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鳥が死んでいた

一匹の鳥が私の家の前で死んでいた。とても綺麗に横たわっていた。

きっと、数時間前までは生きていたんだろう。その見た目からは鳥の体の柔らかさを感じた。生きている鳥を見て、柔らかさを感じたことなんてなかったクセに。

電車の中で大きな虫が飛んでいた。虫は苦手だ。私は近くに飛んでこないように祈り、虫が近くに飛んできちゃった人はただ逃げる。

あるサラリーマンらしき人物が、読んでいた雑誌で虫を叩いた。虫はぱたんと床に落ちた。私はとても安堵した。でも、ちょっと可哀想だと思った。

鳥も虫も、今日自分がその人生を閉じることになるなんて思わなかったかもしれない。でも、生き物は自分がいつ死ぬのか分からないのだ。もちろん人間も。

少し前、祖母が亡くなった。ピンピンコロリという言葉がぴったりな最期だった。その死後のおよそ3日後に、家で見つかった。一人暮らしで、自由気ままに生きていた。冷蔵庫には、亡くなる前日に食べたのであろう、かつ丼の残りが入っていた。ドトールのレタスドッグの残りも入っていた。その部屋から自分が死ぬと思っていたような痕跡は、何一つとして、見つからなかった。むしろ、続いていくはずの日常があった。

祖母の死は、私に「人の未来なんて誰にも見えない」ということを強烈に残した。

私も家族も、祖母はあと10年は生きると思っていたし、たぶん祖母もそう思っていたと思う。人間が明日、いや1秒先にどうなるのかなんて誰にもわからない。未来なんて誰にも見えない。生き物は無力なのだ。

でも祖母の死は、私にプラスな感情も与えてくれた。

見えないんだったら、何でもやってみよう。

やりたいことを、今やる。食べたいものを、今食べる。簡単そうで難しい。でも、先が見えない私たちが後悔なく死ぬには、何でもすぐにやってみることが不可欠なのではないか。

私たちは、1秒1秒死に近づいている。これは紛れもない事実だ。死から遠のいていく人間は、現在のところ存在しない。生まれた瞬間から死に近づいているのだ。

小学生の頃これに気が付いたとき、自分が何のために生きているのかが全くわからなくなった。その答えはまだ見つかっていない。きっと、死ぬ1秒前に分かるのではないかと思っている。

その答えを見つけるためにも、私は何でもやりたい。やって「ああ、自分はこれをするために生きてたんだ」って思えるような経験に出会いたい。

今はそのために、生きている。






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