抑うつ状態と診断された闇に葬りたい1年半 ④

おはようございます!

流夏です^^

今日も前回の続きをつらつらと書いていこうと思います。


心療内科2軒目のクリニックに通い出した私。

当時は、幻聴を抱えていました。

耳元でひたすら悪口を言われるのです。

それと、当時持っていたガラケーの情報が抜かれているんではないかと思っていました。

なので、携帯電話を壊してしまいたいとさえ思っていました。

そんなとき。

ある朝眠剤を飲んで起きて、重い身体を立たせようと踏ん張ったところ、

「バキッ」



「。。。?????」


見事に踏んで真っ二つに破壊しました笑。

念願叶って(?)壊れてしまったために、この被害妄想(?)からは解放されました。


あとは不眠。

目を瞑ると、嫌な過去が走馬灯のように襲ってきました。

それを思い出しては感情失禁する。


そんな毎日の繰り返しでした。


辛かったです。


死にたかったです。


自分なんて居なくなってしまえばいいと思っていたからです。


私は、昔は外罰的なところがあり、八つ当たりをしたりすることが多かったです。

ですが、社会人になったときに、これじゃいかん、と思い、

内罰的になったのです。

そのおかげで、何もかも自分が悪いと思うようになっていました。

それが積もり積もって、強い自己否定へとつながり、うつになっていました。

幻聴は、常に聴こえているわけではなく、スイッチが入ると止まらなくなる、という状況でした。


例えば、人混み。


過去に私を関わっていた人たちが、みんなでこっちを見て笑っている、

だとか、クリニックへの移動中などによくありました。


そのため私は、幻聴をかき消そうと、イヤホンをして音楽に没頭しました。


でもこれって、実は理にかなっていたんです。

音楽療法っていう治療もあるくらいですからね。


そんなこんなで、その苦しいときは1年半続きました。

3か月の療養を繰り返して、気付けばそんな時間が過ぎ去っていました。


必死でした。


とにかく、必死でした。


でも、この1年半の中で、得たものもありました。


それは、母との絆でした。


私は、父親が大好きでした。

ケンカばかりしていましたが、仲良しでした。

母親は、弟と仲良しでした。

中学時代に母親を泣かせてしまったことがあり、そこから母親とは自然と距離を取っていた気がします。


なので、大学時代や就職してからも、母親と連絡を取る、なんてことは、

そうそうありませんでした。


でも、仕事を休むことになったときに、

頼れるのは母しかいませんでした。


そのとき母は、仕事もしていなかったので、私の療養生活を全面的に支えてくれたのです。


療養は、主に実家でしていたのですが、母親とよく話すようになったのです。

そこで、今まであったわだかまりや、行き違いに気付き、

関係を再構築することができたのです。


やはり、家族は大事ですよね。


母親も母親で、自分が産んだ娘がこんなになってしまって、

育て方を間違ったんじゃないかとか、色々苦しんでいたみたいでした。


だから、私は元気に生きていくことが、何よりの親孝行だと思っています。


こうして、1年半の療養生活は、過ぎ去っていきました。


そして。

休職届を出し続けていた私でしたが。


ついに、職場復帰をするか、退職するかの選択を迫られるのです。


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