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卒業制作について Vol.1 (制作背景)

京都芸術大学 通信教育部 デザイン科 グラフィックデザインコース 2023年度卒業制作を補足する記事をご用意しました。

私の卒業制作それ自体についてはWEB卒展ページからご覧くださいませ。

Vol.1では、本卒業制作の制作背景について補足します。


1 卒業制作のテーマと意義


法は、基本的に言語として存在しており、一般的には「読む」対象です(※1)。

法は、言うまでもなく、それ自体が言語的な所産として存在している。「法とはなんですか」という中学生の問いに対する最も簡明な答は、たとえば、日本のような国なら、「六法全書に収められているものが」、また英米のような法体制のもとにおいては、「判例集に載ってるものが」、法である、という解答であろう。法は、我々にとっては、こうして活字に印刷された言語的表現として存在しているのである。

林大・碧海純一編『法と日本語 法律用語はなぜむずかしいか』(有斐閣、1981)はしがき 1頁

しかし、法は読みにくい文章とされがちで、時には「悪文」とまで言われます。「法、わかりにくいもの」を解決すべき課題と据え、学んだデザインによってなんとかしてやろうというのが卒業制作の基本方針です。

デザインとは、自己表現ではなくなんらか課題の解決のためにする、概ねこのような定義だと学びました。実際、身近で法はわかりにくいという声を聞いたので、一応の意義はありそうです。加えて、少し調べてみると、この課題にはもっと深い意義もありそうです。

民主制の法治国家のもとにおいては、法の文章は、できるだけわかりやすいことを要求されるが、同時に、表現の厳密さ、正確さと言う要求にも応えなければならない。この二種の要求は実際には必ずしも両立しないことがあり、両者の間にいかにして妥当な調和点を見出すか、というところに専門家の苦心があることを一般の読者に理解してもらいたいというのが私どもの念願である。

同前 3頁

似たようなことを穂積陳重がずいぶん前に指摘していました。『法律進化論』(岩波書店、1924)では、君主的・貴族的国家と民主国家の法の文体を対比して、民主国家の法の文体は、ひろく人民一般がわかるように平易なものであるべきと述べています。この点を、前記引用書に寄稿している横田喜三郎は以下のようにまとめています。(穂積の原文がしんどいので、こちらを引用します。)

明治時代の法律学の大家であった穂積陳重博士は、その名著『法律進化論』のうちで、「難解の法文は、専制の表徴である。平易な法文は、民権の補償である」と述べられた。まことに、堅苦しい文体、荘重な文章は、威厳をもち、人民を法律の前にひれ伏させる。それは専制の表徴であり、手段である。平易な法文は、人民に法律をよく理解させ、その権利を知らせ、これを主張させるようにする。それは民権の保障であり、法律の民主化につながる。

横田喜三郎「憲法のひらかな口語」 前掲書266頁

このように、法をわかりやすくするこころみには、実は民主国家のためにするという意義もあるようでなのです。卒業制作のテーマにするには十二分です。というか持て余します。なので、Vol.2で説明する通り、実際の制作ではグッと射程を絞りました。

こうした法の「わかりやすさ」に関する研究(法の文体や形態に関する研究)は、それ自体でもおもしろそうですね。リーガルテックなどが盛んな現代では、法=印刷された活字とはもはや限らないようにも思いますので、いまあらためて法の文体論・形態論をやってみる余地もあるのではないかと、漠然と思うところです。(※2)

※1 キーワードになる「法」ですが、卒業制作でも記事でも厳密に定義して使っていません。
※2 引用文はいずれも言語表現としての「わかりやすさ」を問題にしているところ、卒業制作はそもそも別の表現の可能性を考えているので、結構盛大にジャンプしている。

*穂積については、九州大学の西村友海先生からご教示いただいて知ることができた。心より感謝します。九州旅行するする詐欺してごめんなさい。


2 「法を、みる。」というコンセプト

(1)カタチから考える

リサーチはそこそこに、具体的にどんなものを作るのか検討しました。まず、作品全体を通底する「コンセプト」を定め、それに従って個別具体の作品を作っていくことにしました。

