこうやって感想を書く。この演目が伝えたいことの半分も理解できていないかもしれなくても。完璧を追い求めずとも。
ストーリーの真髄に入る前に触れておきたいことが、シンプルだからこそ際立つ舞台セットと照明。最低限まで削ぎ落とされ、余計なものが何もない。なのに、今どういう状況なのかが伝わる。三角形だけで船上を表し、三角や四角を組み合わせてできた隙間がメディアとイアソンの2人だけの逃避行の終着地になる。メディアが幸せを感じられていたのはきっとここまでかもしれない。演劇って可能性に溢れてるんだと改めて胸が熱くなった。

公式で舞台写真がアップされていて、どのシーンも本当に美しくてため息が出る。個人的に好きだった照明の使い方がいくつかある。まずは、自分の不幸せを嘆き自ら命を断つことも選択肢に入れ葛藤する夜を過ごすものの、差し込む朝日の光で生きることへの執着を取り戻し、心惹かれるイアソンに会いにいこうとメディアが決意するシーン。暗闇に差し込む陽の光が鮮やかだった。
あとは、わざと逆光のようにして客席から見える演者の顔を真っ黒にしてシルエットだけ浮かび上がらせる照明の技術。金羊毛を手にしつつも船を進めることができずにイアソンとメディアが共に立ち尽くす、干からびそうな絶望感。我が子にも関わらずメディアに殺められた子達が舞台奥に確かに存在していたにも関わらず、死後を暗示するためなのかシルエットのみが伝わる、のっぺらぼうのような恐ろしさ。
最後に、イアソンの二面性というか、どうしようもない人間だと理解させられるような照明。メディアではない女を妻に迎えた後のイアソンが、金羊毛を肩にかけ、暗闇の中で上手から登場するシーンは、彼の語る内容が進むにつれ、表情を明るく照らすようになり、言い訳の下に隠れた本性を炙り出すような照明に鳥肌が立った。
森新太郎さんの演出作品と言えば、私の中で切っても切り離せない絶対的な作品が、ミュージカル『パレード』だ。今回の『メディア/イアソン』と同じく、史実に基づく悲劇であり、そしてこちらも視覚的な演出が本当に思い出深い。

正義と悪と使命と宿命 芳雄イアソンに絆されるな

抑えきれない衝動の正当化、人は変わらないんだと言う諦め。この演目、メディアが自分を捨て他の女を妻に迎え入れたイアソンへの復讐のために我が子達を手にかける第四幕に向かって走り続けていたんだ。前半の、ロミオとジュリエットの許される家柄同士の恋を彷彿とさせるような、親が許すはずのない異国の者同士の逃避行は、クライマックスの最大の悲劇へと向かう究極のスパイスとなっていた。前半がピュアで不器用で甘いほど、後半に響く。イヤミスと称される小説の読後感のような、カタルシスとは反対の気持ち悪さに胸焼けするよう。
メディアは、イアソンに裏切られたからその残酷さを顕にしたのではなく、その素質は初めから持っていたのであろう。父である王が自分とイアソンを追ってくるのを足止めするために、自分に勝手についてきた弟の身体をばらばらにしてまで父の足止めの材料として利用してしまうのだから。南沢奈央さん、我が子を殺して返り血を浴びたメディアがとても美しかった…メディアとイアソンという通し役を演じる2名は燻んだアイボリー、何役をも演じる3名は黒。そうやって衣装の色にも統一感を持たされていた中で、突如として現れる鮮血の色の衝撃。限界を超えて振り切った、もはや一周回って心が凪いでるのではとすら思わせられる落ち着いた様子から感じる恐ろしさ。事の顛末を知り、怒り狂って袖から飛び出してくるイアソンに向かって、「全てあなたへの復讐のため」だと言い放って去っていくメディアに清々しさすら感じる。とはいえ、我が子も、憎き元夫の妻やその親も、誰を対象とした殺人の前でも、身が引きちぎられそうなほど壮絶な葛藤をするメディア。前半パートの、父に許してはもらえないだろうイアソンへと惹かれる気持ちを自分の命を断つことで消そうとする、南沢さんのメディアが見せてくれる等身大の葛藤に惹かれて応援したくなったからこそ、イアソンに裏切られて復讐を果たす後半パートは、たとえ非道な行いとはいえ同情を禁じ得ない。
イアソンへの復讐として人の命を奪おうとするときの葛藤は、『レイディマクベス』で天海祐希さん演じるレイディが自分達マクベス夫妻が王権を得るために事を犯そうとする「私にはできる、望めばすぐにでも」と何度も繰り返す二幕冒頭のあのセリフを思い出した。口に出すことで鼓舞する様子は他人事と思えず自分まで応援したくなってしまう。

