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法務部員、美大へ行く。 #06 / ビジュアル表現の生きる場所をノイラートに学んでみる

このシリーズは、企業法務に従事する筆者が京都芸術大学でデザインを学んだ理由を開陳しつつ、筆者自身があたまの中を整理しようとするものです。私の卒業制作についてはこちら。


先日「法務部員、美大へ行く。 #05 /判例の図解、それは卒制の没案」を投稿して以来、図解やビジュアル表現についてふわふわと考え続けている。そこで、とりあえず思いついたことを忘れないようにメモする。

オットー・ノイラートは図説言語を構想し、「アイソタイプ(ISOTYPE)」というプロジェクトを実践した。これはこんにちの「ピクトグラム」の源流とされる。”ISOTYPE”とは”International System of Typographic Picture Education”の略称である。ただし、この”Education”は、オットー・ノイラート(水原康史訳)『ISOTYPE』(BNN、2017)の注釈にいわく、同書はC.K.オグデンのベーシック英語で書かれているため「本書で頻繁に出てくる『教育』『教師』は学校教育やその教員だけに留まらず、広く学びの場をイメージして読んでいただきたい。」(16頁)とのことで、広めの意味を持つ。ノイラートは自身の図説言語の限界についてこういう。

…図説言語の用途は通常言語のそれよりも大幅に限定される。意見の交換や感情の現れ、命令などを示す目的には使えない。図説言語は通常言語と競合するものではない。その限られた範囲内で役に立つものなのである。とはいえ、意味のない言葉にあふれている通常言語より、意味のない言葉の使用を強いられることが少ない。ベーシック英語が明瞭な考えに基づく教育であるのと同様に、図説言語もその限定を理由に、明瞭な考えに基づく教育なのである。

オットー・ノイラート(水原康史訳)『ISOTYPE』(BNN、2017)30頁

オリンピックのピクトグラムや非常口をみていると、ビジュアル表現は言語の壁を越えたコミュニケーションを実現してくれそうに思え、すごく魅力的に見えてくる。そのこと自体はノイラート自身がアイソタイプで目指したところであるし、「言葉はへだたりをつくり、絵はつながりをつくる。」(前掲引用書、27頁。強調は原文ママ)と述べるとおりではある。が、それが機能する場面もまた世界共通で限られているであろうことには注意が必要だ。ノイラートはそれを「教育」としたようである。

目で見ればすぐにわかることでも、言葉で伝えるのが非常に難しいということはよくある。図説で明確にできることは、言葉にする必要はない。その一方で、言葉で簡単に説明できる内容でも図にするのは難しいことがある。教育ではこのふたつをうまく組み合わせる必要があり、教育システムはどういった目的にどちらの言語が最適なのかを見極めなければならない。

同34-36頁(35頁は図版)(強調は筆者)

ノイラート流図説言語は通常言語とは全く違う構想であって、競合したり純粋に置き換わるものではない。目的や場面に応じてうまく使い分けるか、組み合わせる。これは現代のインフォグラフィックや広告でも同様であろう。アイソタイプのメリットについて、ベーシック英語の考案者オグデンは次のように述べる。

彼のアイソタイプは、国境を越えるデザイン力と図説そのものをわかりやすく伝える能力に加えて、眼を楽しませるシンプルな性質を有している。

同121-122頁(強調は筆者)

言語表現を使うべきか、あるいはビジュアル表現を使うべきかの判断基準はおそらく数あれど、うち一つ、とりわけビジュアル表現の有する無二の力は視覚的なおもしろさや楽しさであろう。ふと「おもしろい!」「楽しい!」という気持ちを沸き起こすことがとりわけ必要な場面、たしかに広い意味での「教育」が代表例となりそうだ。学校教育もそうだし、年齢を問わず誰かを新しい分野へ導きたい時に当てはまろう。現に、私の卒業制作も、高校生向けの「教育」的な内容だった。

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最後に、法律分野に寄せて考えたい。

私の趣味に引きつけて一例。クラシック音楽鑑賞を関心のない誰かに薦める時、初手としては、実際にコンサートに行ってもらうのが一番いいと思っている。「(CDやYouTubeを通じて家で)聴いてもらう」ではなく、実際に行ってもらうことが大事である。生音の良さ以外にも、コンサートホールという特殊な空間、平日夜や休日を彩るイベント、演者との距離感、客席との一体感、あるいは咳やフラブラなどのノイズも含め、心地よいとか気持ち良いではなく、とにかく、おもしろい体験としてクラシック音楽鑑賞を発信できる。これを言葉で書くのはとても難しい。言葉を使うとなると、どうしても一部に偏ってしまい、鼻につく感じになったり、強い言葉になったりして、クラシック音楽鑑賞のおもしろさ全体を伝えることが難しいだろう。言葉では表現し尽くせないことを、コンサートという体験が伝える。なお、コンサートから帰ったその人にさらなる推薦を行う場合は、一度コンサートを経験したことを踏まえ、別の考慮に基づき行われる。

このように、伝えたい事柄が言葉に依存していない場合には、言語表現orそれ以外の表現かを選びやすい。しかし、法律はそもそもが言語的な存在である。

法は、言うまでもなく、それ自体が言語的な所産として存在している。「法とはなんですか」という中学生の問いに対する最も簡明な答は、たとえば、日本のような国なら、「六法全書に収められているものが」、また英米のような法体制のもとにおいては、「判例集に載ってるものが」、法である、という解答であろう。法は、我々にとっては、こうして活字に印刷された言語的表現として存在しているのである。

林大・碧海純一編『法と日本語 法律用語はなぜむずかしいか』(有斐閣、1981)はしがき 1頁

法律はそもそも存在自体が言語表現なので、そら情報伝達の手段としても言語表現の範疇で行うことが手っ取り早いだろう。なので、法律とビジュアル表現の相性はあまり良くない、と正直なところ思っている。法律領域におけるビジュアル表現の相性悪さは、#05で少し述べた通りである。なお、相性悪さの理由について他にもアテがあるのだが、それはまた別の機会に(ざっくりいうと、ビジュアル表現や図解には「断言」するような雰囲気があると思うため)。

そこでノイラートに倣うと、(広い意味での)「教育」における利用がいちばんわかりやすいと思う。なかでもとりわけ、ビジュアル表現の持つ「眼を楽しませるシンプルな性質」を活用しがいのある、無関心から関心を生み出す段階の教育かなと思う。つまり、高校生向けの教育や、一般教養書のような法学書、など。

なんだか、使える場面がすごく限られているように見えて少し寂しい気もするが、前掲書のタイトルが「法律用語はなぜむずかしいか」と自覚している通り、法律は人を遠ざけるようなミテクレをしているのだから、とりわけ難儀している領域への打ち手にはなるだろう。




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