私たちは法学部の学生を対象にした講義で、アメリカ合衆国憲法をまとめた小冊子を演壇に置き、これは何だろうと問いかけた。
「憲法です」と何人かが答える。
「違う。もっとよく見て」
「基本的な権利です」と、別の学生が答える。これもはずれ。もっとよく見ないと。
(中略)
それも違う。他に誰かいないだろうか。みんながつぎつぎ挑戦したあと、ようやくひとりの学生から期待通りの答えを得られた。
「紙の束です」
正解は、紙に書かれた言葉。結局のところ、法律とは紙に書かれた言葉だ。

ベンジャミン・ファン・ロイ他、小坂恵理訳『人を動かすルールをつくる 行動法学の冒険』
(みずす書房、2023)8頁

このくだりが気に入りました。言葉でしたためただけで、どうやって人の行動を変化させることができるだろうか。人間の行動をもっとよくみなければならないのではないか。同書は、曰く「行動コード」から法を分析します。このような行動経済学絡みの法学研究(アーキテクチャ論やナッジ理論など)に大なり小なり影響を受け、身の回りをよく見て、カタチとして眼に見えるものをきっかけに法の新しい表現を探れたらおもしろいのではないか、というのが具体的なアプローチ方針となりました。法について「見たまんま」から考えてみるというのは、新鮮で、読むよりは「わかりやすい」かと思った次第です。

たとえば、いわゆる「排除アート」

ちなみに、前記引用箇所の直後、「(…結局のところ、法律とは紙に書かれた言葉だ。)法律に関するデジタルデータベースが開発され、0と1の二進法で言葉が表現されるようになるまでは、常にそうあり続けてきた。」と続きます。やはり、ひとえに法は言語として存在しているとは言っても、もはや印刷された活字のイメージに限られないのだと思います。

(2)田中一光の「観察」

法典を見て「紙の束だ」と言ってのける「見たまんま」の眼差しは、対象をじっくり観察するというデザインの基礎かと思います。「観察」については、日本を代表するグラフィックデザイナーである田中一光の説明が気に入っています。

私たちの仕事の原点は、まず観察することである。世の中を観察する。人間を観察する。文化を観察する。
(中略)
観察すればするほど新しい興味もわいてくる。さらにアンチテーゼをもつこともできる。
正確な観察があってこそ、正確なアンチテーゼをもつことが許される。私たちの仕事にとって、このアンチテーゼをもっているかどうかは非常に重要なことである。
アンチテーゼは、発想に直結する。つまり、見方を変えるためのエネルギーである。

田中一光『デザインと行く』(白水社、1997)24頁

法をじっくり(見たまんまの眼差しで)観察した結果、法とは紙に書かれた文字。それは、長大で、難解で、絵がなくて、ひたすらに黒々としたビジュアルにうんざり、わかりにくいし、近寄りがたい。これをなんとかできないものか思った。デザインの力で法の表現をなんとかできないか、いっそ「見る」対象にしてしまえないか、前のめりに言うと法は言葉でなくてはならないのか、というささやかなアンチテーゼを持ってみた、という感じです。
(なお「観察」といえば、人類学領域に大きな蓄積があるような気もしたのですが、今回は残念ながらそこまでリサーチの幅を広げることができませんでした。)

(3)「みる」について

前置きが長くなりました。そこで、通常は「読む」対象である法を、「みる」としてみた次第です。

ひらかなで「みる」としているのは、「見る」に加え、「観る」、「視る」、「診る」など、幅広い認識手段を含意したかったからです。特に、視覚以外の認識の余地を(ムリヤリでも)込めています。例えば「造形」を観察することです。美学に明るくないので不正確かもしれませんが、「造形」という言葉には、単に眼に見えるカタチや色を云々するのみならず、素材、その感触、熱、匂い、あるいは空間そのものといった、視覚も含め全身の感覚で認識する対象というイメージを持っています。このように、視覚をも超えた認識方法で「法」を観察することを、「みる」というひらかな表現に託しています。

こうして私の卒業制作は、「法を、みる。」というコンセプトの下、法それ自体をグラフィックデザインの力で表現してみることになりました。

Vol.2では、「法を、みる。」というコンセプトの下で、具体的にどのような制作をしたのかを説明します。


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