今回、歌を封印した芳雄さんのイアソンは、なんだかこちらも絆されてしまう魔力がある。豹変したメディアの前で言い訳を述べる姿を正当化してしまいそうな自分がいて、飲まれそうで恐ろしかった。自分は間違っていない、当然のことをしたまでだ、お前と別れて別の妻を迎えることは仕方のないことだった、皆もそう思うだろう?そんな同調圧力。畳み掛けるようなセリフの中で客席を見回すのが本当にずるいし、突然声を荒げ、これまで肌身から離すことがなかった金羊毛を叩きつけてまでメディアに浴びせる暴言。でもやっぱり芳雄さんの空間支配力はピカイチで、絶対的な正義はこちらなのかもしれないと心が迷いそう。絆されたくない。だからこそこの配役なのでは?そうやって腑に落ちた。今回、メディアだけでなくイアソンまでタイトルロールに含まれているのは、イアソンの立場でもこの演目を見届け、イアソンの愚かさを嫌でも感じられるように、そして、イアソンのせいでこんなことに…という敵役の奥深さを感じさせるような構成故なのかな。その構成にしっかり説得力を持たせる芳雄さんの名演は素晴らしくて、世田谷パブリックシアター主劇場の約600席というキャパで彼から浴びせられる理不尽が本当に癖になるのはファンだからなのかな…いや、でも絆されたくない、今回は。芳雄さんによる、初めは情けないけど応援したくなるし、金羊毛を手に入れるためにコルキス王に見せる従順さやメディアに向けるまっすぐな眼差しと愛には心溶かされそうになるし、金羊毛を肌身離さず持ち歩く姿にくすぐられる、そんな前半パートの「英雄 イアソン像」に惹かれてしまうことも相まって、ファン心理と闘う公演期間になりそうだ。
16歳、そうは見えないかな…みたいなセリフで初日は客席から笑いが起きていたけど、ムーランルージュのクリスチャンよりも若い年代から始まるものの、数十年を跨ぐ話で、頼りない青年が英雄になり、英雄から狂い果てるまでを描かれるのだからやっぱり適任だ。16歳で金羊毛を探す旅の途中、床に両手をついてまでコルキス王に懇願する時に長めの髪が揺れてどきっとして、金羊毛を手に入れて自国へ帰りメディアを捨てた後は権力者の風貌さながら髪をオールバック風にまとめ、自分の周りの方の命が次々とメディアに奪われたことを知ったイアソンがまとめ髪の面影はどこへやら16歳の時以上に乱れていたことが、全てを得たはずの彼が全てを奪われた証拠のようでもあって。今回、髪が長めな芳雄さんのビジュアルに夢中になってる。ヘアスタイルのアレンジがもたらす効果も絶大だ。そして、一昨日は上手前方で観劇していたので、大きめの足跡と共に、メディアめ、と既に袖に居る時点から声を轟かせ叫びながらの登場、震えるわ…凄かったな…表現者としての真髄を見た。
金羊毛を見つけ、抱きしめ、それ以降身につけて離さない。スヌーピーに出てくる終始毛布を手放さず引きずっているライナスのように、金羊毛を手放さないイアソンからは、その腕っぷしの強さを更に印象付けるような英雄としての象徴であり、腕っぷしの強さに隠された内面の弱さ、立場や権力に縋る愚かさ、そんなところにも二面性を感じる。

イアソンへの復讐としてメディアが選んだ方法が、イアソン自身の命を奪うのではなく、イアソンが大切にしている新妻や子達の命を奪うこと。「死は逃げ場ではない」という別のミュージカルのセリフを思い出してしまうけど、簡単に死なせてなるものか、生きてこそ苦しめといった怨念を感じて、益々好きだ。芳雄さんだけが歌うシーンがなかったけど、4名が歌っていたのはメディアの祖国の子守唄。メディアと、彼女に育てられた子供達しか知らない曲。イアソンは自国でメディアを異物扱いするものの、この子守唄の歌い手にイアソンが入っていないことで、彼こそに異物感を感じる。しかし、メディアがイアソンの新妻へ子供達をし向け、婚礼衣装を預けて「燃える花嫁」とさせる直前、子供達とイアソンを再開させるシーンでは、メディア以外の誰がこの後の惨劇を想像しただろうか。イアソンと3人の子供が無垢な笑顔で笑い合うその光景から、もしもイアソンがメディアを裏切ることがなかったら。そんなifの世界を願いたくなってしまう。

イアソンの新妻の父にあたるコリントス王に嗜められるほど裏切りの絶望の果てを漂うメディアの呻めきも、自分が愛したものが皆無惨な死を遂げたと知るイアソンの呻めきも、慟哭というよりも無機質なサイレンのようで、その単調さがとても恐ろしかった。人は身体に血が通ってようと、心は簡単に死ぬ。ただ、メディアの独白の中で語られていた「怒りこそ人類の災い」、これに意味を持たせたのはメディアのみであり、イアソンは怒り狂えどメディアへの復讐はせずその場を去る。そこに違いがあり、性差などでは語れない、メディアだけがそうせざるを得なかった衝動の証明なのだと思う。イアソンは最後、狂い果てたというよりも、金羊毛を手に入れる前に戻ってしまったかのような幼い怪獣のようだった。ここで2人の勝負が着いたのだ。本当に、人間の性(さが)など、何年経ったって変わらないものだ。

加茂さん演じる、月光から外れた子のセリフで終幕となるが、2人の兄妹を手にかけ、自分も殺めようと迫ってくる母から逃れ、朝日に導かれるように進もうと語る姿は希望なのか悲劇なのか。まだわからないけど、前半パートでイアソンへの想いを封じずに彼に直接会ってみようと誓う、生きる力が湧いてくるような朝日が差し込むシーンの伏線のようにも感じた。

とりあえず今日はここまで。あと数回の観劇、大切に観ます。

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